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「君ささげる応援歌」

作者: 小川敦人

「君にささげる応援歌」


 体操というスポーツは、華麗で華やかだ。

 美しく舞い、力強く着地するその姿は、どんな芸術作品よりも心を奪う。

 宮田笙子の演技も、例外ではなかった。


 跳馬台に向かう宮田笙子の顔が、モニター越しに映し出された。

 その表情は、鬼気迫るもの。口を結び、眉を吊り上げ、闇に立ち向かうような鋭い眼差し。恐怖と闘うその姿に、私の胸は激しく揺さぶられた。


 けれど、その直前までの彼女は、まったく別人のようだった。

 演技前の柔らかな笑顔。

 晴れやかに笑うその表情は、まるで少女のように無垢で、美しい。

 演技の合間、演技後の笑顔は、見守る者の心を温かく包む光のようだった。

 しかし、跳馬に向かう助走と跳躍の瞬間には、その笑顔は一変する。

 目を見開き、眉を吊り上げ、口元を固く結ぶ。

 華やかな舞台で笑顔を見せる彼女が、跳馬の瞬間だけはすべてを賭ける戦士のような顔になる。

 そのギャップに、私は胸を締めつけられた。


 背景には、あの曲――「君にささげる応援歌」

 ♪希望胸に扉開いて行こう

 低く抑えられた伴奏に、かすれた歌声が重なる。


 私はその歌を口ずさみながら、彼女の復活を祈った。

 なぜなら、彼女はただのスポーツ選手ではない。私たちと同じように、ひとりの人間なのだ。


 宮田笙子は19歳。

 若さの特権に酔いしれる時期に、都内で喫煙や飲酒が確認された。

 日本体操協会の行動規範などに違反したとして、パリオリンピックの出場を辞退する決断を迫られた。

 大会中のことではない。けれど、夢に賭けてきた舞台を目前にして、自らの行いで出場の権利を手放した。

 世間は冷たかった。

 「失望しました」

 「甘さが招いた当然の報い」

 ネットに溢れる言葉が、彼女の心をどれだけ傷つけただろう。

 あの時の映像を思い出す。

 報道陣の前で、言い訳もせず、震える肩を必死に抑えて謝罪する姿を。

 若さゆえの過ち。

 それでも許されないのが、夢の舞台という場所だった。


 だが、私には分かる。

 ♪半端なぬるい気持ちじゃ諦めもつきやしない

 この歌がある限り、人は何度でも立ち上がれる。

 その応援歌を、私は今、彼女のために心の中で流していた。


 長嶋茂雄が亡くなった。

 かつて長嶋茂雄もまた、多くの人に感動を与えた。

 娯楽の少ない時代にヒーローとして、そして「ミスター」とさえ言われた。

 時代は終わった。けれど、その精神は若者に確かに受け継がれていく。

 野村克也が語った言葉が思い出される。

 「長嶋は太陽、私は月見草」

 華やかな光と、その陰に咲く小さな花。

 スキャンダルにまみれた宮田笙子は、まさに月見草のようだった。

 けれどその小さな花が、いま再び陽の光を浴びようとしている。


 動画は跳馬台に向かう宮田笙子の横顔を映し出す。

 演技前には、あんなにも優しい笑顔を見せていたのに。

 助走に入った途端、まるで別人のような形相。

 恐怖と羞恥をすべて背負って、ただ一歩を踏み出すための顔。

 ♪どうせ自分なんかって逃げ出さないで

 歌詞が、まるで彼女の心に寄り添っているように聞こえた。


 公園のベンチでスマホを取り出し、動画を何度も見返す。

 踏み切る瞬間、必死に足を蹴る音が聞こえる。

 回転する空中の姿は、一度失った夢を取り戻そうとする戦士のようだ。

 ♪立ち上がろうとする君に捧ぐ

 歌詞が心を震わせる。

 やがて、着地。

 揺れる体を必死に抑え、ついに静止する。

 その瞬間、彼女は再び笑顔に戻る。

 演技を終えた安堵と、観客の前に立つ誇りの笑顔。

 そのギャップに、私は言葉にならないほど胸を打たれた。


 その時、ふと思う。

 物を書くことは、感動することだ。

 感動する心を持つことの大切さを、改めて感じる。

 笑顔と戦う顔――その間に潜む小さな物語を拾い集めることが、私にとっての「書くこと」なのだと。


 長嶋茂雄が去り、太陽はもうない。

 けれど私には、宮田笙子の必死の姿が胸にある。

 笑顔と戦う顔の間を行き来しながら、華麗に舞うその姿に、私もまた救われる。

 彼女が背負う過去の過ちも、いまは跳馬台の上で祓われたように見えた。

 「君にささげる 応援歌」

 この歌は、彼女のためだけではない。

 私自身のためでもある。

 そして、失敗しても、恥をかいても、また歩き出そうとするすべての人のためにある。


 缶コーヒーの温かさが手に心地よい。

 私はその小さな温もりを胸に、歩き出す。

 跳馬台に向かう鬼気迫る顔と、華やかに笑う顔の両方を思い出しながら。

 ♪戦い続ける君に捧ぐ

 明日を生きるための応援歌を、私もまた口ずさむ。

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