潔癖騎士は地味聖女を溺愛している
「ひどい、ひどいわ!」
バサバサと乾いた洗濯物を取り込んでいると、薄いピンクの髪を振り乱して同僚が教会へ戻って来ました。泣き叫ぶ彼女のただならぬ様子に、他の同僚達も数名が駆けつけます。
庭の端に集まって、彼女をなだめているようです。
「泣いてるわ」
「どうせほら、王国騎士の『白百合卿』よ。またこっぴどく振られたんでしょ」
「一人残らず振ってるって噂の? 声を掛ける勇気だけは称えるけど」
「え、あの子くらい可愛かったらアタシならチャレンジしちゃうかも!」
洗濯物を取り込む作業を続ける側の子たちもまた、好きなようにお喋りを始めました。
白百合卿というのは、王国騎士団に所属するエースのこと。実力があって大活躍なさっているのはもちろんですが、眉目秀麗であるが故に若い女性たちの心を掴んで離さないのだとか。
けれど、声を掛ける全ての女性を手ひどく突き放すことでも有名。それでついた二つ名が白百合卿……美しくて威厳があって汚れがない、とかそういうことらしいです。
「目の前で手を洗ったのよ! わたしが思わず彼の手を握ったからって。ゴミを見るみたいな目だった!」
庭の隅っこから半ば絶叫のような悲痛な声が聞こえてきました。
私たちは顔を見合わせて肩をすくめるしかありません。白百合卿は極度の潔癖症だそうなのですが、これは双方不幸な事件でしたね。かわいそうに……。
「でもそんなに潔癖な人、うまくいっても苦労するだけじゃないかなぁ」
私は取り込んだ真っ白なシーツに防汚の魔法をかけながら、そう呟きました。だって手を握っただけで目の前で洗うってよっぽどですもの。日常生活もいろいろと不便がありそう。
すると私と同じチームの同僚であるナディアが、閃いたとでも言うように人差し指を立てます。
「アタシたちみたいな浄化の術士ならどう? 白百合卿のことずっと浄化してあげられるわ」
教会に奉職する私たち聖術士はその名の通り聖属性の魔法、つまり「浄化」と「治癒」に関する魔法が使えます。と言ってもどちらも使える人は稀で、浄化と治癒それぞれに得手・不得手があるのが普通です。私なんて浄化特化で治癒はてんでできないし。
だからチームが分かれているのですが……。治癒は怪我や病気を治すものだし、浄化は瘴気などの悪いモノを消し去るもの。どちらも大事な仕事ですが、治癒チームのほうが華があることは確かでしょう。
ピンク髪の子を慰めていた治癒チームのひとりが、ずんずんと大きな足音をたてながらこちらへやって来ました。
「聞こえたわよ。彼は騎士様なの、治癒術士でないとお支えできないのよ。浄化術士ごときが出しゃばらないで」
「あら、白百合卿は戦っても鎧さえ汚さない強さだと聞くわ。治癒術士こそ必要ないんじゃない?」
「なんですって?」
「アニャもそう思うでしょ、浄化の聖女と呼ばれるアニャならきっとお似合いよ」
なんでここで私の名前が出て来るの!
「そんな! 私は白百合卿のこと知らないし、それに――」
「浄化の聖女って言ってもこんな地味な子、白百合卿が選ぶはずないじゃない」
「アニャは可愛いでしょうが! ちょっと上向いた鼻だってご愛嬌よ!」
私を挟んで口論するふたりに溜め息が漏れます。完全に巻き込まれたんですけど。
治癒と浄化はお互いにあまり仲が良くないため、事あるごとにこうして口論になるの。
「ふたりとも落ち着いて……。私が地味なのは公然の事実だわ」
「そうよ!」
「違うわよ!」
「と、とにかく! い、今のはナディアが良くなかったと思う。人間の身体ってほら、そう綺麗なものではないでしょう? いくら浄化できたって、キキキキスひとつできないし」
「だったら治癒術士なんてもっと無理ね!」
「んもう、ナディア! きゃー痛いっ、ちょっとふたりとも!」
あれよあれよという間に、ふたりは髪を掴んだり服を引っ張ったりしての大乱闘になってしまって、さらにその乱闘になぜか私まで巻き込まれて。最後は様子を見に来た司祭様にこってり叱られたのでした。
その夜、私はアミュレットとして機能するよう祈りを込めて、タッセルを作ったりハンカチに刺繍をしたりして過ごしていました。
すると窓がコツコツと軽く叩かれ、私の名を呼ぶ声がします。
「アニャ」
「こんばんは、ザイン。今日は遅かったのね」
窓の向こうにいたのは幼馴染のザインです。
彼も王国騎士なのだけど、癖のある髪は騎士と思えないほどもっさりして、前髪で目元がすっかり隠れてしまうほど。切ったほうが素敵よって言っても、他人と目を合わせたくないからいいんだって。
ただ私と二人だけになると、その前髪を後ろにかきあげて宝石みたいなアメシストの瞳がこっちを見つめてくれる。私はその瞬間がたまらなく好きです。
「いつものしごきが始まっちゃってね」
「団長の機嫌が悪かった?」
「とびっきりね。アニャは今日はどうだった?」
「ナディアがまた治癒の子を挑発して大変だったの! そりゃ私は地味だけどさ」
ザインは暇な夜には必ずここへ来て、世間話を少ししてからアミュレットを大量に持って帰るのです。騎士ですから同じ部隊の人たちに配ってるんだと思います。聖術士のアミュレットは正規のルートで買うと結構なお値段だものね。
うんうんと笑みを絶やさないまま話を聞き終えたザインは、最後に私の栗色の髪をひと房掬いあげてキスをしました。
「怪我はしてない?」
「もちろんよ。擦り傷があったけど、それは治してもらった」
「まったく……。そもそもアニャは地味じゃないよ。おっきなヘーゼルの目も小さな口もすごく魅力的だ」
「ふふ、そう言ってくれるのはザインだけだよ」
「みんな見る目がないんだね。あ、そうだ。ドーナツを買ってきたんだけど」
差し出されたドーナツは一部にチョコレートがかかっていて、すごく美味しそう。彼の手からそのままパクっといただきます。表面はサクサクで、中はもっちり。チョコの苦みがドーナツの甘さを一層引き立てていました。
「んー、美味しい! チョコがあんまり甘くなくていいね! もうひと口ちょうだい」
「もちろん、たくさん食べていいよ。でもひと口は残しといて」
私たちは昔からこうやってひとつの食べ物を分け合うことが多かったのです。別に貧しいってわけではなくて、ふたりでかぶりついて食べたほうが美味しいし楽しいから!
潔癖な白百合卿はこの楽しさを知らないんだろうなぁ、なんて思っちゃったりして。
「やっぱり絶対ザインがいいよ、ザインだってすっごくかっこいいし!」
「いきなりなんの話?」
「こっちの話!」
ドーナツを食べ終えて、いつものように紙袋にまとめたアミュレットを渡すと、彼は少しだけ緊張した面持ちで口を開きました。
「明日さ、休みがとれたんだ。フローレンス通りで祭りがあるらしいんだけど、一緒にどうかな」
「ほんと? じゃあ私も午後から時間を空けておくわ。こないだナディアの仕事を代わってあげたから、協力してくれると思う」
フードを深く被って立ち去るザインを見送って、私はワクワクしながらベッドにもぐりこんだのでした。
◇ ◇ ◇
翌朝、食事をしながらナディアと午後のお仕事について交渉していると、治癒チームがキャッキャと騒ぎ始めます。
「アニャ、見て。カロリーヌとタリサ、すごいおめかししてるわ」
「どこかへ行くみたいね」
カロリーヌは昨日大泣きしていたピンクの髪の女の子です。小柄で猫みたいな目が魅力的。タリサは昨日の喧嘩からもわかる通りナディアの天敵で、すらっと背の高い女の子。
治癒チームのみんなが服やアクセサリーを持ち寄って、ふたりを可愛いくしようと躍起になっています。
「今日はほら、お祭りだから。しかもね、白百合卿も休暇をとってるらしいって噂」
「えぇ? 白百合卿とお出掛けするってこと?」
「ううん。もし彼がお祭りにいたら昨日のことを謝りたいんだって」
「そうなのね、素晴らしい心掛けだわ」
「えー? アタシには下心が透けて見えるわ。白百合卿はそろそろ叙爵されるって噂だし……なんとしてもお近づきになりたいって強い意志を感じる。ていうか、白百合卿だって望んでないと思う」
昨日のことを反省したのか、ナディアの声は私にしか聞こえないくらい小さい。タリサも服選びに夢中でこちらのことは気にしていないみたいです。
玉の輿って夢があるものねーなんて曖昧に頷く私に、ナディアの声も元の大きさに戻りました。
「それで、アニャは誰と?」
「もちろん幼馴染よ」
「あー、あのモサモサ君ね。名前忘れちゃったけど」
「もうモサモサ君でいいわ。何度言ったって覚えてくれないじゃない」
教会の朝の食事はいつも少し硬いパンと薄味だけど野菜たっぷりのスープ、それに採れたての卵で作ったスクランブルエッグです。ナディアは塩を摘まんでは卵に振りかける作業を三度して、フォークを片手にこちらに向き直りました。
「王都に来てからモサモサ君がお祭りに誘ったの初めてじゃない?」
「あ……そうかも?」
「このお祭りでさ、聖女フローレンスの像の下でプロポーズしたら幸せになれるってジンクス、知ってる?」
「そりゃあ、王都にいて知らない人はいないわ。ってまさかそんな!」
「で、アニャは何を着ていくの? おめかしするわよね?」
ナディアの言葉に反応してか、こっそり話を聞いていた他の浄化チームの子たちがずいっと前のめりになります。これは嫌な予感……!
「わ、私は別にこのままでいいわ。そんな柄でもそんな仲でもないし」
「何言ってんのよ、モサモサ君をドキッとさせなくちゃ!」
午後になって、私はみんなに応援されながら教会を出ました。白地に小花柄のワンピース、首元にはナディアに借りた小さな薔薇の細工のネックレス。素材は貝だと思うけどまったり光ってとっても綺麗なの。
待ち合わせ場所は聖女フローレンス様の像の前。ナディアの話を聞いたあとだとなんだか緊張してしまいます。
ザインとの出会いはもう十年以上前。私に聖術の才能があるとわかって、領主様にお呼ばれしたときのことです。初めて行った領主邸はとっても広くて、ちょっとお庭を見せてもらうつもりが迷子になってしまって……。
庭の隅で人の気配があったので案内を頼もうと近づいてみたら、私よりいくつか年長の男の子がすすり泣いていました。それがザインだったのです。
私の故郷は隣国との国境にあり、領主の熊みたいな侯爵様は屈強な騎士団をお持ちでした。ザインもまた騎士団に奉職していたのですが、その日は生まれて初めて生き物を己の手で屠ってしまったと。
生温い返り血を浴び、命が尽きるのを見つめるうちに恐ろしくなったと言っていました。今もまだ自分がその血で汚れているような気がするとメソメソする彼に、浄化の魔法を使ってみせて慰めたのを昨日のことのように覚えています。
それから数年後、私の浄化の力が強いと話題になって王都行きが決定すると、ザインも王国騎士団への奉職を決めてすぐに追いかけて来てくれたのでした。慣れない王都での生活も、彼がいてくれるから頑張れるし……それで友情の中に恋心が芽生えてしまうのも、自然と言えば自然なことです、よね。
少し早めに出たつもりでしたが、待ち合わせ場所にはザインがすでに待っていました。背が高いから見つけるのが簡単でありがたいわ。
「お待たせ。もしかしてずいぶん待った?」
「いや、さっき来たところだよ」
たくさんの人出があるからでしょうか、ザインの瞳はモサモサの髪の毛ですっかり見えなくなっています。さらにマスクで鼻から下を覆っていて、お顔全体が隠れる状態に。
「風邪?」
「いや」
「わかった、お仕事ズル休みしたんでしょ」
む、と小さく睨みつけるとザインはくつくつと笑って首を横に振りました。
「休暇はちゃんととったさ。人混みの中にいるとたまに喉が痛くなるから、念のためね」
「じゃあ私が――」
「ほら、もう行こう。せっかくのお祭りなんだから、仕事は忘れて羽を伸ばそう」
顔周りの空気を浄化しておいてあげようかって、問いかける暇もなく。ザインは私の手をとって歩き出します。
ふふ、やっぱりプロポーズなんてなかったし、おめかしにも気付いてなかったわ!
◇ ◇ ◇
街はそこかしこに音楽が溢れていて、人々も、それに私とザインも気の向くままに踊りました。その合間にはチェスを楽しむおじ様たちの対戦を応援したり、あるいは私たちも輪投げやダーツに興じたり。
遊び疲れてベンチに腰掛けると、ザインがクレープと果実水を買ってきてくれました。もちろんひとつずつをふたりで分け合っていただきます。それが買い食いの楽しみですからね。
「ね、そういえばザインは白百合卿って知ってる?」
「えっ? うん、そりゃあもちろん。白百合卿がどうかした?」
「私って浄化チームじゃない? 瘴気が発生しても、現場に行くのは白百合卿の部隊が魔獣を倒して安全を確保してくれた後でしょう? 彼に会ったことがないから気になっちゃって。どれだけかっこいいのかしらって」
「はは、普通だよ」
「えー? 女の子たちはみんな好きって言ってるのに」
嘘ばっかりって文句を言う私の口にザインがクレープを突っ込みました。甘い、美味しい、甘い。生クリームにベリーのジャムが甘酸っぱくて。まったりしたバターの香りが後を引きます。
「白百合卿だって大勢にモテても嬉しくないんじゃないかな」
「まぁ彼には彼の苦労があるだろうなとは思うわ。……そうね、きっと私、華やかな治癒チームに少し憧れてたのかも。みんなと同じ話題ではしゃいでみたかったんだと思うわ」
「浄化だってすごく重要で華のある仕事だ。それに、白百合卿のこともそのうちわかると思うよ」
「有名人だもんね。ありがと、元気出た」
食べ途中のクレープをザインの口元へ運び、マスクをずらした彼がそれにかぶりつきます。
そのとき、聞き慣れた声が私の名を呼びました。
「アニャだわ。おとなしい子でもデートはするのね」
「服はあんまり似合ってないけど、でも地味同士でお似合いだわ」
カロリーヌとタリサです。おとなしい人間という自己評価ではないのだけど、と思ったけどなるほど、地味を言い換えるとそうなるんですね。
「わぁ偶然だね。ふたりともお祭り楽しんでる? 目的は達成できた?」
「楽しんではいるけど、いちばんの目的はまだ」
ため息交じりに肩を落とすカロリーヌ。ナディアは下心だって言うけど、好きな人に近づきたいって気持ちは私も理解できます。
「そっかぁ。会えるといいね」
「うん。もう少し捜してみる。ってか隣はアニャの彼?」
「えっとね、彼は幼馴染で――ちょっと、私の手まで食べないでよ」
ザインが大きな口を開けてクレープを私の手ごと食べてしまいました。確かに残り少なかったし、お喋りに夢中で放っておいたのは悪かったけど。んもう、今日のザインはちょっと変だわ。
カロリーヌとタリサもザインの奇行に目を丸くして彼を見つめちゃってます。
「ねぇアニャ、その人……!」
「え、嘘でしょ。なんでアニャが? だってその人白百合卿じゃ――」
「白百合卿? がどうしたの?」
カロリーヌとタリサが同時に口を開きましたが、その言葉が発されることはありませんでした。というのも大声で何事かを叫びながら、こけつまろびつこちらへ走って来る人がいたせいです。それはもう慌てた様子で、何かから逃げているみたいな。
「たたたたたた大変だ! しょ、瘴気が!」
彼は確かにそう叫びました。人々が一斉に彼を見、そして彼の指さす方へと視線を移すと……。
確か以前は救貧院だったと思うのですが、特徴的な黒いモヤが廃墟を包むように湧き上がっています。瘴気とは生物を弱らせ、病気にしたりあるいは魔物に変えてしまったりする厄介なもの。予兆もなくあらゆる場所に発生しますが、小さいまま自然に消えてしまうことも多いのです。
それがまさか、あんなに大きくなるなんて。放っておけば野犬が魔獣化するとか、裏手の墓地から骨が起き上がってくるとかしますから、すぐにも対処が必要です。
「私、行きます!」
「あんな大きな瘴気を、ひとりで? 聖女とか言われて勘違いした感じ? 白百合卿がいるからっていい気になってるの?」
立ち上がった私にタリサが呆れたように眉根を寄せますが、だからって人を呼ぶ暇はないです。瘴気は驚きの速さで大きくなっていくんですもの。なんで白百合卿の名前が出て来るのかもよくわかんないですけど、今はそんなこと気にしてる場合じゃない。
「俺も行く。ちょっと待ってて」
ザインもまた立ち上がって、近くの鍛冶屋へと駆け込んだかと思えば剣を手に戻ってきました。そっか、今日は休暇だから武器を持っていなかったのねと納得。
モヤに包まれる廃墟へ一歩踏み出したとき、カロリーヌが私たちを呼び止めました。
「わ、わたしも行きますっ! 治癒ができるので!」
「必要ない。ひとを見た目で判断したり、アニャを軽んじたりする人間の世話にはならない」
「ザイン? そんな言い方」
「行こう、アニャ。俺が絶対守るから」
「う、うん」
ザインは髪をかきあげながら後頭部でひとつに結び、私の手を取ります。いつもと違う、鋭く光るアメシストの瞳。
私だって怖くないわけじゃない。だけどザインが一緒だから大丈夫。頷き合って廃墟へと向かいました。
◇ ◇ ◇
シャルーメル救貧院と書かれた建物は黒いモヤに覆われています。鍵を壊して門を抜けたところで、一度立ち止まって自分たちに瘴気の浸食を防ぐ結界魔法を。
「廃墟なのが救いだな。魔物はそう多くないと思う」
「ギャーギャー聞こえるけど、あれはなぁに?」
「コウモリだね。もう魔獣化してる」
「なるほど」
廃墟にはちょっとガラの悪い人が集まりやすいと聞いたことがあります。でもここは門も正面玄関もしっかり施錠されていたし、窓も割れていませんので許可のない人間の出入りはないみたい。つまり、大型の魔獣はいないだろうと思われ。そっと胸を撫でおろしてエントランスへと入っていきます。
「瘴気の中ってこうなってるのか」
「ザインは瘴気に近づいたことはないの?」
「俺たちは真っ先に出向いて魔獣の数を極力減らすのが仕事だから、原則として瘴気の近くには行かない。浄化役の護衛はまた別の部隊だしね」
「第三騎士団ね、いつもお世話になってるわ」
建物のどこかからギャーギャーと魔獣の騒ぐ声が聞こえるほかは、とても静かなものでした。私たちは退路と背後の安全を確保しながら、モヤの濃いほうを選んで進んでいきます。どうも地下が発生源みたい。
途中でネズミみたいな魔獣が数匹襲い掛かってきましたが、ザインが華麗に対処してくれるので大丈夫。私が治癒チームだったらザインと一緒に仕事ができたかもしれないって、いつも思っていたから……不謹慎ながらちょっとだけ嬉しいです。
「戦うことはもう怖くないの?」
「俺も大人になったってことさ。……完璧じゃないけど」
「恐怖心は大事よ。身を守ってくれるんだから」
明かりのない地下はただでさえ暗いのに、瘴気の影響も手伝って前方に伸ばした手さえ見えなくなってしまいます。
ないよりはマシか、とザインがランタンを見つけてきてくれました。どうにか灯りを点せば、前進できるくらいの視界は確保できたのでよかった。
安全を確保しつつ地下を一歩一歩進んでいくと、最奥の扉から最も嫌な気配がしました。魔獣の多くもこの扉の向こう側にいるようです。
「かなりしっかり管理された建物ね。これだけの魔獣が街へ溢れなかったのはそのおかげだと思う」
と言っても、コウモリにしろネズミにしろ、野生の動物たちが出入りする綻びはどこかにあるはずで。魔獣化した彼らが綻びを広げて出て行ってしまう前に、どうにかしなくてはいけません。
「シャルーメルだぞ、俺たちの領主様だ」
「……え、あの熊さん侯爵? ならそのお名前に傷がつかないようにしないとね」
シャルーメルは私たちの出身地であり、領主はシャルーメル侯爵様です。といっても地名である前に、この国ではファミリーネームとして一般的なので気付かなかった。
ザインが私の前に立ち、ドアハンドルへ手を伸ばします。
「さっさと片付けて、祭りを満喫しよう。準備はいい?」
「ええ、いいわ」
キィ、と音をたてて扉が開くと、闇の中でさらに闇がうごめいた気がしました。
そして次の瞬間には赤く鋭い瞳が一斉にこちらを見、襲い来る魔獣の群れ。コウモリとネズミがほとんどだけど、他にも何かいるような気がします。ランタンが照らすのはザインの背中とたくさんの真っ赤な瞳だけで、状況はよくわかりません。
私はザインの背中に隠れるようにして浄化魔法を唱えます。
「大きさも濃度もご立派だわ。浄化には時間がかかりそう」
「ああ、ゆっくりでいいよ。落ち着いて」
どれくらい時間がたったでしょうか。私たちの足元に魔獣の骸が折り重なり、血の匂いが充満してきたころ。少しずつ周囲のモヤが晴れて視界もかなり広がりました。
襲い掛かってこないまま、部屋の隅でこちらを凝視するばかりの魔獣もいくらかいるようです。ザインはわざわざ彼らに近づいたりはしません。きっと私から離れないようにしているのでしょう。
「そろそろ私たちの結界を張り直さないといけないんだけど」
「浄化が終わればそれも必要ないんだよね? 魔力の残量にもよるだろうし、浄化優先でいいと思うよ。判断は任せるけど」
「ん」
上階はまだ瘴気が残っているでしょうし、結界の貼り直しは必要です。が、今は根源となる核の浄化を優先したいところ。
あらためて浄化に精神を集中させたとき、こちらの様子を窺っていた魔獣が数匹動き出しました。最も奥にいた猫型の魔獣が低い唸り声をあげると、その他の小さい個体が一斉にこちらへ飛び掛かってきたのです。
もちろんそれはザインが対処してくれたものの、隙をついて猫魔獣が部屋を出て行ってしまいました。私たちが来た道は、すぐに退却できるようすべての扉を開け放してあります。背後から襲われることのないように、退路以外の扉を固くとじることも忘れていません。
つまり何が言いたいかというと、ここを出て行った魔獣は一直線で正面から外へ出ていけるということです。
「ザイン、追って!」
「でも」
「もうここに魔獣は残ってないでしょう? もし何かあっても少しの間なら結界で自衛できるから。私の魔力がなくなる前に戻って来て」
「……わかった!」
ザインは無造作に私の頭にキスをして、急ぎ部屋を出て行ったのです。
◇ ◇ ◇
彼の足音が聞こえなくなると、途端に周囲が静けさに包まれました。
ここまで何体もの魔獣をそつなく退治してきたザインだもの、ちょっと大きくはあったけど、猫の魔獣一匹に手こずることはないでしょう。だから私も浄化に集中したいと思います。
じわじわと小さくなっていく瘴気。そこには安堵こそあれ喜びや感動はありません。
王都の警ら隊や、ときにはお金持ちのおじいさんなんかが教会に治癒を求めてやって来ます。そう、治癒をするのは公職に就く人か大金を払った人と決まっているので。もちろんその大金は生活に困る人々のために使われるのだから、誰も文句は言いませんけど。
私たち浄化チームは怪我や病気が治った人から感謝される治癒チームを、いつも遠くから眺めています。ご家族が抱き合って喜び、この喜びを分かち合おうと治癒術士にもハグをして。
毎年お手紙をよこす人もいますし、どこかで顔を合わせることがあれば感謝の言葉とともに近況を報告する人もいます。恋に落ちたと言って花束を持って教会に通う警ら隊さんもいる。
一方私たちは、瘴気が発生すれば呼ばれますが……危険ですので一般の人が私たちの仕事を見ることはありません。ちょっと蜂の巣を駆除してほしいと呼ばれる何でも屋さんみたいな、いえ、もっと空気のような存在なのです。
中には私たちのことを治癒術士の見習いや、雑用係だと思っている人もいるほどで。
――魔力量も素晴らしいが、この魔法技術の巧みさは他の聖術士より頭ひとつふたつ抜きん出とるな。浄化の聖女と言えよう、誇りなさい。
私にそう言ったのは司教様です。
ザインを喜ばせようと色々な聖術を試した結果の技巧が、私を聖女と呼ばしめた。それでも、浄化術士の地位向上にはなんら貢献できなかったわけですけど。
「……大元は終わり、ね」
瘴気の核がすっかり消え去ったのを確認して、ため息をひとつ。あとは周囲や上階に広がった瘴気を綺麗にすれば終わりです。そちらもしっかりやらないと新たな核となりかねませんが、浄化チームの仲間が到着してからでも間に合うでしょう。
「ザインは大丈夫だったかし――ヒィッ!」
振り返ろうとした私の背後で、バサバサとたくさんの物体が落ちる音が。驚きのあまり肩がぎゅっと小さくなって、心臓も破裂するかというくらい飛び跳ねました。
逃げるように部屋の奥のほうへと走り、思い切って振り返ります。武器になりそうなものを探してみたものの見つかりません。かくなるうえは拳で……!
けれど、私が先ほどまで立っていた場所にうずくまっているのは、魔獣ではありませんでした。
「ザインッ?」
ザインです。怪我でもしているのでしょうか、小刻みに震える彼に駆け寄って声を掛けます。
「どうしたの、怪我をした? 大丈夫? すぐに治癒術士を――」
「違う」
「違う? 怪我じゃないの?」
「アミュレットが切れた、全部。血が」
「アミュレット?」
よくよく見れば、彼の周りに散らばっているのは私がいつも作っているアミュレットでした。それらが色あせた……すっかり効果の切れた状態でいくつも転がっているのです。
「アニャ、頼む。早く浄化してくれ!」
彼の隣に膝をついた私の肩を、ザインが震える手で掴みます。彼の胸元には、いえ、頬や腕にもべったりと返り血がついていました。館に入る前にかけた結界魔法が切れたのでしょう。あの魔法は私のオリジナルで、防汚の効果もありますから。
とにもかくにも、初めて出会ったときのようにメソメソしているザインをどうにかしてあげなくては。
「落ち着いて。大丈夫よ。すぐに綺麗にしてあげるわ。すぐだからね」
縋るように私の腰に手をまわすザインの目には涙が浮かび、初めてあった日の彼を思い起こしてしまいます。私も幼い子どもを諭すように声を掛け、彼の全身をくまなく浄化して。
「さぁ、もう綺麗になった。自分で確認してみて?」
「……ああ、よかった。もう大丈夫。ごめんね、アニャ」
長いため息をついて、彼が私から身体を離しました。
「ちょっと驚いたけど問題ないわ。もしかして、戦うのは平気でも血に汚れるのはダメなままなの?」
「そう。血に限らず、生き物の体液が無理だ。そのせいで、他人に触れられるのも気持ち悪く感じる」
「そうなの? 全く気付かなかったわ。私の前でそんな素振り見せたことないし」
触れられることさえ嫌だと言いながら、たったいま私に抱き着いていたじゃないの。それにしばしば私と食べ物だって共有してるのに!
いつものザインを知っているとにわかには信じがたい話です。でも、涙目で震える彼を見てしまっては信じざるを得ない。
「アニャは平気だ。アニャに汚いところなんて何もないから」
「そ、そういうことにしとこっか」
私も生物ですし、それなりに汚い部分はたくさんあります。身体中の穴という穴から体液も出ますし。
とはいえこれは気持ちの問題ですから、あえて否定はしません。彼の言い分を正したところで、私に触れられなくなることはあっても、嫌悪感が払拭されることはないでしょう。
「いつもはアニャのアミュレットがあるから大丈夫なんだけど、今日は戦闘中に全部効果が切れたみたいで」
「なるほど。結界魔法の効果が切れたうえに、上階には瘴気が溜まってたから……。ていうか、だからいつもあんなに大量にアミュレットを持って帰るのね? みんなに配ってるのかと思ってたわ」
「全部俺のだよ。俺はアニャに生かされてるんだ」
すっと立ち上がったザインが私の手をとって立たせ、ハグをしてくれました。
幼少期のトラウマが治っていなかったというのは驚きだけど、でも私がザインの生活を支えられていたのなら嬉しいなと思います。
「じゃ、行こうか」
私たちは再び自身に結界を張って、館の中の瘴気を隅々まで綺麗にしてから外へと出たのでした。
◇ ◇ ◇
エントランスから一歩外へ出た瞬間、私たちの足がはたと止まります。
「え、なに、これ」
「ずいぶん集まったなあ」
外はすでに暗く、星が瞬いています。
門の向こう側で警ら隊が必死になって押し留めているのは民衆でした。誰も彼もが救貧院に向けて手を振っていま……いえ、私たちに向けて、のような気がしてきたかも。本当かしら。
「行こう」
微笑みながら手を差し出すザイン。
私がその手を取ると、彼はゆっくりと門へ向けて歩いて行きます。民衆の声がさらに大きくなりました。
「聖女様だ!」
「わたしたちの王都を守ってくださった!」
「浄化の聖女!」
「ありがとう、ありがとうございます!」
浄化の聖女って誰ですか。私ですか。
念のため後ろを振り返ってみたけど誰もいません。私のことみたいです。
「ふふっ。アニャのことだよ」
「すっごい感謝されてるわ」
「あの巨大な瘴気を瞬く間に浄化したんだからね」
「と……当然のことをしたまでよ」
「でも嬉しい、でしょ」
門が開くとさらに一歩近づこうとする人たち。ザインがとっても嫌そうな顔をしました。
と、そこへ前方からザッザッと統率のとれた足音がして、人々が左右に分かれていきます。目の前に現れたのは王国騎士団でした。
「団長、聖女の護衛任務お疲れ様でした!」
団長?
驚いて見上げたザインはおすまし顔です。
「来るの遅くない?」
「裏手の墓地を警戒しておりました!」
「なるほど。俺、今日は非番だし報告書も明日でいいよね」
「もちろんであります!」
「この人たち、怪我しないように誘導して。俺もアニャも祭りを楽しみたいんだ」
音がするほどの勢いでビシッと敬礼をした騎士さんたちは、警ら隊と一緒になって民衆の誘導を始めました。
おかげさまで私たちは悠々と人々の間を抜けることができます。
「団長なの?」
「そうだよ」
「昨日しごかれたって」
「俺の機嫌が悪かったからしごいた」
「アハハ、なにそれ」
しごかれる方だと思って同情してたのに、まさかしごくほうだったなんて!
想像したら面白くなってしまって、ザインの肩をばしばし叩きました。通り過ぎる人たちは笑顔で手を振ってくれて、私も少し慣れてきたので振り返します。
「それで、昨日はどうして機嫌悪かったの?」
「いきなり手を握られた。アニャも知ってるだろ」
「……んん?」
私の頭の中で、色々なことがパズルのピースのように組み上がっていきます。
「つまりザインが――」
「きゃー! 白百合卿よ!」
「聖女様ちょっと距離近くない? 怒られないのかな」
私が何か言うより先に、通りすがりの女性が黄色い声をあげました。
やっぱりザインが白百合卿だった。確かにカロリーヌとタリサもさっきそう言ってた。
「なんで言ってくれなかったの」
「えぇ? なんか聖術士の人たちに『うちのザインが白百合卿です、今度ご紹介しますね』とか言いそうじゃない?」
「なっ、そっ、わけ、や、言わないよ……?」
「そう? どうして?」
「だ……って、私、ザインが……え?」
ザインのこと好きだもの、って言おうとしたのに。彼は足を止め、人差し指で私の唇に触れました。
きょとんとする私に微笑みながら、頭上を指差します。
「愛の聖女フローレンス様だ」
「そうね?」
何を当たり前のことをと首を傾げると、彼は苦笑しつつ私の前に跪きました。いつの間にやら、彼の手には百合をかたどった指輪が。
「アニャ、愛してる。俺と結婚してほしい」
「あー。えっ……と。私ね、ずっと、ザインには相応しくないって思ってたの。見た目も仕事もこの通り地味だし」
「何言って――」
「でも! でもね、今日は色々考えを改めさせられたの。地味とか華やかとかそんなことどうでもよくって、直接の感謝があろうとなかろうとみんなが安心して暮らせるならそれでよくって。だって私のことは、見てて欲しい人がいつも見てくれて、ずっと頼ってくれてた、から」
剣を振るえば血が出るのは当たり前で、それでも騎士として頑張るザインを私は尊敬するし支えたい。いえ、支えていられたことが本当に嬉しいし、誇りに思います。
私がそう言うと、彼はホッと小さく息をついて私の指に品良く光る銀色の指輪を嵌めました。
「結婚してくれる?」
「ええ、もちろんだわ!」
私が頷いた、そのときでした。鋭い女性の声が飛んできたのです。
「浄化はできても、ただの人間だわ! 人間の身体は綺麗じゃないって、アニャだって言ってたじゃない!」
「カロリーヌ……」
カロリーヌがこちらを睨みつけていました。
でも彼女の言う通りです。結婚するのなら、先に私の身体の七割が水分だって説明しておかないといけなかった。
「あのね、ザイン。わかってるとは思うけど」
すっと立ち上がったザインは私の腰に手を回して抱き寄せ、顎を掴んだかと思うと唇を重ねたのです。一瞬のことで頭が真っ白。
周囲からはたくさんの女性の叫び声があがり、そして小さなリップ音とともに彼のお顔が離れていきました。
「アニャに汚いところはない。なんの問題もない」
「とととととと突然すぎる! ばか!」
吐き捨てるように言うザインに抗議したものの、彼はまるで聞く耳を持ちません。初めてだったのに! もう!
でも多くの人は私たちを祝福してくれていて、気が付いたら笑っていました。ザインは私が特別なのだと示してくれたってことですもんね。そう思ったら嬉しくなって、私もそっと背伸びして彼の頬に口付けをしたのでした。
それから半年。先行して魔獣を討伐する部隊と浄化チームとが一緒に動く方式が採用されるようになり、ザインは今までの功績から子爵位を賜ったし、私は私で王都全体に結界を張れと命じられてその方法を模索して、とっても忙しくしています。まだ模索中ですけど。
未来は前途多難だなぁと溜め息が出そうになるけれど、ザインと一緒ならきっとなんでも乗り越えられる、はず。貴族のマナーも覚えられる、はず。たぶん。
でもでも、ザインが実はあの熊さん侯爵の次男だったなんて聞いてないんですけどっ!
お読みいただきありがとうございます!
昨日「聖女様をお探しでしたら妹で間違いありません。さあどうぞお連れください、今すぐ。」の連載が完結しましたので!
よかったら読んでってくださいませー!
ではまたなんらかの作品でお会いしましょうー
いつもありがとうございます!




