三(後)
近くのショッピングモールで昼食をとった。僕はついでに大学に着て行く服をいくつか見繕ってもらった。次にRさんは、芦屋にあるKさんの家に行こうと言い出した。実は午後から送別の会を計画していたらしかった。N君も来ると言うから行かないわけにいかなかった。
電車やバスを乗り継いで、午後三時にはKさんの実家に着いた。Kさんの家は一族の本家らしく、彼女は二階建ての立派な一軒家に住んでいた。コンクリート塀の門を抜けると、砂利道が続いていて正面に車のガレージがある。砂利の横には三十メートルほど芝生が広がる庭があり、昭和年間に建てられたと思しき日本家屋が玄関と縁側をこちらに向けていた。芝生の生える庭の奥には、庭木や松、まだ青い柑橘系の実を付けた背の高い木などが植わっていた。
僕は汗を拭い、その場で一周してみた。広々として心が安んじる。あくびをした猫が二階の窓から僕らを観察していた。
Rさんと共に「お邪魔します」と言って横開きの玄関の戸を開け、ガラガラガラと音を立てた。蚊取り線香や旧式の冷蔵庫の匂いがする。石張りの広い土間を見渡す。靴が五組並んでいる。天井は高くて、茶色で太い木の骨組みが通っていた。
僕らは扉を閉めて足を踏み入れた。一段高くなった座敷に腰掛けてスニーカーを脱いだ。すると、すぐ傍の間の障子が開いて、Kさんが出て来た。
「いらっしゃい。暑かったやろ。こっちの客間で涼んでな」
畳敷きの十畳間には、中央に長方形の木製テーブルが堂々と置かれている。お菓子やコップが広げられており、N君が座布団の上であぐらをかいていた。部屋は四方が障子やふすまであった。エアコンが点いている。
Kさんに勧められた通り、Rさんと僕は座る。まだ立ったままのKさんがお節介を焼いた。
「二人とも汗かいてる。今準備するわ」
しばらくしてKさんは麦茶、タオル、何かの紙袋を持って戻って来た。僕はコップのお茶を一口飲むと、紙袋の中身を覗いた。サラダ油や缶ビール、タオル、ゼリーなどが入っている。僕は「何これ?」と訊いた。
「うちに親戚がたくさん来るから、お中元が溜まって困ってるんよ。実家でもどこでも持って帰って欲しい」
「へえ、ありがたいわ」
Rさんはにこにこして受け取った。N君は日焼けした指で僕の肩を叩いた。
「おい、デートはどうやった?」
僕は何と答えようか迷って「ほっとけ」と言い放った。タオルで火照る顔を拭いた。その後はお菓子を食べながらゆっくり過ごした。なんだか数時間後に東京に戻るのが不思議だった。僕はあまりにも自然にこの場所に存在していた。他に僕の居場所なんてあったのだろうか。
六時ごろ、夕飯にしようと言ってKさんが素麵を用意した。テーブルには山盛りになった素麺の大皿が二枚載った。僕たちは各々めんつゆを持って、箸でつついて食べた。めんつゆには冷やすための氷が一つ浮かんでいた。
「ね、A君ちょっと待って」
Rさんが大声を出した。僕は麺を一束つゆに浸けた。
「それ私が狙ってたやつや。赤と黄色と緑が全部入ってる」
僕が箸で掴んだ素麺は、確かにカラフルな麺が混じっていた。そうは言っても今更Rさんに食べさせるわけにいかない。僕は微笑を浮かべてすすってしまった。
「あー、食べた。A君、意地悪や。ひどいー」
Rさんは泣きまねをした。Kさんは「厄介やろ?」と言った。僕はテーブルにあった一切れのメロンを手に取った。N君の手土産を切り分けたものだ。僕はRさんの横にしゃがんで差し出した。
「ほらお嬢さん。一口あげるよ。お食べ」
Rさんはすぐに顔を上げた。「悪いなあ、兄ちゃん。ありがとさん」と笑い、大きくかぶり付いた。僕は仕返しに彼女の頭を優しく小突いた。席ではN君が「行儀悪いわ」と笑顔で文句を言いながら素麺を吸っていた。皆の頭上を照らす電灯が煌々と明るい。
夕食を終えたのは七時半だった。僕らは庭に出て遊ぼうと話した。玄関を出て芝生を踏みしめた。空は情感ある群青だった。気温は高いけれど、涼しい風がわずかに吹き込んでいた。Kさんの提案で焚火をすることにした。僕もちょうど焚火がしたい気分だった。N君は家の裏から捨てられた木材をいくつか持って来た。Rさんはそれを砂利の上に並べ、落ち葉を集めていた。
僕とKさんはバケツに水を汲みに行った。屋外の蛇口を捻ると、極度に冷えた水が出た。井戸水を汲み上げているようだ。二人で芝生の上にバケツを置き、焚き木が出来上がるのを待った。砂利と芝の境界は、浜辺によく似た色の取り合わせだった。
「——そう言えばA君。大学って楽しいの?」
「別に楽しいってもんじゃないよ。勉強する所だもの」
「そうか。友達は出来たん?」
「多少はね」と僕は苦笑した。
「彼女はおらんの?」
「いない。いないね」
するとN君が立ち上がって叫んだ。
「おーい。火がつかないで。木が湿気っとるんやないか」
N君の手にはライターがある。僕らはちょっと落胆した。
「どうしても駄目そうなん? 焚火したかったわ」
Rさんは腰に手を当てて溜息を吐いた。N君はライターをカチカチ鳴らした。
「無理なもんは無理や。どうしてもやりたいなら、海行って流木でも拾って来い」
「嫌や。夜の海なんか近付く所やないもん」
まだ時間も余っていたし、僕はコンビニで花火でも買ってこようかと言った。しかしKさんは、花火ならうちに置いてある、と取って来た。急遽僕らは花火をすることになった。市販の安価な花火セットだった。
蝋燭を砂利の上に立てて、最初にRさんが棒状の花火に火をつけた。熱が火薬に届くと、黄色や緑の閃光が爆ぜた。シューという音がしてシャワーのように火花が流れる。僕は痛快な気持ちで眺めていた。
「あはは、綺麗や。楽しい」
Rさんは笑顔になった。やがてKさんも同じタイプの花火を持った。二人で笑いながら色んな方向に火を動かして楽しんでいる。N君は折り畳み式のチェアに座り、色々野次を飛ばしながら缶ビールを飲んでいた。
「なんでAはやらんねん。お前もやれや」
僕は一本を掴んで、女子の近くに行った。Rさんは光が変色する花火を見て喜んでいた。
「ねえRさん。火、分けてよ」
「ええよ。ほらお裾分け」
僕はRさんの花火に自分のものを近付けた。五秒くらい間を置いて、次第に火が移った。僕はそれを持ってちょっと離れる。すると煙と共にパチパチと弾けるような光が出て来た。
「A君のそれ、めっちゃ綺麗やな。私もやりたいわ」
Kさんが羨ましそうに微笑んだ。Rさんは「せやろ。うちの分けた火やねん」と自慢げだった。薄暗い中でも、足元ははっきり見えていた……。
懐かしい煙の香りが辺り一帯に漂ってきた。僕らは手持ち花火をあっという間に消費してしまった。残されたのは線香花火と置き型の花火だけだ。N君がやって来て「よっこいしょ」とビール缶を芝の上に置いた。そして僕にライターとねずみ花火を渡した。僕は砂利の方で、そのねずみ花火を着火させようと努めた。なかなか火はつかなかった。が、いきなり火を噴きながら回り出した。
「わっ、あっついわ。ちょっ、危な」
飛び跳ねて芝の上に戻った。観賞していた皆は笑った。僕は顔を赤くして花火を見た。赤い光が何度も回転して、のたうち回った。儚くも激しい一瞬の煌めき——こういうものは僕にとって眩しいばかりだった。
その後、噴き出し花火などもやって、しまいには線香花火だけが残された。僕は暗闇に仄めく蝋燭に、線香花火の先を照らした。初めは細かい火花が散った。しばらくその状態が続いた。Rさんは髪が触れるほど近くに屈んだ。僕は彼女のいたいけな横顔を見た。
「それ小さくて可愛いね。私、写真撮りたいな」
「写真じゃ綺麗に映らないんだよ。生で見るしかないんだ」
火はやがて収まって、小さな玉をかたどった。赤々と燃える火の玉だ。
「ずいぶん長持ちじゃない? ふふ、すごい」
「長持ちの方がいいね。これが終われば、帰らないといけないから」
Rさんは潤んだ目で振り返る。僕は何の気なく花火を見せた。この花火の終わりを。火の玉はぷつんと下に落ちた。落ちるとすぐに消えて、どこに行ったのか見えなくなってしまった。
Rさんは「そや」と言い残して、縁側から家の中に戻った。縁側ではKさんとN君が談笑していた。二人はRさんが通り過ぎたのを見て不審そうにしていた。懐中電灯を持ったKさんは、非難がましく僕を一瞥した気がした。蝋燭を吹き消して明るい縁側に向かうと、Rさんが飛び出して来た。手に割り箸が握られている。Rさんはまた靴を履いて、線香花火も掴んだ。芝生に下りて来る。
「見て。こうやって……挟んで上に向けたら、線香花火も落ちないよ」
Rさんは割り箸で花火を挟んで見せた。僕は「そんなわけないだろ」と言おうとした。しかし、意外にもN君が、
「ほんまやな。落とさないようにな、お前は」
と笑った。僕は首を傾げた。結局Rさんは渋々ながら普通に線香花火を燃やした。皆でそれを見守った。八時半になって「お邪魔しました」と言い残し、Kさんの家を発った。途中で住吉の実家に戻り、シャワーを浴びて、荷物を整理する。三人で三ノ宮駅まで行った。Rさんに「また今度」と告げられて駅前で別れた。
時刻は九時半だった。あと三十分でバスに乗らないといけない。どうやって過ごそうか。そう考えていると、N君は無言で歩き出した。僕も黙って付いて行った。異人館通りまで坂を上って行く。洋風のライトが街道を一定間隔で照らしていた。レンガや蔦が視界に入り、少し異質だった。
「お前、Rに引き留められたやろ?」
N君はどこに向かうのか予め決めていないようだった。
「言うておくけど、俺は引き留めへんよ。もうお互い大人やからな。自分の選択には自分で責任取る。責任取れないことはせん。そうやろ? 俺はお前を信頼してんねん」
僕は重い荷物を背負って坂を上がり続けた。体温が上がって汗をかいてきた。そしてN君が足を止めたとき、そこにあったのはそびえ立つ赤い洋館……風見鶏の館だった。それは明治時代、或るドイツ人のために建っていた館の遺構のはずだった。照明が静かに建物を浮かび上がらせている。
「たぶんやけど、お前の問題と俺の問題は、きっとあんまり変わらへん。おんなじことなんやないか」
——N君が抱えている問題。
「それは、お母さんが亡くなったこと?」
「……何や。気い遣わせとったんか。情けないなあ」
N君は自嘲した。左腕にはやはり白い腕時計を着けている。
「だからな、あっちに馴染めなくても心配せんでええ。心の状態ってのは、不安か不安じゃないかの二通りやねん。外の世界はいつも変わらない。変わってるのは俺たちの心の中だけ。不安に思えばそう見える。元気なら、きっと綺麗に見える。それだけ」
僕は何も答えられなかった。僕らがどうこう言っても、もうどうしようもない所まで来てしまった心持ちがした。
「僕はきちんとあるべき場所へ帰るよ」
N君はつまらなそうに僕を見つめた。彼の瞳に映る僕が、夜の海みたいに青だった。駅の方向に坂を下る。最後に僕とN君は楽しい話をした。二人で馬鹿な思い出を話して笑った。甚だ愉快だった。
「ん、あれ何? 人が立ってないか?」
N君は何かを発見した。道路脇を指差していた。見ると、背の高い人影のようなものがあった。彼は僕らをじっと眺めている。歩いて近付いた。
「何や、ただのネットか。旧弊な外人かと思ったわ」
実際は塀の柱にゴミ置き場のネットが引っ掛かっているだけだった。それをちょうどハットやスーツに錯覚しただけだ。N君は溜息を吐いた。風見鶏の館を振り返ると、その姿は魔女の屋敷みたいに窺えた。
「言いそびれてたけどな。俺、高校のときRのことが好きやってん」
「……は? 本当かい?」
「ああ。でも気を揉まんでええ。今は好きでも何ともない。もうああいう子供っぽいのはちっとも好かんわ」
駅で夜行バスに乗り込む。最後にN君と挨拶を交わした。
「ほな、またな」
「うん、さようなら」
僕は荷物を置き、座席に深く座った。窓からN君に手を振った。発車すると、バスはどんどん神戸の街を通り抜けて行った。見慣れた場所を走る間は夜景をじっと見た。そのため僕は飽き飽きするほどその景色を目に焼き付けた。どこもかしこも調和を保った光だ。東京の夜景は違う。秩序が無い。街じゃない。
——大阪の方に近付いて来ると、僕はカーテンを閉めて眠った。たぶん富士山も見ないうちに向こうに着いてしまうだろう。このまま僕を運んでくれたらいい、そう思った。
翌朝七時に東京駅に着いた。僕はバスを降りるとまずコンビニに入った。そこで真っ先に剃刀と髭剃りの棚に行った。僕は執着的に剃刀と髭剃りを見比べた。三分ほどそうしていて、ついに買うのをやめてしまった。弁当の棚でナポリタンを手に取り、レジに並んだ。足元を確認する。神戸にいる間にスニーカーが黒や茶色に汚れていた。
「うちに帰ったら、靴洗わないと……」
お読みいただきありがとうございました。