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夜光  作者: 日野
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三(前)

 朝から三宮に呼び出された。相手はRさんだった。僕は今日の夜十時に三宮駅から夜行バスで東京に帰る手はずになっている。Rさんはもう少し神戸に滞在するそうだから、一度お別れの挨拶をしようと思ったのかもしれない。ともかく「訪ねる」のではなく、「呼び出す」感じがRさんらしくて好もしかった。


「やっぱりA君の方が早いね。そんな気合入れなくてもいいのに」

 僕は約束より、十五分早く待ち合わせ場所に来ていた。今朝のRさんはジーンズ姿だった。確か、吉祥寺で一緒にパスタを食べたときも同じ格好をしていた気がする。


「とりあえず、その、半日付き合って欲しいねんけど」

「何でもいいよ。どうせ僕は帰っちゃうから、今のうちに連れ回してよ」


「もっとゆっくりしてったらいいのに……」

 Rさんは不服そうに見えた。子供みたいに幾分拗ねている。そんなに僕の上京が気に食わないのだろうか。僕は実家に厄介になるのも、東京のバイトや自宅を放置するのもどちらも嫌だった。心の落ち着きという意味で。


 Rさんは市街地を暢気に歩き出した。やがて見覚えのある道筋を辿っているのがわかった。Rさんが向かっていたのは生田神社だった。角張った木の鳥居が見え、狛犬が並んでいた。——阿と吽。Rさんと僕。


「帰って来たよって、神様にもご報告せんとって思って」

「そうだね。お参りしないと」


 奥には更に赤い鳥居もあり、手水舎が置いてある。Rさんに手水のやり方をおおよその理解で教えて、それから巨大な楼門まで行った。赤い門の下で、僕は感じるはずのないひんやりした風を受けた。Rさんはお守りが売っている門の下の授与所に行って、僕を振り返った。


「ねえ、水みくじ二人で買お」

 Rさんが示すのは、水に浸すと文字が浮かび上がる特別な紙で作られたおみくじだった。僕はもちろん同意してお金を出した。積み重なっているおみくじの束があった。僕は一番上を取った。Rさんは財布をしまうと、吟味してから真ん中の方を選んだ。


「これを水に浸けると、おみくじの結果がわかるの。A君はやったこと無いでしょう?」

「無いよ。手洗い場で濡らせばいいの?」


 Rさんは眉をひそめて無邪気に笑った。


「なんでや。A君っておもろいわ。トイレットペーパーじゃないんやから、ふふ」

 手水舎をイメージして「手洗い場」と言ったのだった。冗談を言ったつもりなんか無かった。何だかなと思いながら付いて行き、拝殿に着いた。二人で並んで賽銭箱の前に立つ。僕はまた財布を出していた。


「五円玉ある? 私の五円玉貸そうか」

「五円? あるよ」


 僕は穴の開いた黄色の硬貨を取り出した。稲と若葉のマークが彫られている。ちっぽけな額だった。アルバイトをすれば一分と経たず稼げる。が、僕はRさんが真剣に投げるのを見て、なるべく誠実に放った。二礼二拍手一礼を捧げる。手を合わせて黙想する。暗闇の中で、なぜか波の音が耳に届いた気がした。


「A君は何をお願いしたの?」

 僕はとりあえず家族が元気でいられるようにと祈っていた。


「私は八つお願い事したわ。千年以上ここにおる立派な神様なんやから、ケチなこと言わずに四つくらい叶えてくれるやろ」


 僕は苦笑した。せめて四つくらいお願いすれば良かったと思った。その後、Rさんと共に本殿の後ろに向かった。蝉がじいじいと鳴く森を歩く。石敷きの小径をしばらく行くと、「縁結びの水占い」と書かれた立札が見えた。札のふもとには石や草木に囲まれた小さな池があり、小川と通じている。おみくじを結ぶ台も横に佇んでいた。


「ここでおみくじ見るの」

 僕たちは先ほど買ったおみくじの紙を取り出した。Rさんは池に渡してある小橋の上にしゃがんだ。僕も近くでしゃがむ。Rさんと同時に澄んだ池の水へとおみくじを浸けた。水が冷えている。今日は日が強い上に湿度も高いから、余計冷たく感じた。


「……どうだった?」

「小吉だね。焦る必要は無いって書いてある」

 僕は池から紙を引き上げた。まあこんなものだろうと思った。太陽に当てて乾かした。


「微妙やね。あんま気にせんでええと思うで。真面目に信じんでも」

 Rさんも紙を上げた。そして僕に見えないように手で隠した。が、満面の笑みを浮かべていることからして、結果はわかりやすい。僕は水面に映る僕自身の微笑を確認した。


「うちはな、見て、大吉。万事順調みたいなこと書いてあるわ」

「でも、信じないんだろ?」

「なんで? 信じた方がハッピーだしお得やん」


 僕は「適当だなあ」と笑って立ち上がった。おみくじはポケットに入れて持ち帰ることにした。鳥居を反対側からくぐって出た。そのとき、神社の森で聞こえた蝉の鳴き声を思い出した。蝉の鳴き声は、ずっと誰かの声を紛らせているようでならなかった。その声は確実に僕を呼んでいた——気がした。


 僕たちは神戸の大観覧車の下に並んでいた。Rさんがどうしても僕と乗りたいと言ったからだった。時折海から生ぬるい風が吹き、直射日光が肌を焦がす。暑くてRさんは扇子で顔を扇いでいた。たまに僕も扇いでもらう。こんなことなら夜に来ればいい、と思った。


 観覧車に乗るのは主に子供連れかカップルだ。僕らの前に並ぶのは、半袖Tシャツの黒ずくめの男と、サングラスをかけて腹を出した女の二人組だった。彼らは関西弁でぽつりぽつりと喋っていて、ゴンドラに乗る番が回って来ると、非常につまらなそうに乗り込んだ。次は僕らの番だ。Rさんが先に乗った。赤いゴンドラ……。


「ねえ、さっきの男、臭かったな」

 彼女の第一声はそれだった。僕はゴンドラ内の冷房が涼しいと感じていた。


「前に並んでた男か。煙草の臭いだよね」

 Rさんは大真面目に腕を組んで何事かを考えていた。ゴンドラは波の上みたいに揺れた。


「うち、煙草吸ってる人の臭いが嫌いなんやと思う」

 ——煙草を吸っている「人」の臭い。僕は「へえ」と相槌を打った。


「衣服と言うか、皮膚そのものに臭いが染み着いてる気がするの。しかも臭いだって、ただの煙草の臭いじゃない。あれは人が腐ったみたいな『腐臭』がする」


「ふしゅう? 君は人が腐ったのを嗅いだことがあるのかい?」

「無い。でも、腐った魚の死骸なら浜辺で嗅いだことある」


「どういう臭いだった?」

「腐臭」


 Rさんはそう繰り返した。僕は「ほう」と言ったきり黙った。目線を横にずらした。昨日行った半円形のホテルが対岸に立っている。ゴンドラは四分の一を上り切った。海を眺めていたRさんは次の話題を見つけてくる。


「今日、ほんまに帰っちゃうの? もっとこっちにおったら?」

 僕は「帰るよ」と呟いた。いつか帰らなくてはならない。


「あのな、辛いなら、やめちゃってもええんやで。だーれも責めんで」

「いいからほっといてくれ。そういうわけにはいかないんだよ。わかるだろ。長居したら余計に辛いんだ」

 僕は床に向かって言った。Rさんがどういう表情をしていても知らない。


「A君、消えたらあかんで。辛くなったらいつでも頼って欲しいの。うちはA君の味方や。とりあえず、うちが東京駅に着いたときは、ちゃんとお迎えしてな」


 ——消える? 咄嗟に顔を上げた。Rさんは真剣だった。僕は混乱した。僕はいつ消えることになっていたのだろう。いつから……? 僕は取り乱した結果、ただの微笑を浮かべていた。そして物静かに頷いた。


「Rさんはさ、僕と一緒に過ごして楽しいの?」

 Rさんは頬に手を当てた。やがて屈託なく笑った。


「つまらん」


 僕は反射的に「ごめんな。ほんとに」と謝った。ゴンドラは既に頂点を回ることになる。しきりに海風を受けて揺れた。高所恐怖症の僕は内心で怯えていた。


「謝らんでええよ。A君は確かに面白くないけど、他の男はつまらん上に、面倒くさいねん。くだらない男の話を聞かされるくらいやったら、A君にお話を聞いてもろうてる時間の方が、うちはよっぽど好きやで。最後の日くらい、一緒に居させてや」


 僕は右手をRさんに向けた。Rさんの背後の青空は美しかった。けれど、ふと海鳥の影のようなものが視界に入ってしまった。影はひっくり返った翼の形を窓に焼き付ける。僕は既に右手を何のために挙げたのか忘れてしまっていた。自分の体を信じられなくなって、右手を膝頭に下ろして俯いた。Rさんの細い溜息が聞こえた。僕は、叫び出したいような衝動に駆られた。


「A君、位置エネルギーって知ってる?」

「詳しくは知らない。ある程度、理解できるけど」


 Rさんは怒ったり悲しんだりしなかった。いつもの通り、のべつ喋るだけだ。


「上に行くほどエネルギーのポテンシャルが高まるってやつらしいけど、私はそれを知ってから、ある考えが頭から離れないの。いい? 階段とかエレベーターに乗って上に向かうことは、つまり体の中に見えない位置エネルギーを蓄えることなんだよ。高い所に向かうほど、階段を上がる労力とか、エレベーターを動かすモーターの動力が体に蓄積するの」


「……それでどうなるんだろう」


「下りるときは、徐々にエネルギーが放出される。一段一段、一階ずつ、気付かないうちにエネルギーは消えてる」


 観覧車は十数分で一周を回り終える。僕たちはもう降りなくてはならない。ゴンドラの扉が開けられる。僕は先に下りて、Rさんに手を差し伸べた。彼女の手は熱い。


「さ、切り替えないとな。うちは大吉で、A君は小吉。それだけのことや」

 Rさんは相変わらず綺麗な水色のピアスをしていた。

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