二(後)
また、港に来た。午後七時で太陽は沈み、空は紫色に晴れ渡っている。N君は半袖のジャケットを羽織ってジーンズを穿いていた。昨夜見た半円形のホテルの脇へ歩いた。そこの波止場で青いロングスカートが見えた。その少女が、Rさんの友人のKさんだということはすぐにわかった。高校時代と雰囲気は変わらない。今は地元の専門学校に通っていたはずだ。N君と軽く挨拶をして微笑んでいた。
「A君、卒業式以来やね。元気だった?」
「ぼちぼち。まあ元気かな」
KさんはN君の顔を窺って、それから二人で笑い出した。黒のショートヘアが上下に揺れていた。僕は笑われたのが不思議だった。
「だって全然、元気そうやないんやもん。ふふ、おかしいなあ」
「そうなの? ねえ、どこがへこんで見えるんだい?」
僕は元気が無いと言われる理由が思い当たらなかった。だけどKさんは教えてくれない。ただ笑って違う話題に切り替えてしまう。僕は不可解に思いながら近況を話した。
「あれ、全員早いじゃん。待たせちゃって悪いね」
Rさんが最後に来た。彼女も綺麗な装いをしていた。
「こんな時間から何すんねん。俺らは暇人でも、今日は疲れとるんや」
待てよ、僕も暇人なのか、と言おうとしたがタイミングが遅れた。
「これから船に乗るの。昨日見た船の予約取ったから、四人で乗ろう」
N君と僕は面食らった。Rさんは今日急いでディナークルーズの予約を取ったらしかった。二時間半、船上でバイキングできるよ、と言われた。費用は各自で払うことにされていた。ホテルの建物内にあるターミナルまで階段を伝って上がり、ラウンジで海の景色を見ながら談笑した。
時間になって船に乗り込んだ。船内は西洋風の美術館みたいで清潔だった。細い階段を上ると、バイキングの会場がある。僕らは好きに食べ物を取って、ゆっくりと話をした。Kさんも呼んでみると結構賑やかだ。僕は口数が多くないけど、三人の面白い話を聞くだけでも充分楽しかった。一時間半が経つと満腹になってきて、女子がゆっくりデザートを嗜んでいる間、N君は船の展望デッキに上がると言って一人で行ってしまった。僕は皿にラズベリーのケーキが残っていたから、付いて行かなかった。
「——大学が違うと、あんま会う機会は無いの。住所も詳しく教えてくれへんし」
Rさんは隣に座るKさんに熱心に語っていた。僕は目を逸らして船外の夜景を見つめた。壁一面のガラスの向こうに神戸の街が遠ざかって行く。壮観だ。悪い気はしない。
「二人は今、仲ええの? 私、まあまあ気になってんねんけど」
Kさんは、鷹揚な口調で僕とRさんに尋ねた。
「僕とRさんが? ええと、どういう意味で言ってる……?」
「友達としてでも、そうでなくても、どっちの意味でもいいんやけどね」
Kさんは紅茶をカップで飲んだ。Rさんは僕をちらりと見やってから口を開いた。
「たぶん仲ええよ。めっちゃええよ」
そう言って歯を見せて笑った。僕は苦笑する。僕の目は既に消えたケーキのあった場所に向いていた。赤いソースの跡が血痕のように散っている。
「もう、からかってんな。どっちの意味で仲がいいか訊いてんのに」
「どっちの意味でもいいんやけどねー」
RさんとKさんは笑い合った。僕も気付いて口元で笑みを作った。
「ねえ。僕さ、N君の所に行って来るよ。外に出てみたいし」
Rさんは立ち上がった僕を見上げて微笑んだ。彼女の頬はスモモのようにほんのり色付いている。ワインを少し飲んだからかもしれない。
「うん。うちもKと一緒に後で行くわ」
僕は階段を上って船の甲板に出た。夜空は想像していたより黒かった。いびつな月が申しわけ程度に照明の役割を果たしている。N君の姿は見当たらなかった。大きな船だからデッキも広いのだ。船の後方に向かって捜してみることに決めた。風がとにかく吹いてやまなかった。潮風だ。強風というわけではないけれど、船外の階段を上るときにも体を揺すってくるのには弱った。一段高い展望台に立って周囲を見渡した。船はかなりスピードが出ている。外に出るまでこんなに速く動いているなんて思わなかった。陸地に見える光の角度が変わっていく。ついに僕は船尾までたどり着いてしまった。N君は最後方の柵に寄り掛かっていた。
「お前も来たんか。女子の相手なんかして、しんどかったやろ」
僕は微苦笑した。N君は無言の間を埋めるように僕の背中を軽く叩いた。僕は風が涼しいと思った。蒸し暑くない。
「あんまりさ、船の上は夜って感じがしないね。僕はもっと暗い方がいいと思ったんだけど」
船はあらゆる所に電飾がされていた。まるで巨大な白熱電球を宇宙に浮かべているみたいだ。——という僕の考えはあまり彼には伝わらなかった。
「おいA。ここから海を覗くと、船の足跡が見えるやろ。二本の白波が海を掻き分けていってるのがわかる。途方も無くでかい足跡や。いつまでも見てられる」
N君の言う通り、船のスクリューにより二本の波が立っていた。「足跡」という彼の喩えは適切だったかもしれない。船は確かに海の上で踏ん張って推進力を得ているのだろう。海は地面に繋がっていて、地面は陸地に繋がっている。そして東京の地にもきっと……。僕は冷たい海原を真っ直ぐ見ていた。
「これってもう帰るのかな? 今どれくらい経ったんだろう」
「あと三十分で岸に戻るはず。もう折り返してるで。ほら、神戸大橋が見える」
N君は船体の横を指差した。赤くて華美な鉄橋は堂々と海を跨いでいた。
「遠くから見ると、あんなにぼやけて輝くんやな。線香の先みたいな赤い色してるわ」
N君の言葉に僕は何も返さない。N君も返事を期待してなかった。二人で星空のような神戸の夜景を視界に入れただけだ。
「あのな、ちょっと船の後ろの柵、覗き込んでみるとええ。もっと体をいっぱいに伸ばして」
僕は言われた通り、柵から目一杯に体を乗り出した。断崖絶壁だった。
「……ふむ。おい、冗談抜きで押すなよ。本当に落ちそうだ」
「ははは、せえへんって。高所恐怖症のお前には怖いやろ。でもな、そうしていると足が浮いてくる感覚がする。自分が海の方に傾いてると錯覚してくる。せやけど実際は足をしっかり着いてる。それが面白いんや」
僕はじっと海の静けさに身を預けた。初めは他の乗客の声が耳に届いた。少し時間が過ぎると、徐々に海のざわめきが聞こえ出した。やがて僕は目を閉じ、平衡感覚を失った。上下が判断できなくなった。軽くなった体が前につんのめっているのか、後ろに寄り掛かっているのかわからない。危うくすっと身を投げてしまいそうになる。いとも簡単に。これは僕にとってかなり恐ろしい体験だった。目を開けると、手には汗がぐっしょり湿っていた。
「あ、やばいな。これ」
僕が呟くと後ろから明るい声が聞こえた。振り返ると、RさんとKさんが仲良くこっちへやって来ていた。良かった、と思った。二人は遠くを指差したり、髪を整えたりしていた。僕は自然と笑顔になった。
「何やってんの、男子。こんなとこにおって。もっと前の方が景色も照明も綺麗やし、そっち行って写真撮らない?」
Rさんの提案に、僕もN君もあえて否定する言葉を持っていなかった。素直に船の前に行った。その後またすぐ室内の方に戻ってお喋りをした。船が元の発着点に着くと、僕らは速やかに下船し帰宅することになった。船が見えなくなるくらい遠くまで歩いたところ、Rさんはいきなり僕の両肩に背後から手を回した。
「わっ」
「もう眠い。お願いやから、A君おぶってや。うちまで送って」
Kさんは何とか引き剝がそうとしてくれたけど、Rさんは僕にかまった。
「おい酔っ払い、やめたれって。Aみたいなひょろっこい奴にお前がおぶれるかい」
N君も諫めた。彼女は酒を飲み過ぎたらしかった。僕は初めて酔っ払ったRさんの醜態を見た。驚くほど可愛い。子犬みたいな足取りをしている。
「しょうがないなあ。僕が駅までおぶってもいいけど、暴れるなよ」
「ほんま悪いことしたな。ごめんね。我儘やし、今はやけっぱちなんよ」
Kさんは代理で謝ってくれた。僕は気にしないよ、と言ってRさんを担いだ。Rさんは人間の質量をしていた。きちんと重たかった。僕はそれを重大なこととして受け止めた。
寝床に入ってすぐ、僕はN君のお母さんが海で散骨されたことを直感的に悟った。