二(前)
翌日、僕は阪神甲子園球場で高校野球の全国大会準決勝を観ていた。一塁側のスタンド上段にN君と座っている。今日は朝から蒸し暑かった。無事に晴れたことは喜ばしいけれど、昼に野球を観戦する気候じゃなかった。N君は頭にタイガースのマフラータオルを巻いて、熱心に球を目で追っていた。
「やっぱええスイングするなあ。どうや、お前も野球久々やろ?」
試合は京都と奈良の高校の対戦だった。現在は六回の表で奈良県代表が二点リードだった。僕はペットボトルのお茶を飲んだ。
「球場で観るのは……去年の夏以来かな」
「ふうん。向こうでも野球観るんか?」
「ドームも神宮も行ったよ。甲子園ほどじゃないけど、まあいい球場だった」
N君は笑って足を組んだ。僕は服に風を取り入れて涼もうと努めていた。
「広かったか? ドームも神宮も」
「全然。よく阪神が打たれてただろ、ホームラン」
そのとき、バッターが三塁方向にフライを打ち上げた。白球は青空に向かって行き、ある地点から下に向かって落ち出した。サードはファウルゾーンでキャッチした。ボールは内野に回された。グラブの間を直線的に運動していく。僕はそれが面白かった。親和性を感じずにいられなかった。
「そう言えば、Rが午後——」
N君は僕に何か言った。だが、ブラスバンドの演奏や歓声がひどく大きくて聞き取れなかった。N君も途中で話すのを諦めた。打球は四十二度の角度で外野に向かって放たれていた。
「上がりすぎ」
外野フライ、と思った。案の定センターが前に出て来て捕球した。溜息のような声が甲子園を包んだ。N君は苦笑した。
「Rがまた午後に来いってさ。とりあえず一旦帰ってシャワー浴びんと」
グラウンドの黒土、深緑の芝、黒い屋根、カラフルなアルプス、黒いバックスクリーン、青空、浜風、白い入道雲、満員の観客……それら全てに強烈な既視感を覚えた。僕は小学生の頃、全く同じ光景を見たに違いない。
試合は一時半を過ぎたくらいに終わった。京都の高校は甲子園を敗れ去った。僕とN君は住吉駅に帰って来た。
「住吉ってさ、東京にもあるんだ。住吉……」
「へえ。住み良い所はどこにでもあるんやろな。住めば都」
僕は首を傾げて苦笑いした。駅前のコンビニエンスストアに入った。自動ドアの隙間から冷気が漏れてきた。半袖のポロシャツを着用していた僕は身震いした。N君は一列目の棚の方に歩いて行くと、そこで剃刀を手にした。僕はぎょっとした。
「え、何に、使うんだい?」
N君は剃刀を戻して、隣のT字の髭剃りを掴んだ。
「髭剃りが今、家に無くなってもうて。今朝は剃ってない」
N君は口元に笑顔を湛えて、弁当のコーナーに向かった。そして昼食選びに悩んでいた。どうも冷やし中華か冷製パスタで迷っているみたいだった。どっちでも同じだろ、と思ったが言わなかった。彼はあくまで真剣に選んでいたから。
「やっぱ身だしなみは大事やろ。剃ってから行かんとな」
コンビニで支払いを終えて、住宅地の方に歩いた。アスファルトの上はうんざりするくらい暑かった。陽炎が道の上で浮いて、鳩の首が憂鬱に歪んで見えた。
「——恐らく、突然神様に否定されることってある。僕はさ、三月にそういうことがあったよ。休日に音楽を聴こうと思ったんだ。CDアルバムでね。最初はディスクをノートパソコンに挿入した。けれど上手く読み込みができなかった。仕方なく、CDラジカセで代用したんだ。が、それも壊れてしまった。ディスクを固定する部分が不調なんだ。だから電池式のポータブルプレーヤーを持ち出した。でも、これまた駄目だ。乾電池が無い。充電池も充電器を紛失してしまった。家のどこかにあるはずだと思って捜しても、確かに無い。消えてしまったんだよ、すうっと。僕はそこでCDを聴くのを諦めた。天はその日、僕が音楽を聴くことを否定したんだ。僕は神意だと思った。段々と周りが壊れたり、消えたりして立ち去って行くことが神意に他ならないってね」
「意味わからんなあ。唐突に何や」
僕は昼食に母の作った甘いチャーハンを食べた。