一(後)
住吉の自宅に帰り、昼食をとって午睡をした。午後四時ごろ、N君が午前中と同じ服装で家まで迎えに来た。外は明るかった。二人でまた普通電車に乗る。
Rさんと元町で再会した。Rさんは南京町でご飯を食べたいと言ったので、僕らは酸辣湯が美味しい店で色々な皿をテーブルに並べて食べた。酒も少し飲んだ。僕は楽しんでいたと思う。友人と食事をすることは、ここ数週間なかった。気分が高揚していたからか、会話していても水中で夢を見ているみたいな気分になった。時たま笑顔を左手で隠しつつ、箸を持つ方の手を動かしていた。
「おお、日が暮れて来たで。いい塩梅に」
N君は飯店を出ると、伸びをして空を見上げた。夕空では三匹の鴉が旋回していた。
「ね、夜のお散歩しよう。いいでしょ?」
「わっ」
突然Rさんが僕の肩を背後から掴んだ。僕は、肩に乗っかるRさんの貝殻みたいな爪を見つめた。Rさんは少し当惑した。——悲しそうに。
「ごめん、そんなに吃驚すると思わなくって」
「いや、いいんだよ。考え事してぼうっとしてたんだ。うん」
「最近、そういうこと多いもんね」
Rさんは勝手に進路を決めて歩き出した。N君は忍び笑いをして付いて行った。僕も二人の後を追った。日が傾いていることが、僕にとって唯一の救いだった。
「豚まん買おうよ、豚まん」
Rさんは中華まんなどを販売している露店に立ち寄った。店は赤い暖簾を掲げ、中国人の店員が応対している。日本人の客によって小さな列が出来ていた。
「N君、一つ買うてや。うち食べたい。買うて買うて」
「調子いいなあ。しょうがない。Aが買うってよ」
N君が僕の肩を引いた。僕は苦笑して財布を取り出した。黒の長財布だ。
「まあ別にいいよ。どれがいいの?」
あっさり支払いを受け持ったことに、二人は呆れ返ったような反応を示した。僕は「N君が払いたかったのかい?」と訊くと、みんな笑った。僕は三人分の豚まんを買った。Rさんは歩きながら頬張って食べた。僕とN君はその場で食べなかった。
空は薄暗いけれども、中華街の照明は華やかだ。僕が東京で住んでいる町の商店街も、こういう風に無理に明るかったのを思い出した。
「……食べ歩きなんか、行儀悪いなあ。お前はそういう所に気が——あれ?」
N君は始終お喋りをしていたのだが、中華街を抜けようというときに立ち止まった。僕とRさんは不思議そうに彼の顔を注視した。N君はビルの隙間を覗いていた。
「なんか今、背のチビな赤ら顔がビルの隙間に立ってへんかった?」
僕もRさんもよくわからなかった。N君はそのビルの隙間にずかずかと入って行った。Rさんは嫌がったが、僕だけは付いて行った。妙に砂っぽくて油臭かった。
「誰もおらん。これか、これやな」
日が上手く届かない暗がりで、N君はエアコンの室外機を指差した。二段に重なった室外機は、確かに人の背ほどの高さがあった。それは企業名の英字が刻まれ、汚く黄ばんでいた。新聞紙がなぜか下の室外機に置いてあった。N君は新聞紙を取り上げる。
「中国語や、読めん。何やろ……外交? 裏面は、女工、一定、墓?」
N君は読める漢字だけ拾い上げて読んだ。僕も読むと、N君が「墓」と言ったのは、簡体字で「墳墓」と書かれていたのに違いなかった。
「どうも気味悪いわ。さ、戻ろ」
N君は新聞を元の所に投げて大通りの方へ帰って行った。見たところ、その新聞は二十年近く前に発行されていたものだった。僕も明るい通りに戻った。
僕らは誰から言うでもなく、自然と海の方角へ足を向けていた。しばらく歩いて行くと、赤くぼんやりと立つポートタワーが接近してくる。タワーの足元で、耳がぴゅうと鳴る風を感じ取った。それは間違いなく低気圧の潮風だった。
「わあ、懐かしい。ちょっと涼しいな」
Rさんは絹糸のような髪を押さえながら遠景を眺めていた。正面には半円形の白いホテルが屹立している。窓からまばらに黄色い明りが漏れ出ていた。僕らはホテルを横目に左折して、海の方へ吸い寄せられるごとく近付いた。足元の敷石は赤茶でモザイクだった。
「あ? あれ何や。人がえらいつどってるな」
N君は前方を指差して笑った。しかし、僕もRさんも特に大勢の人々を発見できなかった。
「いや、何でもないわ。ただの影やった」
それは「BE KOBE」という文字のモニュメントだった。N君はここに人が集まっていると勘違いしたらしい。だが、現在は五歳くらいの男の子を連れた夫婦がカメラで写真を撮っているばかりだった。もしかしたら文字の影がそう見せたのかもしれない。
「こんな置き物もあったなあ。久々に見たら、案外綺麗やん」
Rさんは微笑んで文字列を鑑賞した。それぞれの文字はオレンジや黄色の混ざったライトにより、土台から薄暗い中に浮かび上がっていた。もう日が沈みきっている。
「——海、か」
ふと、僕は呟いていた。文字の向こうには柵があり、海を挟んで対岸にはポートアイランドが浮かぶ。船やコンビナート、建物はどれも明るい。それでも山の稜線や海は真っ黒だった。親子連れが芝の方へ戻ったのを見て、N君がモニュメントを触りに行った。白いアルファベットたちはN君より頭一つ分高い。
「こいつ、頑丈やわ。びくとも揺れんな。なんでこんなもん作ったんやろか」
僕とRさんも近寄った。ライトであおられ、N君は黄色い顔をしながら「O」を撫でた。彼の伸ばした手には白い腕時計が巻かれている。
「きっと写真映りがいいからよ。ほら、観光客が寄るでしょ?」
僕は「BE KOBE」という合言葉が震災から二十年経った際に作られたものだと知っていた。震災そのものは知らなかったが……。
「おいA。一遍、そこから股覗きしてこれ見てみろ」
僕はN君に指示されるまま、股の間から文字を覗いた。N君が僕の方に来て、Rさんは「K」の元でくすくす笑いを堪えている。文字が反転して見える。当然だ。でも、しばらく経つと、背景の空と海の判別ができなくなってきた。——やがて視界は上下が全く同じの、鏡合わせのようになった。
「それでさ、端のBとEを飛ばして読んでみ。何て書いてある?」
「B、O、K、E?」
「そや。『ボケ』って書いてあるやろ」
僕はくだらなく思って顔を上げた。N君は楽しそうだった。頭に血が上って目眩がした。Rさんに呼ばれて海辺の柵の所へ行った。
「わあ、船が来た。あれ乗りたい。私たちでも乗れるかな?」
Rさんは巨大な客船を指差していた。船は大阪湾を航海して帰って来たようだった。船体はどこか白鯨のようだ。暗闇にあって、その白さが際立っている。
「ディナークルーズとかやってる船やろ。乗れるんちゃう?」
N君は柵に上半身を預けた。僕も同様に柵に身を預けてみる。柵の真下はすぐ海だった。黒い海だ。波が光をまだらに反射する。
「……なんか、地元に帰って来た感じがするなあ。もう夜」
隣にいるRさんは対岸を眺めていた。その瞳は宝石みたいに向こうの灯火で輝いている。ピアスも美しい。彼女が大人になったことを感じていた。
「時間経つの、早いやろ? あっという間」
「ううん、私にとっては遅いわ。一秒一秒刻んでる」
RさんはN君の言葉を否定した。N君は手持ち無沙汰に腕時計を見た。
「Aはどう思う? もう一日終わるで」
僕は首を動かしてN君を一度見た。それからまた首を戻した。
「よくわからないな。……でも夜は好きだよ」
二人とも無言だった。
「夜は静かなんだ。家に帰って、一人でご飯を食べて、テレビを観て、風呂に入って、音楽を聴いて、読書をして寝る。夜は誰にも会わないし、暗い。僕以外の人がいるのかどうか見えなくなる。安らかで快い気分がするな」
僕は停泊した客船を見上げて笑った。
「俺は夜なんか好きでも何ともないけどな。ほら見てみ」
N君はポケットから小型のライターを取り出した。彼は顔の前でただ火をつけるだけだった。Rさんは不思議そうに眺めていた。
「あんた、煙草吸うの?」
「吸わん。そうじゃない。別に使うんや。それはええ。ほら、色々見えるやろ」
N君は眼下の海に目を凝らした。見ると、ライターの火が海面に小さな点となって漂っていた。そして火の像の傍に、靴が浮かんでいた。子供用の青い右足だ。
「死体じゃないよね。靴のゴミ……?」
Rさんは無気味そうに僕の腕を取った。Rさんの手は温かい。N君はできるだけ顔を近付けて漂流物の靴を観察していた。
「そんなの、ただの靴の片足だろ。少年が靴飛ばしでもしたんじゃないのか」
僕が考察を述べても、N君は気に留めなかった。やがて僕らにこう言う。
「そうかもな。でも、もしかしたら人魚のおばちゃんが、幼い少年に憧れて足を引っ張ったのかもしれんで。こっちへ寄って行かんか、ってな具合にさ」
N君の冗談はいまいちわからなかった。Rさんは細い眉をひそめた。
「なんで年増の人魚なん。若くてええやろ」
「いや、人魚だって歳は取るんやから、おばちゃんだっておる。なにも不思議じゃない。どんな生き物も老いていかなきゃ不公平ってもんや」
N君はまだ火を消さなかった。僕はN君の尻を思い切り蹴った。それから公園を歩いて、ベンチで豚まんを食べた。夜が深まらないうちに三人はそれぞれ帰った。帰りに海を覗いたら、靴は既に流されてしまっていた。