一(前)
或る夏の終わり、僕は神戸の実家に帰ることにした。まず、混み合った東京駅で友人のRさんと再会した。Rさんとは、実に三週間ぶりに顔を合わせた。彼女はマネキンのように美しく着飾り、スーツケースを携えたまま、ホームで僕と軽く挨拶を交わした。それからすぐ新幹線に乗った。隣の座席で僕らは近況の話をした。僕は癖で、ちょっと口元を隠すように笑いながらRさんの声を耳で聞いた。
「——それでね、結局バイト辞めちゃった。今はフリーなの。楽ちん」
「へえ。ま、辛いならね。辛いなら辞めちゃえば……」
「もう嫌やったから。でもね、だからさ、向こうに一週間いられるんだ」
Rさんは窓側に座る僕に向かって微笑んだ。僕はRさんの距離感に参ってしまった。少し退屈して、足をふらふら揺らした。スニーカーが座席の陰で前後に動く。
「僕は帰っちゃうよ。三日でさ」
「なんで? もっとのんびりしようよ。どうせ、あいつにも会うんでしょ」
あいつ……N君のことだ。僕は何と返答しようか迷った。だけど意外にも僕の口から出たのは、全然僕らに関係ないことだった。
「N君のお母さんは亡くなったらしいね。三カ月、四カ月、前に?」
「え、知らんかった。そんないきなり、どうして?」
「僕も詳しくは知らん。でも、どうも病気らしいね。病気」
僕はRさんのピアスを見つけた。今年の春まで、確実にピアスの穴は開けていなかったはずだ。いつ開けたのだろう。彼女の耳には極小のピアスがキラキラ光っている。
「あ、富士山。富士山どこ? も、静岡ちゃう?」
僕の目はRさんの横顔を捉えた。Rさんは僕越しに新幹線の窓を覗いていた。
「おいおい、こっちは海側だよ。富士山は見えない」
Rさんは不服そうに口を尖らせて腰を下ろした。僕のこめかみがはたかれた。
「阿保。新幹線乗るなら富士山側でしょ。関東の垣根見たいもん」
新幹線の予約を取ったのは僕だった。僕は軽く溜息を吐くと、コーヒーを一口飲んで首を振った。なんだかいつもより甘い。
おもむろに窓へ目を遣る。沿線には背の低い家々が広がっていた。時速二百キロで走っているわりに景色は静的だった。——背の低い家々? 町には確かに三階以上の建物もあるはずだった。が、僕にはどうにも建物が低いように感じた。空の占める割合が多い。風景がひらけている。そうか、あの向こうには海があるんだ。一度気付いてみると、色んなものが見える。窓に僕の無表情が反射していることがわかった。
新神戸へ着いてしばらく待った。連絡の通り、改札を移動するとTシャツに短パン姿のN君を発見した。N君は僕たちを視界に捉えると、はっきりと笑顔になった。
「おかえり。お前ら仲良く帰って来よって」
N君は僕の小学校からの同級生だった。現在は地元の大学に通っている。背丈は僕より低くて、サーフィンをやるので夏は特に色黒だった。
「あんた、何よその服。マジで恥ずかしいから着替えて」
RさんはN君の恰好を見て辟易していた。N君はポケットに手を入れたままシカトした。
「そんなダサい服、向こうで着てたら笑われるもん。ねえ、A君?」
「僕はよくわからないけど、頓着しないのはN君らしいよ」
N君は驚いた。そして僕らの顔を見比べるように観察した。
「お前ら、いつから東京弁喋ってんの?」
Rさんと僕は互いの様子を窺った。駅のLEDライトは、Rさんの陶器のような肌をより白く照らしている。僕は汗をかいていた。そう言えば暑い、蒸し暑い。
「向こうじゃ話す機会ないし。別に私はどっちで喋ってもいいけど」
「ははっ、なんや『私』って。前は『うち』って言ってたやん。自分のこと」
N君は馬鹿にしたように笑った。僕はいつのまにか釣られて苦笑していた。
「Rは高校のときから感化されやすいからな。それよりも、Aみたいな奴が東京にかぶれてんのが、気色悪いわ」
僕は意識して喋り方を変えたわけじゃなかった。でも焦ってしまった。
「だってさ、帰って来た途端にこっちの言葉に切り替えるのって難しいでしょ」
N君は「そうやろか?」と大笑いしている。僕は何と言えばいいかわからず閉口した。Rさんがこれからの予定を訊いたので、僕は一旦実家に帰ると伝えた。Rさんも荷物が多いので帰るらしい。N君は僕の近所だから僕に付いて行くと決めた。
「あとで一緒に夕飯食べよう。おまけでそこの関西人誘ってもいいよ」
Rさんは手を振り、改札をくぐって行ってしまった。残されたN君と僕も改札を抜けて、一本後の電車を拾うことにした。N君は相変わらず声がうるさかった。
「まったく、Rはほんまに昔っから生意気やな。お前もさぞ疲れるやろ?」
「疲れるほど頻繁には会ってないよ。むしろ元気貰えるよ、うん」
N君は階段を上り終わると、僕の尻を平手でぶった。僕は、はっと驚いた。
「わっ」
「元々大人しかったけど、お前、根暗になったな。全然笑わんやん」
尻から感じた痛みが徐々に内側の神経を刺激して、熱が通い始めたようだった。聞こえてきたのは人の声とも機械の声ともつかないホームの雑音と、僕らを覆うような蝉の音だった。「意識」を取り戻した僕は、いつの間にか自分の輪郭をはっきり悟った。一滴の汗が首筋を流れている……。