プライスレス・ディナー 2
マダムとハンバーグ
僕が自宅で始めたカウンセリングルームにはいろんな人が相談に来る。
最初は僕の力で人助けなんて出来るのか正直不安だった。
しかしここに来る人は大抵、自分の中に既に答えを持っている。
その場合、僕の仕事はその人の話を聞いて本心に気付かせてあげるだけだ。
するとその人の干からびた心に泉が湧き、また人生を生きる力を取り戻すのだ。
今日のセッションが終わり、カルテにまとめていたところに妻が図書館から帰ってきた。
彼女も仕事で疲れているだろうに、これから夕食の準備だ。
僕は仕事部屋を出て、キッチンにいる妻に尋ねた。
「何か手伝えることはある?」
妻はこちらを見るとすぐにスタスタと僕の方に歩み寄ってきた。
「私がやるから。貴方はまだ仕事が残っているんでしょ。」
僕は問答無用で再び仕事部屋に押し戻されてしまった。
出会った頃の初々しさはさすがにもうないが、彼女はいつも僕を想ってくれている。
そんな彼女にとても感謝しており、愛おしくもある。
仕事部屋に戻ると、新規のクライアントから予約の電話があった。
50代の女性で、相談内容は夫婦関係らしい。
そこまでは何も珍しくはなかったのだが、
女性はセッションの場所に郊外のレストランを指定してきたのだ。
普段なら出張カウンセリングは行わないが、
女性がどうしてもと言うので、
僕は引き受けることにした。
予約当日、郊外のレストランに着いた。
イタリアンとは聞いていたが、昼間は中高生で溢れ返る賑やかなファミレスだった。
どうしてまたこんな場所を指定してきたのだろう。
僕が店舗の外観をしげしげと眺めていると、品の良いマダムが現れた。
「お待たせしてしまったかしら。
ごめんなさいね。
入りましょう。」
マダムは上質なグレーのコートを脱ぐと裏地を外側にして畳んでソファーに置いた。
目尻の皺が可愛いらしい淑女だった。
上品な雰囲気から、彼女が良家の出身であることが伺えた。
「びっくりしたでしょう。
まさかこんなところで相談に乗って欲しいなんて。」
「はい。初めてのことで驚きました。でもたまには出張カウンセリングもいいかなと思いまして。
でもこんな他人に聞こえるような場所で本当によろしいのですか。」
「ええ。ここでないと意味がないの。
まぁ、まずは食べましょう。
ご馳走するわ。」
食事をしながらマダムはご主人のことを話し始めた。
ご主人は早くに両親を亡くし、高校を卒業した後トラックの運転手をしていたそうだ。
当時短大生だったマダムは、ちょうど家族と旅行に行く途中で、
休憩に立ち寄った高速のサービスエリアでご主人に出会ったらしい。
マダムはそれまで、育ちは良いがどこか頼りない男性にしか出会ったことがなかったそうだ。
ご主人の凛々しい顔立ちや、
滲み出るハングリー精神のようなものに一目で惹かれてしまったと話しながら、マダムは甘酸っぱい思い出を懐かしんでいるようだった。
マダムが短大を卒業すると、親の反対を押し切って駆け落ち同然で二人は結婚した。
ご主人は資金を貯め、数年後に運送会社を立ち上げたそうだ。
良家のお嬢様に運送会社の社長夫人は務まるものなのだろうか。
僕はマダムの人生に、とても興味が湧いた。
「私にとってはね、主人や従業員の若い運転手達との毎日が本当に新鮮だったの。
本当に優しいってああいう人たちのことを言うのね。
主人は特に言葉は乱暴だし、普段の態度は素っ気ないけど、行動が全部相手への思いやりに溢れているの。
上部だけ紳士な態度や耳障りの良い言葉だけの優しさより、よっぽど愛があったわ。
私は厳しい家庭に育ったから、そういう温かさを知らなかったの。
主人は私に大切なことを教えてくれたと思うわ。」
マダムは自分の言葉に頷きながら、自分の人生で得た確かな教訓を噛みしめているようだった。
「ご主人は奥様にとって最愛の方なのですね。
しかし、どうしてそんな優しいご主人のことで相談依頼をされたのですか。」
聞いたところでハッとした。
僕は本題に入るのがいつも早すぎる。
そして率直だ。
いつも思うのだが、僕はクッションのように柔らかい会話が本当に苦手だ。
カウンセラーとしての未熟さに自分で情けなくなる。
声に出せない「ごめんなさい」を心の中で連呼しているうちに、
マダムは一呼吸おいて話し始めた。
「1年前に、主人ともう会えなくなっちゃったの。
肺ガンだったわ。
病院に行った時はもう手遅れだったの。
急死ではないから、お別れの心の準備はしていたけれど、
いざ本当にいなくなってしまうと淋しいものね。」
ああ、そういうことか。
この人はご主人の死を受け入れられなくて、僕に助けを求めたのだ。
マダムの人生に対する僕の純粋な興味が、カウンセラーとしての心理分析に変わっていた。
「それはご愁傷様でした。
お辛いですよね。
これからご主人への思いを僕と一緒に受け止めて整理していきましょう。
僕は奥様がお気持ちを持ち直されるまで、最後までお手伝いしますから。」
するとマダムは僕の目を見て少し口角を上げて微笑んだ。
「少し違うの。
私は夫ロスじゃないのよ。
主人の最期までしっかりと向き合ったから悔いは残っていないし、
あの人は病床に臥して長く生きているより、
早く自由に飛び回りたかったはず。
だから、これで良かったと思ってるの。
ただ最近ね、何故か若い頃の夢ばかり見るのよ。
結婚当初主人がまだ貧しい運転手で、
二人でボロアパートに住んでいた頃。
私たちの細やかな楽しみはここに来ることだったのよ。」
僕はこの上品なマダムにもそんな時代があったことに正直驚いてしまった。
「ここに来るのが楽しみだったのですか?」
「そう。ここなら毎月来れるからって、お決まりのデートコースだった。
主人はハンバーグが大好きでね。
私はいつもパスタばっかり食べてたんだけど。
でも、最近夢を見たせいかしら、
主人の好きなハンバーグを食べてみたくなってね。
主人とまたデートをしているような若い頃の気分を味わえるかしらと思って。
あれから会社が軌道に乗って、いろんなレストランに行けるようになったけど、あの頃の楽しさって格別だったのよ。」
マダムは遠い目をしていた。
「でも私一人でここにハンバーグを食べに来たら、
万が一、本当に万が一だけど、
もしも何かバランスが崩れて、本当に、
本当に主人に会いに行きたくなるかもしれない気がして、怖くなって。
考え出したらとても一人じゃ来れなくなった。
そこであなたに依頼したの。
あなたの評判は聞いていたわ。
聞き上手の、安心感のあるカウンセラーさんだって。
だから、あなたならこんな私に付き合ってくれそうだと思ったの。」
マダムは微笑んでみせた。
しかし瞳が潤んでいる。
多分、僕に話していることは彼女のご主人への思いのほんの一部なのだ。
ご主人との思い出は時に明るく彼女を照らすけれど、
時に彼女の中で終わりのない闇となるはずだ。
揺れ動く感情を気丈で包み隠せない彼女の心は、操縦不可能なトラックのように暴走して、
いつも穏やかな彼女自身を内側から振り回しているのだ。
それならトラックがどこに衝突しても大丈夫なように、僕はエアバックにならなければならない。
僕はマダムの瞳を穏やかに見つめてこう言った。
「では僕も食べましょう、ハンバーグ。
ご主人はワインは赤でしたか、白でしたか。」
マダムの顔がゆっくりと柔らかく華やいだ。
「彼はビール派よ。」
僕は実はアルコールが弱い。
幸い明日の午前中はセッションの予約が入っていない。
妻には申し訳ないが、彼女が出勤する時はまだ寝かせておいてもらおう。
運ばれてきたハンバーグとビールをお供に、
僕はマダムの心の旅に夜が更けるまで付き合った。
数日後、マダムから予約の電話が入った。
カウンセリングルームでご主人の話をまた聞いて欲しい、と。
ここからようやく、止まってしまったマダムの時間が動き始める。
進んでいく時計の針を見守る役を仰せつかった喜びが体中を駆け巡った。
彼女が本当に悲しみを乗り越えたら、どんな風に笑うのだろう。
僕は人が輝きを取り戻す瞬間を見つめられるこの仕事の面白さを噛み締めながら、
次の予約のクライアントを部屋に招き入れた。