遡る
「ただいま~」
扉を開けながら美結は言った。
「はい、お帰り。十六時二十八分、ギリギリだったね。」
美結の母親である幸子が玄関で待っていた。
「ちょっと、色々あって…」
「言い訳は無用よ。まぁ、間に合ってるからいいけど。もうすぐ夕飯だから着替えてきなさい。」
「はい。」
桜田家自宅は町でも有名なほど古くて大きな家だ。巨大で威圧感のある門を抜けると石レンガの道が大玄関へと続く。家の中には大広間、中庭、襖の他に今はもう使われていない無数の和室と大きな道場がある。そして美結が住んでいる大桜町の名前の由来ともなったと言われている大きくて立派な桜の木が生えている。桜田家は昔、ここら辺一帯を占める偉大な一家で土地ももっと広かったらしいが、今はもう無駄にデカい家を持っているだけの家庭である。
美結は不貞腐れていた。規則を破ってもないのに一々突っかかってくる母親にうんざりしていた。
「おぉ、美結帰っていたのか。どうした?また母親と何かあったのか。」
「あっ、おじいちゃんただいま。」
桜の木に面した縁側に美結の祖父である桜田仲蔵が座っていた。父親を幼くして亡くしている美結にとっていつも味方になってくれる祖父は心の拠所となっていた。
「門限のことでちょっとね。」
「まぁ、幸子さんも美結のことを思っているからな。許してやってくれ。」
「それはわかってるけど…」
「そういえば、あれがやっと完成したぞ。」
そういって仲蔵は部屋の奥と棚から箱を取り出し、美結に渡した。箱の中を見てみると桜田家の家紋が削られている紋章が入っていた。裏には五十七個の名前が順に小さく掘り込まれていて、五十七個目に『桜田美結』と書かれていた。この紋章は約二千年前、桜田家の旧姓である花御門一家の初代当主花御門奈桜忠という人が作り、代々当主から当主へと引き継がれている。勿論、縁が新しくなったり、形が変わったりはしているが中の家紋と名前の掘り込みは二千年前のままである。
「肌身離さず持っておくように。」
「はい!」
「美結は自分の名の由来を知っているか?」
「確か、ご先祖様の偉い人の名前だったけ?」
「うむ。遠い昔、闇がこの国を覆ったとき名家であった花御門の娘が立ち上がった。奇妙であるが華麗な技で闇を追い払い、闇の影響で倒れてしまった千年桜の隣に二代目千年桜の苗木を植えたのだ。その姿はとても美しく真のサヤの心を持ったものであった。その者の名は花御門美結である。そのご先祖様のように美しく、サヤの心を持った子に育ってほしいという願いで美結の母親と父親がつけた名前だ。そしてそこに生えている桜の木こそが約千年前に花御門美結が植えた、二代目千年桜だ。」
「へ~。あっ、そういえばサヤの心って何?今何回か話で出て来たけど…」
「桜の優しさと書いて桜優だ。そのままの意味だ。桜のように優しい心のことだ。」
「桜優の心かぁ…」
朝が来た。美結は朝食を済ませ、制服に着替え、家を出た。毎朝と同じように六時半の電車に乗り、七時半には学校の正門を通った。教室の前まで行くと話し声が聞こえてきた。いつも一番乗りの美結は自分より前に教室に誰かがいることに違和感を覚えていた。教室の扉を開けて入ってみるとそこには男子生徒と女子生徒が一人ずついた。男の子の方は昨日転校してきた大輔で、女の子の方は...
「あっ、昨日の。」
同じ学校の生徒だったんだ。美結は昨日の出来事を思い出していた。
「昨日はストーカーみたいな真似をしてしまってご免なさい。2年3組の紫雲琴葉ともうします。」
琴葉と自己紹介した彼女は上品な会釈をした。琴葉の噂は美結も聞いていた。三組に物凄く高雅で綺麗な女の子がいると。だが、実際に会うのは昨日が初めてだった。
「あ、いいえお構い無く。それより二人は知り合いだったんだ。」
あまりにも彼女が慇懃で『お構い無く』なんて言ってしまった。
「ま、まぁね。ね、大輔?」
「う、うん。」
「それより、桜田さん、いきなりではありますが、今度の修学旅行、私たちと一緒の班に入りませんか?」
今度の修学旅行とは昨日担任の先生が言っていた、京都への旅行だった。進学校に通っている美結らにとっては高校生活、最後の修学旅行で班も自由に組んでいい仕組みだった。美結は二人が動揺していたのがちょっと気にかかったが、特に断る理由も無かったので承認した。
そしてまた、毎日のようにだんだん生徒が増え、先生が入って来た。
「おいそこの三人、もうすぐチャイムが鳴る。お前らは三人かもしれないがな、周りには人間がいるんだよ!紫雲は早く自分の教室に帰れ!」
相変わらずクセの強い先生の言葉で琴葉は三組の方へと帰っていった。
「え~では朝礼を始める。」
「起立、気を付け、礼。」
「やり直し。お前ら真面目にやれよ。人生に答えなんてない、人生証明なんだよ!」
いきなりどうした?美結は少し引いていた。
「藤旗先生、班が決まったら何処に書けばよろしいでしょうか?」
一人の生徒が聞いた。
「今から紙を配るから、そこに班長と班員の名前を書いて提出してくれ。」
そして、今日も時が流れ、帰りの電車から降り、大桜町の住宅地を歩いていた。毎日同じことのくり返し、だるすぎる。美結はため息をついた。
「こんなことに巻き込んでしまってごめんなさい。最初は混乱するかもしれないけど、絶対大丈夫だから、」
周りに自分以外誰もいないこの狭い道に聞こえる声に美結はドキッとした。二日連続の奇妙な出来事に流石の美結も心が持たない。
「まず最初は桜田家の屋敷に行き、紋章を見せなさい。もう時間が無い、私が教えられるのはこれだけだけど、大丈夫信じて。」
足元からまぶしい光の柱がいきなり現れた。視界が強い光によって遮られ始めた。桜田家の屋敷?紋章?一体どういうこと?
「わっ。」
光の強さが更に増し、目を開けてはいられなくなった。