王太子妃育成project
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ウォークマ公爵家正門。
いましがた王太子を始めた一行が予告も約束もなしに通り過ぎて行ったばかりなのに、またしても予定にない訪問者がやって来た。
道を開けるのは当然と押し入った王太子よりまだましなのは、緊急の用件であると門番に道を開けさせた所だろう、…マントの下から近衛騎士の紋をちらつかせてはいたが。
近衛騎士を従え、同じようにマントに身を包みフードを目深に被った訪問者もまた、公爵家令嬢リリィ・ウォークマが束の間の休息をとっていただろう裏の庭へと進んで行った。
フードから少しだけ風でこぼれた特徴的な色の髪は、見送る屋敷の使用人に既視感を覚えさせた。
「お待ち下さいディートハルト様!私は婚約者としてあるべき務めを果たしてまいりました!なのに、そんな…婚約が解消されたなんて…!…どうか、どうか嘘だと仰って…!」
リリィの悲痛な叫びに、王太子ディートハルトと共に帰って来たウォークマ公爵子息ハルセルがディートハルトの後方から興奮して上気した顔を出した。
「ほ、本当だよ姉さん。陛下はやっとディートハルト様とマーモ様の真実の愛を認めて下さったんだ。ディートハルト様の好きにするようにと仰って、お二人の婚約も御許しになったのを、僕はこの目で見てきたんだよ。ね?ガルラ様!」
隣に立つ護衛騎士ガルラは、ハルセルに顔を向けられ、ビクリと眉を動かし、冷たく横目に返す。
「…ええ。」
興味の欠片も感じない返事をすると、ガルラはこれ以上関わるなと目を閉じた。
「そんな…。」
初めて見るリリィの狼狽える姿に、男爵令嬢マーモは緩んでしまいそうな顔を肩を抱くディートハルトの胸に隠した。
「ぐすっ。あたし達だけ幸せになってごめんなさい、リリィ様は産まれた時からディートハルト様の婚約者だったのに、リリィ様に恥ずかしい思いをさせてごめんなさい。」
「泣かないでマーモ、私が君を選んだんだ。君が気に病む事はない、君だって婚約者がいたせいで辛い思いをしただろう?」
「あぁんっ、ディートハルト達ぁ。」
婚約者を差し置いて、婚前前にも関わらず他の令嬢に溺れた男と、自分が一番でないと気の済まないが為に王太子妃の座を手に入れたかった女は、人目も憚らず抱き合った。
甘い空気が漂う中、リリィの変化にいち早く気付いたのは、冷めた目で成り行きを見ていたガルラだった。
明らかに正気を失った虚ろな瞳のリリィは、まるで糸の切れたマリオネットの様で、そんな彼女がふいに首にかかるペンダントを胸元から取り出し、液体が揺れるそれを口へと運ぶ。
「―――!!!」
ガルラは瞬時に毒薬の可能性を考えた。だが、リリィの躊躇いない動きに、ただ驚き目を見開いた。
彼の目に写ったのは、空になった容器が音もなく落ち、崩れ落ちるリリィ。そして、ひるがえるマントと、フードが外れ、露になったのはよく知る特徴的な色の髪。
そこには王太子ディートハルトと同じ顔の男が、リリィを抱き締めていた。
ディートハルトを除く、ガルラ、マーモ、ハルセルの三人は唖然として、同じ顔の二人の男を見比べた。
リリィを包む男は、不気味なほどに優しい声音で彼女の耳元で囁く。
「私の可愛いリリィ。駄目じゃないか、それは王太子ディートハルト以外の男の物になってしまった時のものだろう?」
「ィート…ルト、ま…?で…も、こん、やく、は…」
意識の朦朧としたリリィの頬を一粒の涙がつたう。
「まさか、そんな事有り得るわけ無いだろう?可哀想に、悪い夢をみたんだね。」
「…ディー……。」
「うん。遅くなってごめんね、大丈夫、少しだけおやすみ。」
男は小瓶の液体を口に含むと、リリィに口づける。
口を介して伝った解毒薬を飲み込んだのを確認して、男はリリィを横抱きに抱え直す。ほどなく、リリィは濡れた睫毛を伏せ、穏やかな寝息をたてた。
「…っ!なぜ貴様がここにいる!」
たまらずマントの男に言ったのは、理解できぬと苛立つディートハルトだ。
「私はただ婚約者を会いに来ただけだが、何か問題が?」
「影武者の分際で余計な事をするな!そもそもそいつはもう婚約者ではない!」
「全く…、リリィが寝ているんだ、静かにしてくれないか。だいたい、勘違いしているのは君の方だよ。君はもう王太子でもなんでもない無い、ただのディートハルトなんだ、国王は君を見限ったんだよ、好きにするようにと言ったのはそういうことだ。」
「ふざけるな、そんな事ある筈がない!所詮貴様は影だ!私のかわりなどおかしな事を…!」
「私は煩いと言ったんだ。」
男が目を細め、やれと顎を僅かに上げると、控えていたマント姿の近衛騎士がディートハルトの後ろから喉元に短剣を突き出した。
「なっ?!何をする!私を誰だと―――。」
「これが今の君の立場だ。おっと、あまり騒がないでくれ、リリィの庭を汚したくはない。」
「…くっ…!」
「ディートハルト、君と私は双子なんだよ、公表されていない、一部だけが知る事実だ。まさか君は本当に顔の同じ人間が都合良くいると思っていたの?」
「うる、さい…!」
「これは成るべくして成ったんだよ、君は面倒事は私に任せきりで、挙げ句、大事な夜会に無断でそのお嬢さんを連れてきた。国王の決心もそこでついたんだ、…君たちが夜会を抜け出した後のフォローは大変だったよ。」
「あれは…!マーモがどうしてもと言うから…。」
ディートハルトに指を指され、マーモは声にならない悲鳴をあげた。
「違います!あたしの事早く皆に知らしめておきたいってディートハルト様が…!あっ!あたしがご迷惑になるから早く退出しましょうって言ったんです!」
「嘘だっ…」
刃先が首にが食い込み、ディートハルトは悔しげに歯噛みした。
「悪足掻きは無駄だよ、ディートハルトとお嬢さんには南の島での生活が決まっているんだから。」
男の微笑みは、ディートハルトを見慣れている筈のマーモが見惚れてしまうほど美しい。
それと共にマーモは、南の島という単語に僅かな希望すら感じる。
「島への連絡船は月に一回、二人きりで存分に愛を確かめ会うといい、似た者同士だ、上手くいくだろう。」
浮上した期待は地に叩き付けられ、真の意味を理解してマーモは瞳を震わせた。
方やディートハルトの瞳には怒りの火がまだ燻る。
「貴様は、そこまでして王太子の座が欲しいのか。」
「欲しいよ。リリィの為なら私は何にでもなれる。」
「そんなつまらない女のためにか。」
「君がそれを言うの?君は本当に解ってないな…。リリィはね、完璧を愛する王妃に献上するためにウォークマ公爵夫妻によってつくられた完璧な王太子妃なんだよ。」
呼吸による僅かな動きが無ければ崇高な造りの人形かのようなリリィを、男はいとおしげに見つめ、音量を下げた。
「リリィだけだった、入れ替わった私に直ぐに気付いたのは。それでも瞬時に己の役割を理解し、ディートハルトと私の記憶の齟齬を埋めるために側に寄り添ってくれた。しかしあくまで影、リリィは適切な距離を分かっていた。私は嬉しかった、私をディートハルトとして見ないのはリリィだけだったんだ。」
とても笑える話ではないのに、男の声は明るい。
「けどね、君がそこのお嬢さんに傾倒していくにつれ、リリィは壊れてしまった。君がお嬢さんと市井で遊んでいる間、私が内務をこなし、公務に出る機会が増えると、リリィは私とディートハルトの境が曖昧になっていった、遂には私が本物のディートハルトと信じて疑うこともなくなったんだ。」
リリィがほんの少し眉を寄せたのを見て、男はリリィの弟ハルセルに声をかける。
「ハルセル君。リリィの寝室まで案内してくれるかい?」
「……は、はい!」
理解が追い付かず唖然としていたハルセルは、弾けたように男に答えた。
足をもつれさせながら、室内への扉へ走るハルセルを、涼しい顔で眺める男は近衛騎士に指示を残す。
「そこの三人は拘束して城に運んでおけ。」
ディートハルト、マーモ、ガルラの三人は抵抗する間も無く後ろ手に縛り上げられる。
「おのれ、このままで済むと思うな!」
怒りに満ちたディートハルトが歯を剥き出しに叫べば、男は対象的な表情で向かえた。
「そうか、反乱の芽は潰さねばな。ディートハルトと判らぬよう、島に流す前に顔と喉を潰すとしよう、その身を持ってリリィを侮辱した罪を知るといい。」
男の本気を感じとり、ディートハルトにぞくりと寒気が走った。
ガルラとマーモもまた恐怖に言葉を失ったが、「やれやれ、君達ははっきり言ってやらないとわからなかったね。」と男が続けたので、びくりと体を強張らせた。
「お嬢さんは生半可な野心は身を滅ぼすと知っただろう。覚悟なき者が足を突っ込んだ報いをディートハルトと二人、生涯悔いることだ。」
邪な気持ちでディートハルトな愛を囁いていたマーモにとって、未来を想像すると絶望でしかなく、全てが崩れ落ちる感覚に陥った。
「ガルラ君にはまず、これまでディートハルトの護衛任務ご苦労だったと言っておこう。ガルラ君には、近いうちに北方の監獄に勤務してもらう手筈になっている。準備を怠らぬように。」
「…なっ…!」
ガルラは思わず何故かと問いそうになった所をぐっとこらえた。
「なぜ名家の自分が、過酷な北方の監獄に行かねばならないのかと、そう思ったかい?…私はね、家名に胡座をかく無能な輩が嫌いなんだよ、あそこなら否が応でもやる気になるだろうさ、頑張りたまえ。」
男はガルラの反応を見ることなく、邸へと歩み始める。
怯えるハルセルが迎え入れ男が室内に消えると、近衛騎士達は、主の命に従い静かに動き出した。
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ウォークマ公爵家邸内。
王太子に抱えられたリリィが寝室へと運ばれ、一人を残し去っていったマント姿の近衛騎士達と、騎士に囲まれたガルラ、マーモの二人を使用人は見送った。
王太子と同じ髪を覗かせるマントの男も、騎士に囲まれていたが、使用人達はそれほど気にはならなかった。
嵐が過ぎ去ったかに思えた公爵家であったが、応接室ではまだ終息寸前の風が吹いていた。
「あ、あの…ディ、ディートハルト様。ぼ、僕も罰せられるのでしょうか…?」
縮こまりながら、やっとの事で切り出したハルセルは、男を――ディートハルトを恐る恐る伺う。
「そうだね…、例えハルセル君が社交界で、夢見る子息と噂されていても、俗な本に影響されて姉を真実の愛の為のスパイスだと思い込んでも、リリィが大事にしているハルセル君は私も大切にしたいと思っているよ。」
ハルセルはほっとした。
ディートハルトの言う通り甘い考えだったハルセルは、先程嫌というほど現実はハッピーエンドで終わりではないと突きつけられたのだ。
間違いなくアチラ側の人間であるのだから無事では済まないと覚悟していた。
しかしながら、この流れでハルセルが無傷でいられるはずもない。
「ただね、一つだけ。リリィはハルセル君が公爵家をちゃんと継げるのか心配しているんだ。リリィが悲しむことがあれば、ハルセル君はご両親と同じ道を歩んで貰うことになる。…意味はわかるよね?」
最近夫婦揃って、開拓地へ長期視察に出掛けて行った両親を思い浮かべ、ディートハルトの力が働いたのだと気付く、更には両親のいない間にと、屋敷の一切を取り仕切る優秀な女性を紹介してくれたのはディートハルトだった。
今ならあれがどちらのディートハルトか考えるまでもない。
国王がいまだ健在の内に側近を地方に飛ばせるほどの力を持つディートハルトの底知れなさも、それらが全てリリィの為の行動である事も、姉は何処まで知っているのか、何処までディートハルトの掌の上なのか、想像膨らむハルセルは、ただただ王太子の逆鱗に触れないようにと心に誓った。