ある少年
1
今が嫌いだ。どうしようもなく。特にこの街を見ているとそう思う。何も考えてない、あるいは考えるのをやめてしまった馬鹿どもが目の前で汚い川のように流れ、行き交う中、僕は壁にもたれかかり、電話が来るのを待っている。足元には汚い猫がいて、捨てられた缶詰を舐め回している。最初はそれに対して軽蔑に似た気持ちを抱いていたものの、ずっと眺めてるうちに、変な親近感を覚えてしまい、それまでの荒んだ気持ちが少しは癒えたような気がした。
電話が鳴った。通話ボタンを押す。
学がなくて支配欲が強い奴に特有の、いつものうるさい声が聞こえる。最初の頃は自分の置かれている状況も含めて鬱陶しくてしょうがなかったが、今ではもうとっくに慣れてしまっている。なんとも思わなくなっている。いつもそうだ。そうやって、慣れというものによって、よくわからない悪どい何かに、自分はごく自然に押し潰されていくんだ。かといって、その何かを打ち倒すどころか、せめてもの反抗をする気力さえもない。嫌になる。そんな気分になって、いまだスピーカーから流れる騒音を強制的にこの空間から消し去ってやった。少し落ち着いた。自然と下を向いていた頭を上げる。馬鹿どもは流れ続けている。
もう一度頭を下に向けると、あの猫はもういなくなっていた。
2
「君が僕が頼んだ子?」
振り向くと、店で聞いた通りの男が立っていた。太っていて顔には無精髭、メガネをしている。想像から外れていたのは、高そうに見えるトレンチコートを着ていたことだけだった。ボタンを全て閉めていたから露出狂にしか見えず、この人混みの中ですごい挑戦をするな、バレたら知らないぞ、他人のふりして逃げよ、とまで考えたが、すぐに暑そうに外してスーツを見せたので、なぜかホッとした。
男と一言二言話したあと、流れゆく人々のその流れに加わった。こういう街を歩くのは久しぶりで、この仕事を始めさせられてから最初の頃に、こういう普通の街を歩いたとき、「この街にとって僕は異物に似た存在なのだろうか」と思い初めた。この考えは日に日に大きくなって、「異物」が「害虫」や「吐瀉物」へ、「街」が「世界」へと変化していくと、追い詰められて、影があるところ、自分を照らさない、誰も見ていない闇へ逃げ込みたくなってしまう。そんな時期が長く続いて、気づいたら、取り返しのつかないところまで来てしまった。あーあ、死のうかな、とも考えたけど、少し前に同じ仕事をしている年下のやつからこれと同じようなことを友人でもないのに勝手に打ち明けられて、これが共通のものなのだと知った。少し救われている。
歩いている間、男は今日までさんざん考えた上で使うことを決めたであろう猫なで声を使って言葉をまくし立ててくる。
「君はさ、この仕事始めてどれくらい経つの?」
客はこんな風なことを必ず言ってくる。こんな言葉ひとつからでも、そこには、あどけなさの残る子どもがこういう仕事をしていることに対しての憐れみと軽蔑と、そんな子をこれから心身ともに征服することができるという錯覚から生まれる優越感や興奮が含まれている。それを撒き散らす当の本人は隠しきれてるつもりなのだろうが、全ての言葉や眼差し、そして接触する瞬間にもその感情は滲み出ている。そんな感情にどんな感情をぶつけても無駄なのは分かったので、適当な返事をして何も考えないようにしている。
「どーなんですかね。あまりそうゆうことは覚えてません。」
「またそんな無愛想な返事して。でも、そんな子に限って、意外と後でその時になると素直な反応するんだよね。おじさんさ、君みたいなタイプ何度も見てきたからね。ほら、経験豊富だから。」
「・・・・・」
「そんな軽蔑した目で見ないでよ。おじさん的にはさ、君みたいな子にはもっと明るく楽しくいて欲しいなあ。まあ、そういう暗―い感じもいいけどね。こっちにもやりがいが生まれるからさ。」
「はあ。」
「あぁーもうなんでそんな素っ気なくかわすのかなぁ。そんな受け答えしてたらね、将来ろくなことにならないよ。あ、もうなってないか。こんな仕事してるんだもんね。」
何も考えない。何も考えない。何も考えない。
「冗談だって、もお。ちゃんとしたりっばあ仕事だと思ってるよ。責任持ってやってよ。」
「そうですね。それなりにプライドもありますからね、責任持って手短に済ませます。別にあなたに対して僕は何の私情もないんで。」
言ってしまった。男は少し驚いたような顔を見せて黙った。
「い、言うねー。よろしくね。」
言いたいんだろうな。「娼婦の真似事をしているマセガキめ、後でお前を殺すように犯してやるからな。」って。
そんなやり取りを続けて、男とともに進んでいくと、いつの間にか眩しいネオンサインや騒がしさで溢れているいつもの通りにいた。何度も訪れているが、この場所だけはいまだに慣れない。
「もう場所は決めてあるから。」
そう言って男は勇み足で前へと進んだ。その姿は人工の光で色とりどりに照らされていたものの、醜く、滑稽だった。
3.
やがて、男が選んだと言う建物に着いた。かなり安っぽく、その男の色々な限界がこの場所を通して表現されているように見えた。男は動かし続けてた足を止めて、入り口から向かい側にあった自販機へと方向を変えてまた進み始めた。立ち止まったままでそれを見ようとしたが、男に呼ばれたのでついていった。自販機の目の前にたどり着いたと同時に「どれがいい?」と聞かれる。こういうのがだいたい人に選ばせるものではないことは分かった上でやらせているのであろう。「じゃあこれで。」「ふーん。」
辺りはもう闇に包まれている。自販機の灯りだけが僕と男を照らして、僕はそれが今日どころかここ数ヶ月で初めて見た柔らかい光であることを知った。男はその灯りを使って財布から100円を探していた。
買った後、入り口へ向かう間、まだ喋りかけている男は自分の目的が達成される場所に到着したので緊張したのか、
「さあ、入ろうか。」
と猫なで声をやめ、妙にかしこまった態度へと変わっていた。
中に入る。受付へと向かうと、そこにいるはずの受付嬢的な存在がいなくて、中が真っ暗になっている。男がそこに向かって「すいません」と声をかける。反応はない。「すいませーん」何もない。「すいませーん!」男は焦りを見せながら徐々に語気を強める。でもまだ真っ暗。「すいませぇーん!!おい!ねぇ!」電気が点いて眠たげな老婆が出てきた。「寝てたの?」「あーすいません」「ったくもう」不愉快そうな男が金を払うと、老婆から鍵を投げつけるように渡された。男は何か言おうとしたが舌打ちだけして結局何も言わず、鍵に書かれた部屋番号を見た。男に続いて見る。三〇四号室だった。
エレベーターに入ろうとすると、ちょうど他の利用客が一階についたところで、親切心でシャッターが開けると長身の男とともに仕事仲間がいた。僕と仲良くしようとしているやつだ。僕は知らないふりをしようとしたが、そいつはこちらを何度も見てきた後、悪い客つかまされたなとでも言いたげにふふっ、と笑った。僕の危惧していた通り、男にあいつと僕との関係性を問われた。しかもこういう時に限って、エレベーターが古いので、上へと進まない。知らないと言い続けた。やっと3階に着き、軋んだ音を出すシャッターを開けて出ると、男は部屋に向かって急いで移動する。それを追いかけた。
4.
部屋に入り、お互いに準備をする。男は早速服を脱ぎ始める。これから自分だけに与えられる快楽を目の前にした興奮で全く脱げていない。僕はこれからやることについて考えを張り巡らせているので、男に返事をする余裕はなかった。
「今日はしっかりお金かけてコースとかオプションとか選んだからね。」
男はYシャツをようやく脱ぎ終えて、ズボンに手をかけながらそう言っているのがかすかに聞こえた。それを背にして、僕は持ってきたナップザックに手を入れ、漁る。内側のポケットにあるはずなのに、中々見つからない。忘れた?もしそうだったらこの場から逃げるしかないけど、見つかったら大変なことになる。どうしよう。
「ねえ。聞いてる?」
「あ、はい。すいません。」
「嘘だね。聞いてなかったでしょ。君は最後までしっかりそれに見合う仕事してね、そんな態度で奉仕しないでねってこと。」
「はい。」
見つけた。よかった。男の方へ振り向くと、最後に着用している靴下と悪戦苦闘しながらなおも喋っているところだった。
緊張する。なにせまだ2回しかやっていないから、それも当然だとおもう。この仕事もそろそろ辞めなきゃいけない。見つかるのも時間の問題だから。こうやって考えれば考えるほどできなくなるし、タイミングを逃すことになるのは分かっているので、すぐに自分を消すように努めた。幸い男はまだ後ろを向いている。
そこに取り出した拳銃を構え、男の後頭部に狙いを定める。大きく深呼吸をして。
大きな音がした。
破裂音の残響が部屋を満たす。男は真っ赤に染まっていくシーツの上でうつ伏せに倒れている。その時まで自分を身体の中に押し込めていたから、どっと疲れが押し寄せてきた。
僕は安堵からくるため息を出して、数時間前に聞いた「うるさい声」がいるところとは違う場所へと電話をかける。しばしコール音が鳴ったあと、繋がった。
「もしもし?」
静かな、でもそれでいてはっきりと伝わる声がした。その声の主を僕は尊敬している。
「もしもし。」
「ああ。終わったか?」
「あ、はい。今日は片しとくのに時間が掛かるから、迎えに来ないで先に帰ってていいですよ。」
「そうか。分かった。じゃあな。」
「え、あっ、はい。」
そうして身勝手に電話は切れた。残響は既に消えていて、代わりに静寂が辺りを包む。ふと思いついて、男が脱ぎ捨てたズボンから見えていた煙草を取り出し、フタを開ける。封は破いてあるもののまだ手をつけてなかったらしく、20本ほどが規則正しく並んでいる。早速その中の1本を口に咥え、壁にかかった大きな鏡で自分の姿を見ると、それほど似合ってはいなかった。テーブルに置いてあるマッチで火を点けて、出来るだけ大きく吸い込む。すぐにむせて煙を吐き出してしまった。灰皿に捨てる。たぶんこれが最初で最後の煙草だと思う。吐き出した白い煙が僕の周りを漂っている。
今が嫌いだ。本当にどうしようもなく。
突然扉が開いて、あいつが出てきた。「大丈夫!?」そう叫んだ後すぐに僕の隣にある惨劇の跡を見つけて、言葉を失っている。この仕事はそれなりに気に入っている。少なくとも前のよりはましだと思うし、今を嫌うこともなくなるかもしれない。だから始めたのだ。そいつはまだ呆然とした目で僕を見つめている。僕は久しぶりに笑いたくなった。本当に久しぶりだから、そうするための方法も忘れていたけど、どうにかしてそれを思い出しながらそいつに向けて笑った。
「まぁね。なんとか大丈夫だよ。」