八王子②
あれからどれくらい経っただろうか。
室内ということもあり、時間の経過が分からない。
そう言えばスマホを持っていた。使えるかどうかは分からないが。
押収されたのはスーパーの袋と財布ぐらいでポケットの中には特に興味が無いようだった。
財布を持っていかれたのも何かナンバーコードが分かるものが無いかという理由らしく、家の鍵やスマホは普通に返された。
スマホの電源を入れてみる。
時刻は19時39分。捕まったのが14時過ぎだったから、連行される時間を引いて寝ていたのは4時間ちょっとか。
仮に僕が居た八王子と時間軸が一緒であるのならば、穴に落ちてから一日以上経っている。
流石にお腹が空いた。トイレにも行きたい。
檻の中を見てもトイレはありそうに無い。垂れ流せということなのだろうか。
人間限界が近づくと大胆になれるものだ。
なんならここで用を足せば、エントランスにいるムカつくつなぎの奴らに降りかかるというわけだ。
ちょっとわくわくしてきた。
ガラスの向こうの職員には丸見えだが、20メートルも離れていれば人の動きは分かっても局部までは見えないだろう。
意を決し、チャックを下した。
エントランスに狙いを定め、溜めていたものをぶちまける。
喰らいやがれ!
ああ、すっきりする。
「なんだ!つめてぇ!」
突然下から女の子の声がした。
びっくりして出ていたものが止まった。
きっとあまりの異常さに細部が見えなくなっていたのだろう。
割とすぐ下に別の檻があったことに気が付かなかった。
「おい!おっさん!何こぼしてんだよ!つめてぇじゃねぇか!」
見ると檻の中に真っ赤な長い髪の中学生くらいの女の子がいた。
僕の息子がしでかした粗相に気が付いていないようだった。
「ああ、ごめん。ちょっと水をこぼしてしまって。大丈夫だったかい?」
「気を付けろよ!居眠りしてたら急に冷たいものが降ってきてびっくりして起きちゃったよ。おっさん、もうボケが始まったのかよ。手元が狂うなんてボケ始めの証拠だぜ。」
下にいるので分からないが、女の子は顔こそ童顔だが、手足はすらりと長く、その佇まいは色気すら感じた。
それよりもそんなに老けて見えるのだろうか、ずっとおっさんと呼んでくる。
「悪かったとは思うが、おっさんじゃないぞ!まだ19だ!君からしたら年上かもしれないが、一応まだ君と同じティーンエイジャーだ。」
すると女の子は不思議そうな顔をした
「ティーンエイジャーってなんだ?19なら、やっぱりおっさんじゃねぇか。それより、これ本当に水なのか?なんだか臭うんだけれども。」
中学生からしたら19歳もおっさんなのかと思うと悲しくなったが、それよりも液体の正体に気が付かれそうだ。僕は話題を変えることにした。
「それよりも訊きたいんだが、何か食べるものはもってない?お腹が空いて倒れそうだよ。」
僕がそう言うと女の子はますます不思議そうな顔をした。
「なに言ってんだよ。そんなの普通に頼めばいいじゃん。」
そうして女の子は、ねぇ何か拭くもの頂戴と壁に向かって言った。
すると壁から先程乗ったエレベーターをバスケットボールぐらいの大きさにしたものが壁からこちらに向かってきて、彼女の檻の前で止まった。
その中に彼女が手を突っ込むと、その手の中には真っ白なタオルが握られていた。
「ほら、こうすればいいんだよ。」
良いことを聞いたので僕は早速壁に向かって何か食べるものをくれ!と叫んだ。
すると先程と同じように真鍮色のバスケットボールが僕の檻まで飛んできて、中を見ると何やら容器と水が入っていた。
「ってか、そんなことも知らないで、なんで水なんか持ってるのよ。いくら拭いても臭いは取れないし、なんだかしょっぱいし、なんなのこれ!」
真実を言っても彼女は傷つくだけだろう。僕はとぼけることにした。
しばらく彼女はぶつぶつと何か言っていたが、途中であきらめたのか再び寝息を立てだした。
そんな彼女を横目に僕は食事に取り掛かることにした。
よく異世界のものを食べると元の世界に戻れなくなるなんて言うけれど、僕にとっては一日ぶりの食事だ。目の前に食べるものがあるのに放っておくわけがない。
だから、どんなものでも食べてやるぞという気持ちで容器の蓋を開けてみたが、なんとも判断しずらいものが入っていた。
まず、米やパンなど主食的なものがない。というよりもカラフルなカ〇リーメイトが詰まっているという感じだ。とりあえず見た目的にもカ〇リーメイトにしか見えない黄色い固形物を口に入れてみた。
うーん、マッシュポテトから塩っ気をゼロにしたらこんな感じになるかなというところだ。
次に緑色のものを食べてみたが、青臭さが強調されたセロリの味がした。
全体的にそんな感じで唯一食べれなくもなかったのは茶色のやつで、湿気たかりんとうの味がした。
お腹こそ満たされたものの食べたことの喜びはなかった。
食欲も満たされるといよいよすることが無くなった。
時間も時間だし職員も帰っているだろう。呼び出されるとしても今日はもうないだろう。
そう思って僕は寝ることにした。
全くもって寝る環境ではなかったが、気疲れしていたのだろう。すぐに眠りに落ちた。
ちなみに先程壁に向かってトイレに行きたいと伝えたところ、檻がすーっとトイレのあるところまで移動した。
赤髪の女の子には悪いことをしたが、おかげで僕はすっきりとした気持ちで眠ることが出来た。
「おい、起きろ。」
僕は柳田の声で目を覚ました。
読み通り、日付は変わっておりスマホを見ると朝の6時だった。
「おはようございます。こんな朝早くから出勤なんて大変ですね。」
公僕である柳田を少し哀れに思い、挨拶をした。
「ああ、あんたのおかげで昨日は家に帰っていないからな。チップも持っていないナンバーコードも分からないおかげで事務作業が大変だったよ。」
「なんか、すみません。」
一応謝っておく。確かに柳田の声には疲労感が滲んでいる。
早く来いと手招きされ、僕は檻から出た。
「手錠はいいんですか?」
と訊くと、いいから早く来いと僕の腕を掴み歩き出した。
「本来であれば、そんな奴はみっちりと尋問するか秘密裏に豚の餌にでもするんだがな。引き取り手が現れてしまったせいでそうもいかなくなった。」
だいぶ物騒な冗談を言う。警察がそんなことをしていいわけがない。
それよりも引き取り手が現れたとはどういうことだ。こっちの八王子には勿論、地上の八王子ですら引っ越してきたばかりで知り合いはいない。
「引き取り手、ですか?もしかして僕の両親とか?」
「いや、違う。それにあんたの親ならもういい年だろう。迎えにくるのもきついはずだ。」
違う?では一体誰なんだ。全く見当もつかない。
「誰なんですか引き取り手って?それにうちの親は56歳ですけど、まだまだ元気ですよ。毎朝ジョギングしてるし。」
と僕が言うと、柳田はマスク越しに睨みつけてきた。
「いいか、今度いまのような下手な嘘をつくのであれば檻に戻すぞ。仮に冗談だったとしても笑えない。あんたのような身元不詳の怪しい奴をなんであの人が引き取ろうとするのか分からないが、少なくとも俺の中ではスパイ容疑は晴れていない。あんた自体もあの人との関係性を認識していないみたいだし、ほんと特例もいいとこだ。」
56歳の親父がいるってそんなに信じられないかな。確かにやや遅いかもしれないけど、上に兄貴もいるし普通だろう。
それにしてもあの人とは誰なんだろう。
考えていると前から黒川がやってきた。
「なにを揉めているんだね柳田君。ハチ様がお待ちだ。はやく彼を連れてきなさい。」
昨日と打って変わって柔和な態度だ。柳田のことを君付けしているし。
とりあえずハチ様とやらが僕の引き取り手らしい。相当偉い人物なのだろう。
黒川が本人もいないのに手袋越しに揉み手をしている。
チッと柳田が舌打ちしたような気がするが、マスクを着けているので分からない。
僕は黒川と柳田の同行の元、部屋に入ると人が座っていた。
こちらに気が付き、振り向く。
「いやいやお待たせ致しましたハチ様。この方がハチ様が仰られていた人物で間違いないかと。ご確認ください」
黒川が媚びた声で座っていた人物に話しかけた。
彼は椅子から立ち上がり、僕に近づいてきた。
そして、その風貌と酸っぱい臭いで昨日話しかけた人物だと分かった。
彼の目的は分からなかったが身元不詳の僕がここから出るには、どうやらハチ様とやらに頼るしかなさそうで、どうにでもなれという気持ちだった。
「昨晩は檻越しでしたし、眠っていましたのではっきりとお見せできませんでしたが、如何ですか?」
と黒川が言うので、昨晩眠っている間に寝顔を見られていたことに気が付き恥ずかしくなった。
「うーん、やっぱりよく分からないけど多分この子!じゃ、連れて帰るわね。」
驚いたことに目の前の大柄な彼は妙に艶っぽい声で言った。
というか、普通に女性の声だ。あまりに背が高くがっしりとしているので男だと完全に思い込んでいた。
160センチほどの黒川と並ぶと大きさが際立つ、黒川よりも頭一つ大きく190センチ近くあるのではないかと思われた。
そういうわけでとんとん拍子に話が進み、荷物も全て返され僕はこの人に引き取られることになった。
あっさりしすぎて気が抜ける。黒川なんかはエントランスまで見送りに来て角を曲がるまでずーっと頭を下げていた。
「さて、まずマスクを着けないとね。後でちゃんとしたの買ってあげるけど一応私が昔使ってたの持ってきたから着けて。」
と、何やらごそごそと服の中から取り出し僕に渡した。
周りの人が付けているのとは若干デザインが異なり、呼吸をする部分がくちばしの様にとがっている。
マスクの部分が黄土色で嘴は銀色だ、この人が昔使っていたとなるとそれが黄ばみに見えて着けるのを躊躇した。それが表情に出たのか、ちゃんと洗った気がするから大丈夫と心配なことを言われた。
意を決してマスクをつけた。
特に臭いもせず、意外なことに呼吸が楽になり、すっきりとして気分がいい。
驚く僕に、今度はこれと差し出されたのが中二病も真っ青なゴーグルだった。
こちらも茶色で、バンドの部分は皮でできており作り自体はしっかりとしている。
しかし、レンズの部分が右目はカメラのレンズの様になっておりレンズの上には歯車が三つ付いている。
歯車の根元にプラグの差込口があり、皆が背負っている機械の配線を繋ぐのだろうか。
左目はルーペが沢山ついており、ルーペの横にライトが付けられていてスイッチで明るく出来るようだ。
機械で繋がっていないせいか、スイッチを入れても光は付かない。
一瞬にして僕はスウェットにパーカー、黄土色の嘴マスクにスチームパンク風ゴーグルという休日のペスト医師の様な格好になった。
その恰好を見て満足そうに息を吐くと
「うん、サイズは問題なさそうだね。それじゃあ、家に帰ってゆっくり君の話を聞かせてもらおうかな。」と言って僕の背中を軽く叩いた。
こうして僕は素顔も性別も定かでない人物の家にドナドナされていった。