悪魔の流儀
3月26日誤字修正しました。
漂う硝煙と血の香りに砂埃。
きっと永遠にそれを忘れることはないだろう。
この身が変わり果てても、この記憶が色褪せても。
魂に刻まれたその全てはーー。
「旦那様おはようございます」
春らしい快晴の朝、男装執事は主の寝所を訪れていた。ややきつめのつり目が目立つ可憐な容貌はどこか少年めいているがすらりとした肢体は男物の執事服を纏いつつも女性特有の柔らかさを帯びており町中を歩いていれば人目を引くに容易い。そんな彼女がその扉を開けた瞬間目に入ったものを見てげんなりとした顔になる。
「おい、そこの色ぼけ家令、朝から旦那様の下着を嗅ぐのを止めろ。気持ち悪い」
安らかに寝台の上で麗しい寝顔を浮かべている主はいい。だが問題はその寝具の中に潜り込んだ上で明らかに脱いだ後の下着を頭に被る美青年家令だ。
「ノエルさん、おはようございます。今日の供物もまた一段とかぐわしく素晴らしいですぞ!」
「この前みたいに具体的に実況したら殺すぞ。そういう趣味はてめぇだけで十分だ」
上司に対する態度とは思えないほど殺意と嫌悪感に満ちた視線に青年家令はうっとりとした顔になる。
「あああ……ノエルさんが私を蔑んでいる……し、至福!」
「本当にこいつ、うっかり馬車に轢かれて死なないかな」
そのボーイッシュな見た目に相応しく男前に毒舌を吐く男装執事。そんな風に大騒ぎをしていたせいだろう、主であるカンタレラ伯爵が目を覚ます。そして美青年家令と男装執事を見比べすぐに真顔になった。
「おはようございます旦那様」
「お目覚めになられましたか旦那様」
男装執事はいつものように完璧な所作だ。しかし。
何故美青年家令の方は顔面にパンツを覆面のように被っているのだろうか。乙女を蕩けさせるような爽やかな笑みを浮かべているだけにたちが悪い。
「……セイル、お前は、また……いや、もう何も言わん。終わったらシャーリーに洗濯してもらうように」
「かしこまりました!」
相変わらずパンツを被ったままの美青年家令にカンタレラ伯爵の眉間に皺が寄る。十中八九呆れによるものだろう。と、さらさらとした絹が擦れるような音が聞こえる。
「若旦那様おはようございます。私をお呼びになられましたか?」
その音が止んだ時には髪から着ているお仕着せまで全てが純白の女性使用人がいつの間にか現れていた。彼女は怜悧な藤色の瞳で三人を凝視し……表情一つ変えることなく美青年家令の首根っこを掴んだ。
「若旦那様、このどうしようもない家令は私の方で矯正しておきますので朝御飯をお召し上がり下さい。おそらく、ジャックが丁度よい加減に盛りつけをしていらっしゃったので」
そのまま彼女は自分より上背のあるはずの使用人仲間を片手で軽々と引きずっていく。それを見送って男装執事は主人のお召し替えをすることにした。
ここは栄光の女王陛下が君臨する王国。この世の中心と誉れ高いこの国にも暗部はある。
その一端を担うのがこのカンタレラ伯爵家。古くからの伝統に加え、年若くも聡明な元軍人の当主、ヘンリー・カンタレラが発明する数々の技術や王宮さながらの研究により絶大な力を持つ貴族。
だが。
男装執事ノエルは深々と溜め息を吐く。
「どうしてこうなった」
ヘンリー・カンタレラおよびノエルの前にあるのは果てしなく消し炭に近い何かと生肉に近い何かだった。
「ジャック、弁明は?」
「やっぱり俺、料理は無理です。切ったり解体したりは得意ですけども火加減や煮加減は分からない。加えて最新式の機工炉や機工釜、俺の手に負えませんわ」
ジャックと呼ばれた爽やかなシェフは乾いた笑いを浮かべる。自分でもこれはないと思っているらしい。ノエルは無言で下げようとしたがむぐむぐと頑張ってそれに手を付け始めたヘンリーに気づき、血相を変える。
「旦那様、ぺっしてください!? そんな劇物食べたら腹下します!」
「大丈夫問題ない……戦場の飯よりはましだ……多分」
ボリボリと炭を齧る音が内装は豪華な食卓に響き渡る。そのままノエルがアイロンした新聞紙に目を通し始めるのだから最早ノエルは白目になっていた。ちなみにこれでこのやりとりは一週間続いてる。
「……なんかすまん。ノエル、いい加減俺に料理を教えてくれ。旦那様に申し訳がなさすぎる」
ジャックの嘆願にノエルは力なく頷いた。確かに料理をろくにしたことがないのにジャックをシェフにしたのはヘンリーの命令だ。ジャックが努力しているのもわからなくはない。何しろ最初は生肉に調味料をぶちまけただけのものが続いたのだから。だがそれでも酷すぎる。他の屋敷の面々の性格を考えれば彼はまだなんとか矯正できなくもなさそうだ。
そんなことを脳裏で計算していたノエルは早速これから一週間はジャックに料理を教える時間を設けることにした。
「わかった。基本から教えてやるから真面目に学んでくれ……」
ちなみにノエルはまだ知らない。ジャックが壊滅的な味覚音痴だということを。
とその時だった。
庭がある方向から聞こえてきた爆発音。まるで水蒸気爆発を起こしたような危険な衝撃に男装執事と味覚音痴シェフの纏う雰囲気が変わった。
「敵襲!?」
「旦那様、奥へ!」
二人が慌てて主人を庇おうとするがヘンリーは鷹揚にそれを制した。
「いや、この音はセージが手入れに失敗した音だな。珍しい。もう春先だったか?」
セージ。それはこの屋敷の少年庭師だ。とはいえ見た目こそは少年だが本当に少年かは疑わしい。何故ならノエルが来てからの五年間、その庭師の風貌は全く変化していない。
そしてその名前が出た途端ノエルの顔がどぶ水を全身に浴びたかのように歪んだ。
「ああ、あの時期ですか」
「セージさんって……ノエル、あの人って無愛想だけど滅茶苦茶仕事できる人だよな?」
ジャックの問いにノエルは頷く。
「普段はな、うん、普段は。お前がこの屋敷に居着くようになったらどうせわかるが……春先だけはセージは使い物にならない」
去年の醜態がノエルとヘンリーの脳裏を過ぎる。鮮烈な悪夢とは思い出したくもないが思い出してしまうものである。
「どうしてさ」
「……ジャック、庭に一本だけ桜の木があるだろう?」
「はい、ありましたね、旦那様。絶対触れてはならないと」
だがこの先を言えるほどにはヘンリーは羞恥心を捨て切れていないようだ。どう言葉にしたらいいか迷っている主の代わりにノエルは引き継ぐことにした。
「あいつ……あの桜に発情するんだよ」
「はい?」
「もう一度言う。セージは植物に発情するんだ」
何故こんな悲しいことを新入りに教え聞かせねばならないのか。更に生気が抜けていくのを感じたノエルに追い討ちがかかる。
「違いマス! 僕がむらっとするのはミサオだけデス!」
感情に起伏はないがイントネーションがどこかおかしい単調な声。
食卓に飛び込んできたのは泥だらけの少年庭師だった。
「ミサオ……?」
「そしてジャック! アナタのそれは料理とは言いません! 出直してくるがよいデス!」
奇妙なイントネーションとその鮮やかな罵倒にはそぐわない無表情の童顔を持つ少年庭師は何かを取り出す。
「そんな食べ物の死体みたいな黒こげを食べるよりこれ! 摘みたて野菜のサラダを食べるがよいデス!」
それは素朴な木の器に盛られた色とりどりの野菜。見た目からして華やかなそれに思わずヘンリーとノエルは喉を鳴らす。だがその空気をぶち壊したのはジャックだった。
「ん? でもなんでサラダ作っただけで爆発音がしたんだ? 火気使わないはず」
次の瞬間。
表情がわかりにくい淡々とした紫の瞳が珍しく焦りを帯びる。それを見てノエルはすかさずその襟首を掴んだ。
「ジャック、いいところに気付いた。貴様、何しやがった?」
「そ、それは……ミサオのこと考えてタラ、剪定していたあの気味の悪いうねうねしたでかい木が弾け飛んでたネ! 悪気はなかったヨ!」
セージがそう形容する木をノエルは脳裏に思い浮かべ血の気が引くのが分かった。
「よりによって、お前、先代様のお気に入りをダメにしやがったのか!?」
更に締め上げる力が強まったのを横目で見つつヘンリーはサラダを口に運ぶ。ぷちぷちとしたみずみずしい種の食感と根菜の甘さに葉物のシャキシャキ感。やはり植物に関してなら彼に敵うものはいない。だからこそ表向きの職業は従僕でありながら庭師を主にやらせているのだが。
「痛いのデスよこの貧乏ギャンブラー執事! 離さないと侵入者撃退用の触手うごうごくんの前に叩き出しますヨ!」
「おっとそしたらうっかり炎上させてやる! ってかてめぇ本当に反省する気あるのか!?」
このサラダ、本日の晩餐にも出そう。と、そこでヘンリーは大切なことを思い出す。
「そうだ。本日の予定だが、例の商人様をご招待する」
一同の間に流れる空気が一変した。緩みきった日常はたちまち冬の朝の空気よりも鋭く剣呑なそれに塗り替えられる。
嗚呼、この瞬間がたまらない。そのために普段は貴族に対する態度とは思えない、それどころか社会不適合者でしかない彼等を使用人として支配下に置いているのだ。
ヘンリーは満足げな笑みを浮かべる。
「ジャックは初めてのお客様だったね。ノエルの言うことを聞けば君なら問題ない。では……くれぐれも丁重にもてなしてくれ」
一見すれば穏やかな、だが紛れもなく酷薄な指示。一同の目にも不気味な光が宿る。
「御意」
カンタレラ伯爵家。
王国の中でも特に絶大な力を持つというその貴族家には様々な噂がつきまとう。
例えば不死の悪魔を従えている悪魔憑き。例えば黒ミサをし外道な魔術を習得している。
いくら王国に昔から悪魔や魔術が存在しているとはいえ明らかに眉唾ものでしかないそれ。だがカンタレラ伯爵家の場合はそれが噂とは思えないのだ。
当主のヘンリー・カンタレラは元軍人だ。飛び抜けた麗しさと人間離れした頭脳から先代当主の父に疎まれ、いわれない誹謗から荒野と原始的な森ばかりの新大陸の戦場、それも貴族が行くはずのない激戦区の最前線に一兵卒として送り出された。当然負け戦だったため部隊は壊滅した。
だが彼は死ななかった。否、正確に言うならば彼だけは死ななかった。
先代当主が急な病にて死に、急遽慌てて帰国を促された時、彼は赤く染まった原生林の中で見たこともない兵器を纏い帰国の日を待っていたのだという。
少しばかり痩せてはいたが怪我一つなく、悪路を勝手知ったる様子で歩きながら鷹揚と手を振ってきたとのことだ。部隊が壊滅し、奇跡的に生き延びた指揮権を持たぬ彼はそのまま雌伏し、地の利が
あるはずの地元の兵士にゲリラ戦をしかけ続けて無事殲滅、そのまま物見をしにくる自国の兵を待ち続けたのである。
だが何故不足していたはずの装備でそれが可能だったのか。答えは彼の卓越した技術と才能だ。死んだ兵士の兵器を密かに回収し、新兵器を作り、不要な部品でひたすらに罠を仕掛けたのである。その機械仕掛けの鎧を纏い、殺戮を繰り広げる姿は悪魔のようだった。
それゆえついた別名は『機巧伯爵』。だがその百年以上先の未来でもたどり着けるかわからない技術力を畏れられ、彼は本来の身分に相応しく貴族として国の監視下に置かれる。その時には既に今いる使用人の大半が彼の後ろに従っていた。
「家令セイル・ポーターと従僕のセージは初期からいると判明している」
いつも柔和に微笑み心中が読めない家令と、正反対に仕事や礼儀作法は完璧なのに無表情で口数も少ない少年従僕。
だが彼、武器商のアンダーソンはそれ以上に当主のヘンリー・カンタレラを不気味に思っていた。
「あいつは邪魔だ。あいつさえいなければもっと武器が売れるのに」
良くも悪くも『機巧伯爵』は抑止力になりすぎた。紛争が減り、売上がここ数年落ちている。
だからここで始末して盛大に戦争になってもらわなくては困る。
アンダーソンが暗い笑みを浮かべるとその背後にいた新しく雇ったばかりの用心棒がつまらなさそうに鼻を鳴らす。
「カンタレラの技術が失われれば二百年先の未来まで世界にとっての大損害になるのだが……そう仰せなら仕方があるまい」
「悪魔憑きは並大抵の殺し方では死なぬという。だからこそ貴様を雇ったのだ。『悪魔殺し』」
そう呼ばれた用心棒は深く溜め息を吐いた。
「ええ、雇われたからには善処はする」
もっともうまくいくはずがないだろう愚か者めと心中で小馬鹿にしながら。
アンダーソンを出迎えたのは明らかにこの国の者からかけ離れた美少年だった。美少年は優雅な仕草で彼等を出迎える。
「アンダーソン様およびお連れ様、お待ちしておりました」
艶やかな黒曜の髪と紫苑の瞳。どちらもこの近辺では珍しく、どちらも揃っているとなればこの国に十人いるかどうか。加えて人形のような美貌だ。迂闊に裏通りを通れば人身売買されかねない。もし首尾よくヘンリーを殺せたら好事家に売り飛ばそう。アンダーソンの思考を読んだのか用心棒の青年が再び軽蔑の目でアンダーソンを見た。
「……何か?」
無表情で少年従僕が首を傾げる。アンダーソンは慌てることなく首を振る。
「いや、なんでもない。案内をするがいい」
「かしこまりました」
と、一歩踏み出してアンダーソンは三回だけ踵を鳴らす。それが意味することを知っていた用心棒は少しだけ考え込み、やがてすぐに嗜虐的な笑みを浮かべその後ろに続いた。
踵を三回鳴らすのは作戦開始の合図。屋敷から離れた森に潜んでいたアンダーソンの手先は速やかに行動を始める。彼等は今回雇われた用心棒と異なり元々アンダーソン子飼いの荒くれ者共だ。その数、三十。使用人も少ないという貴族の屋敷に割く人員としては過剰だろう。
だがそれでも足りるはずがない。
セイルが持ってきた情報を眺めながらヘンリーは喉を鳴らして笑う。
「たった三十!どうやらアンダーソン氏は我等を舐めているらしい。私ですら五分で片付けられるぞその程度」
「ただその用心棒とやらは少々面倒そうですね。こちらが『悪魔殺し』殿のデータでございます」
今までのそれよりずっと多い書類の束をヘンリーは読み始め、すぐに止めた。
「……なんであいつがあの馬鹿者についている」
「あれじゃないですか? この国に渡航したかったから利用したとか。多分深い意味はありませんよ。それにあの者は大して強くありませんから。何しろ機工人形と共に旅をしていたと残されてるぐらいですし」
呆れたような乾いた笑みを浮かべる家令に対し、ヘンリーは無言で席を立つ。
「旦那様? なんで機工鎧を取り出そうとしているのです? そしてニコニコとそれを身につけるのをやめ……いや、本当にやめてくれませんか? これから一応もてなすのでしょう!? そうだとしても何にもあっちがしてない状態でそれを纏うのは過剰防衛ですからね!?」
ヘンリーはむぅ、と不満そうに頬を膨らませる。珍しく子供っぽい表情であり、セイルは思わず変な声を上げそうになるがぐっと耐えた。
「ほら、早くもてなしますよ! 召使い達がちゃんとしているのだから貴方も真面目にしてください!」
渋々と言った様子で機工鎧を元の場所に戻し始めた主を急かすセイルを見ながら、最初からずっと同じ部屋にいたノエルはやっぱりまともな者はこの屋敷にいないと溜め息した。
応接室に通されたアンダーソンは落ち着かなかった。
どこを向いていても、どこにいても見られているような気がするのだ。ただの廊下やトイレでさえも。そう、この館に入った瞬間から。
そのせいでもう何時間待ったのかも分からない。持っていた懐中時計はここに来る途中で壊れたのか止まってしまっていたし屋敷の中に時計はなかった。
「ナフラ、警戒は最大限にしろ」
「はいはい」
いまいち聞いてるのか聞いていないのか分からぬ反応の用心棒にアンダーソンは不安になる。部下として潜り込ませるために用心棒はそれらしきお仕着せを着ているが慣れた様子で堂々としており、彼の方が身分が高そうな錯覚に襲われる。
「ーーすまないお待たせした。私がヘンリー・カンタレラだ」
ドアが開き、この館の主が入ってくる。元軍人とは思えない細身の優美なその手には機工杖が握られ、眼光は鋭い。そしてその後ろに侍る執事を見てアンダーソンは息を飲んだ。
それは男装の麗人だった。女性としてはありえない肩より上で調えられた金髪にサファイアより青い瞳。執事服に押し込んだ体は肉感的かつ曲線美を演出し、その悪戯っぽい猫目とあわせて蠱惑的な美女を演出していた。
「ああ、女の執事は初めてだろうか?これはノエル。新大陸での拾い物だ」
まだ若いというのに辣腕で屋敷に欠かせない逸材です、という説明は最早耳を滑り落ちていた。
なんとしてもこの女を手に入れたいという欲望が膨れ上がっていく。一方用心棒は油断することなくヘンリーとその後ろの女執事を見比べている。
「……私も新大陸から来ましたが、女性の執事は初めて見ましたね」
「そうだろう。世間ではまだ馴染みがないので外での仕事はあまりさせていない」
と、不意に女執事が咳払いをする。
「旦那様、失礼を承知で申し上げますが、そろそろ晩餐の時間です。移動しましょう」
今まで食べたこともないほど新鮮なサラダや野菜で作られている美しい芸術品のような前菜。見た所高価なはずの胡椒などの香辛料も惜しげ無く、そして適量使用されているらしい。本当にお金持ちである証拠だ。
ヘンリーが食べ始めたのを見てアンダーソン達も口を付け始める。そして絶句した。
「なんだ、これは……!」
一口で心を満たす圧倒的な多幸感。今まで口にしていた全ての料理が馬鹿らしくなるほどの何か。と、ヘンリーが微笑んでいるのがわかる。
「我が家の菜園でとれる野菜は世界樹の加護を受けているとか聞く。おかげでとても人気なのだ」
「世界樹……あの果ての大地にあるという?」
アンダーソンは息を飲む。
世界樹。それは五百年ほど前に一度滅びかけたこの世界に命を吹き込むもの。世界中に目に見えない根を張り巡らし、大地に生命力を与えているとかいう。本体は海を越えた彼方、果ての大地と呼ばれる島にあるし、船で近くに寄ればその途方もなく巨大な神々しい姿を見ることができる。もっとも島は『異郷者』と呼ばれる異能者が紡ぐ結界で覆われ、上陸はできないが。
「まぁ私はあれの信者ではないがうちの庭師がそう言ってるからにはそうなんだろう。さもなくばここまでおいしい野菜を作れる理由がない」
ヘンリーが不意に何かを思い出したかのように遠くを見る。
「そう、その庭師が言っていたのだが……時にアンダーソン氏、人体の体液といえば何を思い浮かべる?」
脈絡のない問いにアンダーソンは面食らう。
「血ですかね……」
「実際は緑の胆汁や透明な涙など様々な色彩が人体には秘められている。世界樹の樹液の色を知っているか?」
アンダーソンはその切れ長の瞳の恐ろしさに思わずフォークを取り落とす。
「動脈から溢れる血のように赤く、そして鉄さびた芳香がするそうだ」
次に運ばれてきたのは赤いスープだった。長時間煮込んだのか柔らかくなった野菜が入っているそれは湯気をたてていたが、先程の話を聞いたアンダーソンには得体の知れないそれにしか思えなかった。試しに臭いを嗅いでみるが普通のスープのようだ。
「流石にあれの樹液を用意できるほど我が家には財もコネもない。安心したまえ」
毒味をする心地で口に含めば誤魔化しようのない滋味が染み込んでいく。安堵に深く息を吐き出せば粛々とスープを飲んでいたヘンリーの眼光が鋭くなる。
「もっとも世界樹の実なら一度口にしたことはあるがね」
「世界樹の実……」
初めて耳にした。恐らく希少なものなのだろう。
「柘榴に似て、しかし、もっと甘美。あれこそが罪の味というのだろう。そして」
やはり赤く血塗れたような実なのだ。館の主は自らの体を抱きながら低く囁いた。
そのパンは酷く硬かった。もちろん裂けば柔らかな内部を晒しだしたが逆向けた表皮が時折歯肉に刺さる。じわじわと広がる血の味に最早アンダーソンは目的を忘れ、この地獄の晩餐から一刻も早く抜け出したかった。
「もうじきメインの肉料理がくるはずだ。パンといえば、かつて戦場にいた頃は何日もろくに食べず飲まずで過ごしたことがあった」
ようやく出た戦場での話にアンダーソンは思わず食いつく。
「どうやって生き延びたのです?」
それに対する反応は予想外のものだった。
「食う物を選ばなければ簡単なことさ。毒を食らい、腹を下し、呻き、幻覚を見ては狂い、それでも飢餓に駆り立てられまた貪る。おかげで毒には強くなったし、それ以降は食の選り好みをしなくなった」
食べられるものがあるだけ幸せなことだ。
それはそれはつまらなさそうにヘンリーは言った。
ついにメインの肉料理が運ばれてくる。そして金髪の青年シェフが持つその皿の上に並んだものを見てアンダーソンは悲鳴を上げた。
「貴様、まさか……!」
それは切れ端になった肉だった。ろくな料理すらされていない血塗れのおぞましきもの。その傍らに付け合わせのように添えられていたのは。
アンダーソンが密輸し、配下に配っていた銃弾だ。表ではまず出回らないそれがこの皿の上にあることが意味するのは。
今まで黙っていたナフラの目が剣呑な光を帯びる。
「この様子だと……全滅かっ」
ヘンリーが席から立ち上がる。そしてにたりと笑った。
「あの程度で我々をどうにかできると思ったのか? 何が武器商人だ、最前線を見くびるな」
そこにいるのはおぞましいまでの悪意だった。
時は少しだけ遡る。
アンダーソンの配下のうちチームαは庭からの侵入を試みた。
「人気がないな。楽勝だぜ」
だが柔らかな芝生で覆われた庭園に無遠慮に一足踏み込んだ、その瞬間。
その足は何かに絡め取られ、その犠牲者の体は宙を舞っていた。やや遅れて聞こえるどさっという音と太い何かが折れる音。
「くそっ、何が起きた!?」
「ーーお客様、入り口はあちらデスヨ」
警戒心を露わにした一同の前に現れたのは表情のない人形のような美少年だった。だがその服は泥で汚れた庭師のそれである。
恐れるに足らず。銃を構えると庭師の動きが止まる。そして困ったようにその眉が僅かに下がった。
「あー、跳弾は木が痛むからネ。ダメだよー、ドンパ」
だがその言葉は最後まで言い終わることがなかった。重力に従い、ゆらりとその体は力を失い崩れ落ちていく。
その額には出来立ての風穴があいていた。
発砲した男は狙い通りに獲物が倒れたのを見てガッツポーズをとる。が、仲間のうちの一人が、気付いてしまった。
その体から一滴たりとも溢れるはずの血は流れ出していなかった。
「リーダー、こいつ、なんかおかしいっすよ」
「ええ、なんてひどいことをするのデスか」
聞こえてはいけない返事。うつ伏せになっていた庭師がその姿のまま不自然な形で起きあがる。開いた穴から覗くは向こう側の景色。
「いくら僕が不死身とはいえ痛いものは痛いデス」
そう、何事もなかったかのように。
「あと一つ。僕を殺したければーー」
そしてその手が光り輝き始める。
「本当にその特定の個人を殺したくて殺したくて仕方がないという衝動にかられなくては」
次の瞬間ーー
視界が真っ白になった。
チームβは屋敷の中を逃げまどっていた。
サラサラと衣擦れの音がしたら白い化け物がくる。音もなく突然何かの気配がしたら金色の殺人鬼がくる。そして今のように頬に風を感じたら。
一人の男の首が呆気なくその胴体から切り離された。そしてセイルはそのまだ死んだことすら意識できていない首をぞんざいに拾い上げる。
「たかが三流の武器商人に過剰戦力でしたかね?」
今し方人をいとも簡単に殺したとは思えないほど平然とセイルは呟く。とその背後に現れたのはジャックだ。
「こんなにモツがあっても料理しきれないんだが。ってかそもそも最後の晩餐にこのメインはいかがと思うんだが」
その体は返り血で赤黒く染まっていた。
「旦那様も常識が張りぼてですし、ノエルさんもおかしいですからね。我慢なさい。それにしてもあれだけ斬り殺したのにナイフは刃こぼれ一つしておりませんね。流石かつて『ジャック・ザ・リッパー』と巷を騒がせた殺人鬼」
セイルの奇妙な賛辞にジャックは舌打ちする。
「殺人鬼は廃業させられたはずなのになぁ……これ料理するから残りはシャーリーさんとセイルさん、お願いします」
だがどうしたものか。少しばかり内臓を片手にジャックが考えこんでいると今度はシャーリーが現れた。その純白は汚れ一つない。
「焼くのは止めてください。臭いがつきますので。人を焼く臭いは好きません」
「あー、もうレアでいいか。どうせ食わないんだろうし」
三人の悪党はどこまでもいつも通りだった。
アンダーソンはつらつらとシェフから聞かされたメニュー紹介改め虐殺レポートに思わず口元を抑える。なりふり構うことなく、ただそうするしか出来なかった。
カンタレラ伯爵家は明らかに悪党としての格が違いすぎた。その誰もが人知を凌駕した化け物。そんな使用人を手駒にして君臨する者がただの人間であるはずがない。
「まさか……貴様、本物の『悪魔憑き』か!?」
その絶叫に大悪党はどこまでも邪悪で、そして美しく嗤った。
「『セーレの宿願』ヘンリー・カンタレラ。いざ参る」
その宣誓と共に手にしていた機工杖が変形し始める。アンダーソンは反射的に銃を抜き、そして叫びながらヘンリーを撃ち殺そうとした。が、その銃弾がヘンリーに届くことはなかった。
「ーー旦那様、あんたは今は大将なんだからそんなすぐ前に出なさるな。ここはまだ俺の出番ですよっと」
銃が、別の銃弾にて弾き飛ばされたのだ。そしてそれを実現した男装執事は硝煙の出る銃口に息を吹きかける。その早撃ちを見たナフラは少しばかり動揺したように目を見開き、そして唸った。
「何がノエルだ……よくも騙してくれたな!君の名は」
「おっと、そこの色男さんは俺の名前を知ってるのか。とはいえ今は本当にかよわい幸薄い娘のノエルなんだぜ。どこぞのくそったれな悪魔の呪いのせいで」
口調を取り繕う様子もなく男装執事は今度は威嚇するように銃口をアンダーソンとナフラに向けた。
「さて、殺す前に一つ質問。あんたらはダンタリオンって悪魔の居場所を知ってるか?」
男装執事から笑みが消えた。ナフラは歯噛みする。
「知るものか!この狂犬が!」
「そうか。残念だなぁ」
その指先が引き金にかかる。みるみるうちにその体が少年のそれに変貌していく。
「あんたらは運がなかったな。じゃ、今生ではおさらばだ」
発砲音がした瞬間。
膨れ上がった途方もない覇気。その銃弾を暴風が弾き返す。ノエルは眉を顰めた。
そこにいたのは巨大な獅子だった。だがその背には見たこともないサイズの鳥に似た翼が生えている。ヘンリーがその姿を見て微かに口元を笑みの形に歪める。
「これはこれは……工芸の悪魔ヴァプラ殿、ようやく真の姿を見せるほど我が家の歓待を気に入っていただけましたか?」
その背に庇われたアンダーソンの顔が引きつる。
「え、あ、ナフラが、あくま?」
「おい、雇い主のくせに知らなかったのかよ。ナフラじゃなくてヴァプラ? あんた、こいつに憑くつもりはなかったのか?」
呆れ顔でノエルがくるくると銃を指先で回せば獅子の顔が歪んだ。
「馬鹿め。何故このような小物を相棒にせねばならん。私の相棒は嗤ってしまうほどに献身的で人間的で超越的な完全なる被造物。あいつだけでいい」
人間の姿の時と変わらぬ美声が吐き出される。と、忽然とその前に美貌の青年家令が現れる。まるで最初からそこにいたかのように。青年家令は獅子を一瞥し、すぐに嘲笑を浮かべた。
「ヴァプラ殿、お久しぶりで。その様子だとあの数奇な生き人形に先立たれましたかな?」
「左様。だからこいつの船で貴様に会いに来た。さて、これで私の用事は終わったか。アンダーソン、これで護衛の契約は終わりだ。私はこれからにアンドラスに会いに行く。あいつは一度殺さねば私の気が休まらぬ」
獅子がするすると人間の姿に戻っていくがアンダーソンからすれば自らの用心棒ですら最早化け物でしかなかった。狂ったように悲鳴を上げて逃げようとし、そしてその後頭部を何かに掴まれる。アンダーソンは動かない頭で眼球だけ動かす。ちらりと見えたのは三日月を描く口角。
「ーーまだ晩餐は終わってないのだが」
機工の腕の人間がそれはそれは楽しそうに晩餐の再開を告げた。
武器職人アンダーソン。その日以降彼の悪名は表社会でも絶えることとなる。そして同姓同名の記憶喪失の美食ハンターが数年後有名になるがそれは別の話である。
「若旦那様、屋敷内の清掃、完璧に終了いたしました」
衣擦れの音と共に現れた亡霊じみた真っ白なメイドの報告にヘンリーは欠伸をする。
「ご苦労様。ノエル、被害状況は?」
「こちらの人的被害はゼロ。あちらは悪魔ヴァプラ以外アンダーソン氏は心神喪失、その他配下二十九名は死亡のちセイルが海に沈めて処理しました」
女の姿のままノエルは苛立ちを隠さず告げる。
「それ以外の被害は?」
「あー、それぞれの自己申告でいいですか?一番手痛いのは庭ですね。セージの治療のため、庭の貯蔵魔力が使われたそうで予定蓄積推移の五割をきりました。近いうち世界樹にお伺いをたてた方がよいかと」
「それは……セージが涙目になるのが目に見えるな。他は?」
「ジャックが包丁を新調したいと。刃こぼれはなかったそうなのですが、刃が厚すぎてやりづらいとのこと」
「却下」
料理もできない新入りが生意気だと頬を膨らませたヘンリーを見てこれは当分ジャックの我が儘は通りそうもないと二人は悟った。
「そして」
突然口ごもるノエル。その表情は悲嘆にくれていた。
「自分も貯蔵していた幸運が尽きたせいでセイルとセージにルーレットで大負けしました」
嗚呼、これでいつもの平穏に戻った。今にも泣き出しそうなノエルの肩をヘンリーはそっと叩く。
「ノエル、もう聞き飽きたとは思うが……金は貸さんぞ」
「知ってます、ええ、知ってますとも」
ついに目すらも死んだ魚のそれに変わった男装執事に釘をさしながらヘンリーは再び次の仕事に向けて微睡み始める。
今日も世の中は平和である。