伸ばした手の先
楠木美咲は、残業なく仕事が終わったので近くの商業ビルで洋服のウィンドウショッピングをしていた。
毎月、月の半ばに、細かい数字に追われ、書類不備を指摘して逆切れされる日々で疲れた心を癒す。
経理にいる美咲にとって月末月初めは戦争で、月の半ばは、月末までの大切な穏やかな時間だ。
滑らかで品のいい生地の洋服の値札をちらりと見て、現実的でない値段に苦笑いをする。
その服の下に置いてある、カラフルな花柄の、実用的でない細く高いヒールの靴の値段は、もはや家賃と同等だった。立ち上がって、ため息をつく。
買えないとわかっていても、楽しいのがウィンドウショッピングだ。
一着、陳列棚から甘くないブルーの大きなバラが一面にプリントしてある、襟のあるシャツを一枚取り出すと、身体に当てた。袖から出ている値札を見たら、高くなかった。さっきの高い靴を見た後のマジックかと意識を切り替えてみてみるも、安くは無いけれど、高くは無い値段だ。
会社に来ていくのは派手だけれど、上からカーディガンを羽織っていれば目立たないかな。
そんなことを思いながら、全身が映る鏡の前に移動して、シャツを当てた自分を見た。
夕方というのもあってやや疲れた顔の自分に、肩を竦める。
前髪を作った、切ったばかりの髪は、自分にしっくりくるまで時間がかかりそうだ。
疲れてくると背筋も丸まってくるから、嫌だ。
胸を出すように姿勢を正してみると、そのブラウスも似合ってくる気がした。
服というよりも、無意識に自分をチェックしている事に気づいて、自分の女な部分に顔を顰める。
これは、キープ。
そう思って、陳列棚に服を戻したのは、もう一人の客に接客をしていた店員の手が空きそうだったからだ。
洋服は一人で見たい美咲は、そそくさと店を出る。
腕時計を見ると六時半だった。
彼氏と約束がないのは楽だけれど、時間を持て余す。
人と話をしていて、彼氏がいままでに一人しかいないというと、驚かれる。
そしてうんざりするほどに聞いた言葉をまた聞くことになる。
『えー!見えない!もっといそうなのに』
たいがい曖昧な笑顔を浮かべて、やりすごす。
美咲は少しだけ人よりもきれいに見られる容姿だった。
ダークブラウンに染めた髪と、緩やかに弧を描いた眉の下の大きめな目と、低めの鼻と、大きくも小さくも無い口。それぞれが、きれいに見える範囲に収まっている。
そして、着ることが人よりほんの少し好きなので、お洒落な人に見られる。
モテる女は、容姿は関係ない。女は、適度な隙と愛嬌があれば、モテる。
そう言いたいのを我慢しないのは、酒が入った時だけだ。
本当に綺麗な人やお洒落な人と並べば、美咲が言われる「かわいい」なんてお世辞でしかない。
この微妙な位置の面倒くささを、誰とも共有できない。
……いや、居たか。
少しの動揺と一緒に思い出す、笑うとえくぼができる人。
胸がちくりと痛んだ。
湿っぽくなりそうな気持ちを振り払うように、美咲は駅へと足を向ける。
歩くことを重視したウェッジヒールのパンプスが、少し重く感じたのは気持ちが重くなったからだ。
……もう、別れたことにしていいかな。
電話帳に入ったままの彼、石田智也の連絡先は、最後の繋がりのように、未練たっぷりにそこにある。
七年は付き合った彼とお互い連絡が疎かになり、全く連絡しないようになって、もう三ヶ月。
電話帳を開いて、震える手で通話ボタンを押しそうになって「別れたって思われていたらどうしよう」と、指を引く。その度に心臓がばくばくと痛いほどになる。
七年の付き合いは安心を超えた所にあって、連絡が無くても気にしなくなった。
でも、さすがに三ヶ月は異常な気がする。
友人に相談すると「連絡すればいいじゃん」で一蹴される。
そう、そうなのだ。そんなことは、わかっている。
それなのに、連絡できない。
一番近かった人が、一番遠く感じる、この距離は倍々ゲームで、何万光年にも跳ね上がる。
***
四月、大学卒業後に就職した智也は、新入社員研修に忙殺され、その後は仕事に追われていた。
美咲は専門学校を卒業して就職をしていたので、仕事にも慣れていた。
休日に会っても、智也は心ここにあらずで、疲れていたし、仕事も終電で帰ることが多いと聞いて、美咲は気を使って連絡をしなくなっていった。そのうちに、智也からも連絡が無くなる。
そして、もう十月。時は残酷なほどに早く過ぎていく。
智也と付き合っているから、美咲はコンパにも行ったことが無い。
彼氏と連絡を取っていないと言うと、コンパの誘いを貰うようになった。
でも、行っていいかがわからない。
……ちゃんと、終わらせないといけないなぁ。
人の流れに逆らわず、ICカードの定期券で改札を通って、ホームへと足を進める。
驚くほど人が多いのに、誰も上の掲示板なんて見ていない風景は、いつも不思議に思う。
誰かが「ここに幽霊が居ても、どれだかわからないよね」と言った。
美咲も、たくさんの誰かにとって、その他大勢の一人で、幽霊にされるほどの扱いだ。
だからこそ、唯一同士だった彼と、このまま終わってしまうのは、とても苦しい。
この人混みの中で、また誰か、唯一同士の人と出会えるのだろうか。
感情を殺した顔の人たちを歩きながら見渡した後、銀色の柱に映りこんだ自分が目に入った。
やはり、感情を殺した顔をしていた。
***
地中に吸い込まれそうになるほどの長い降りるエスカレーターに足を乗せて、手すりに手をかけた。
前の人の後頭部を見ながら、エレベーターの動きに身を任せる。
ふと、人の視線を感じて、その方向を見た。
「智也」
上がってくるエレベーターに乗っていたその人も、驚いた顔をしていた。
身長は170に満たないくらいで、そんなに高くない。昔は茶色だった髪は黒になっていて、まだ見慣れない。アーモンド形の少し目尻が上がった目は、相変わらず魅力的だ。鼻も高いし、くっきり描かれた薄いけれど厚い唇。
かっこいいけど、かっこよすぎない、微妙な位置の彼。
……智也だ。
美咲は泣きそうになる。
そうか、泣きたいほど、会いたかったのか。
手すりを持っていた手は、いつの間にか口を押さえていた。
どんどん美咲は下がっていき、智也は上がってくる。
時計が、一秒一秒を刻む音が聞こえる気がした。
何をすればいいかわからないけれど、目を逸らすことが出来なかった。もっと何か出来ることがあったのかもしれないけれど、動けなかった。
もう別れているかもしれないという不安と、付き合っていたいという希望が、身動きを取れなくしていたのだと知る。
すれ違った直後、バックがぶるぶると震えてスマホを手に取ると、智也から三ヶ月ぶりのメッセージが入っていた。
『下に行くから、待ってて』
エレベーターの下の人の邪魔にならないような場所で待つ。
上から智也がエレベーターを歩いて降りてくるのが見えた。急いているように見えたのは、美咲の希望なのかもしれない。
心臓の音が、ピアノの鍵盤を押す時の感覚に似て、重く響く。
とんとん、どんどん、だんだん、音が次第に大きくなって、心臓の不協和音が耳に痛い。
智也が美咲と同じ地に降り立って、小走りに近寄ってきた。
ピアノにドラムが加わったような混乱した心臓の音は体中に響いて、美咲の目には智也しか見えなくなる。
美咲は手を伸ばした。同じように手を伸ばした智也と指先が触れる。爪が短く切られた、まるっこい指先。
お互いが息を呑んだのがわかった。
そのまま、指の腹をゆっくりと合わせる。皮膚が厚くて硬い指は男の人の指だ。
添わせるように交差させて、引かれ合うように折り曲げて、ぎゅっと握り合う。
悠久にも思えたその時間に、美咲の中のわだかまりが消えた気がした。
なんでとか、どうしてとか、そんな些細なことに思い煩うことが、勿体無い。
大事なのは智也が手を伸ばしてくれたことで、美咲も手を伸ばせたことだ。
「久しぶり」
何とか笑顔でそう言うと、美咲の目の淵に涙が溜まった。
智也も、泣きそうな顔をしたように見えたのは、涙で視界が潤んだからだろうか。
「久しぶり」
智也の声が耳に心地よい。
……私は、まだ彼女?
そう聞かずにすんだのは、鞄を横に置いた智也に抱きしめられたからだった。
人目を憚らず両腕で抱きしめられて、力強い抱擁の苦しさが安心感に変わる。
心臓の煩い音はいつの間にか「おめでとう」の拍手をされているようなに聞こえてきた。
温かさに、涙がこぼれた。
「連絡、ちょうだいね。私もするから」
美咲は智也の背中に手を回す。
「うん、ごめん」
智也のスーツから、タバコと外のにおいがする。美咲は胸いっぱいに吸い込んだ。
心臓はまだ痛かったけれど、唯一が戻ってきた体は、羽のように軽くなった。