第七十六話 約束は忘れるなよ?
バレットが目覚めた時、既に東の空から太陽が昇り始め森には薄明かりが灯り始めていた。
上半身をゆっくりと起こし軽く頭を左右に振った後、ずれていたハットをかぶり直す。
バレットは軽く辺りを見回すが、どうやら目覚めたのは彼が最初のようで、オークを含めまだ皆寝息を立てている。
ふとバレットが軽く瞳を瞬かせ、目をこらした。彼の視線の先では翡翠色の淡い光を放つ無数の小さな球体が漂っている。
それはまるで神話に出てくる妖精がダンスを踊ってるようにも見受けられた。
その様子にバレットが目を奪われていると、背後から聞きなれた可愛らしい声で、
「綺麗……」
と呟かれた。
「起きたのかいリディア」
声のする方へ振り返り、バレットはハットのブリムを軽く押し上げる。
「うん、おはようバレット」
笑顔を浮かべリディアがバレットの横に付いた。
「あれは一体何だい?」
リディアの方へ軽く顔を向け、そう問いかける。バレットが不思議そうに言葉を漏らしたその球体を眺めながらリディアがそのぷっくらとした唇を開く。
「あれは風の精霊ね。精霊は普段単体でその姿を表すことは無いんだけど、ここみたいに霊験豊かな地では時折見られるらしいわ。かなり珍しい現象だけどね」
「へぇ、それは随分貴重な物を拝ませて貰っているんだねぇ」
両眼をまんまるくさせ、ハットのブリムを持ち上げたままバレットが横目で見やるとリディアは両手を拝むように組み、うっとりとした顔で、でも本当凄く綺麗――と言葉を漏らしている。
「確かにとても神秘的な光景だねぇ。でも美しさならリディアの瞳も負けないぐらい綺麗さぁ」
リディアの両頬が瞬時に紅く染まった。だが当のバレットにとってこのような台詞を吐くのは呼吸と変わらない。
その時だ、この神秘的な光景をぶち壊すような強烈な破裂音と豪快なくしゃみが二人の背後から響き渡った。空気に乗って漂ってくる匂いはリディアが魔術を失敗した時のアレよりはマシだがそれでもかなり強烈だ。
それが原因なのかは判らないが、目の前で美しいダンスを披露してくれていた風の精霊たちも瞬時に消え去ってしまった。バレットの横で見ていたリディアは明らかな不機嫌顔で後ろを振り返り、腰に両手を添える。
「もう! あなたのせいで雰囲気ぶち壊しじゃない!」
バレットもリディアに倣うように風真に身体を向けるが当の本人は頭を掻き毟りながら何の事だと眉根を寄せ立ち上がる。
「朝から何をキーキー猿みたいに喚いてやがるんだこいつは」
開口一番デリカシーの欠片も感じさせない言葉を、これまた呼吸でもするように吐き出す風真にバレットは苦笑いを浮かべた。当然のようにリディアは顔を真っ赤にさせながら両手を振り上げ怒鳴りあげる。すっかり静寂とはかけ離れる事となったその場のやり取りに、彼らとは少し離れた位置で眠っていたトロンも目を覚まし瞼をこすっている。
「どうやら私も何時の間にか眠ってしまっていたようだ……」
呟きながら言い合いをする二人に顔を向けるトロン。その表情に苦笑が浮かぶ。
「全く朝から騒々しい奴らだ――」
オークの王の低い声が辺りに響き渡った。どうやらオーク達もそろってお目覚めらしい。
「王よ昨日は盛大なおもてなし、ありがとうございます」
トロンが目覚めの王にかしこまる。
「そんな挨拶はいらん。お前の言葉を聞くとこの辺がムズ痒くなる」
そう言って首のあたりを掻き毟るオークの王。
「なぁおっさん、どうでもいいが腹減った。なんかねぇのか?」
未だ文句を言うリディアに背中を向け、風真は全く遠慮のない口ぶりで言った。
「あっきれたぁ~昨日あんだけ食べてまた食事の話?」
「うっせぇ、あんなもんはとっくに消化されたんだよ」
「全く旦那の胃袋は大したもんだよ」
呆れたような感心したような――そんな物言いでバレットが白い歯を覗かせる。
「がっはっは、いやいやそれぐらいの方が頼もしい。安心せぃ既に女房達に飯の支度を頼んでおる」
体全体を豪快に揺すらせながら王は風真に返答する。
「いやしかし、そこまでお世話になるわけには――それにそろそろ我々も戻らねば……」
「だったらお主だけ勝手に戻れば良いであろう。残った者は我らが責任もって森の外まで送り届ける」
「いやそういうわけにも――」
トロンはほとほと困り果てた顔で風真へと視線を向ける。
「なんだ? 俺はきっちり食っていくぞ」
トロンは観念したように溜息を付き、
「判りました、では折角ですので――」
と王の好意に甘える姿勢を示した。
流石に立場的に一人で戻るというわけにも行かないのであろう。
話が決まり暫くすると王の妻と牝(恐らくは)のオーク達が用意した朝食が運ばれてきた。
流石に夜とは違い量はそこまで量は多くは無いが、昨夜あれだけ食べたり飲んだりした事を考えれば風真以外にとってはありがたい話であった。
「うん。これは味が米に近いな。久しぶりの味だ。ありがてぇ!」
風真が嬉しそうに器に盛られたそれを喉に押し込んでいった。バレットもそれを口にする。バレットの国ではライスと言われているものに確かに味は似ている。但し形は真珠のように丸く、色は乳白色で少し透明がかっていて歯ごたえは柔らかい。
だがとても優しい味で少し重くなっていた胃がすっきりしたようにも感じられた。
風真は随分これが気に入ったのか朝から三杯もお代わりし、リディアは呆れた様子でそれを見ていた。
ちなみにお代わりは例のオークの牝が運んできて風真に手渡していた。まだ諦めていないのか熱い視線を風真に送っているが当の本人は腹を膨らますのに忙しくて眼中に無いといった感じである。
「いや本当に色々とありがとうございました」
風真の腹が満たされたのを漸くかと言った表情で確認した後、トロンはオークの王に謝辞を述べた。
「気にする事は無い。一つ作るも二つ作るも一緒だしな」
顎を摩りながら王が言葉を返した。その後トロンは昨日の事を確認するように王と言葉を交わし、それでは、と街へ戻る旨を王に伝えた。
森の出口までは王の部下が付く形となった。王自身はこれから色々とやる事があると言う事で半球状であったその広間の出口まで妻と一緒に見送ってくれた。
「しかし随分な有様となってしまったねぇ」
バレットが見上げた先に映る幹は、最初に来た時の見事さは見る影もなく、あちこちが損壊してしまっている。
「申し訳ありません。戻り次第こちらから補修部員を手配しまして……」
「構うことはないさ。儂らの森の事は儂らで何とかする。この程度総動員で掛かれば一週間と掛からずに元通りさ」
腕組みし言い放った王に続くようにオーク達が腕を曲げ力こぶを作ってみせた。
「でも折れた枝はそう簡単には治らないわよね……せめてお婆ちゃんがいれば――」
「なぁに娘気にするな。わしらは自然のままに生きてきた。それに森の生命力をなめてもらっては困る。魔術の手など借りずとも心尽くせば応えてくれるさ」
そう言ってがははと豪快に笑う王に、リディアはそれ以上は聞かず笑顔を浮かべた。
「それじゃあエイダ殿には宜しく伝えておいてくれ。迷惑をかけて悪かったな」
会釈をするようにしながらリディアに告げ、王は風真へと顔を向ける。
「風真よ。気が変わったらいつでも戻れよ。お前なら契を交わしたいという牝はいくらでもいるからのう」
風真は一旦目を丸くさせたあと、髪を乱暴に掻き、
「いや絶対それはありえねぇよ」
と述べ、腕を組み王を見上げた。
「それよりも約束は忘れるなよ? 次やるときは絶対に決着つけるからな」
風真の言葉にオークの王は再び激しく上下に身体を揺すった。
「全くお前という奴は、判ったいつでも相手してやる。待ってるからな」
その言葉に風真は満足そうな笑みを浮かべ、その身を翻した。
「うんじゃ行くか」
「て――なんであんたが仕切ってるのよ」
急に歩みを進める風真の背中にリディアが言の葉をぶつけた。
こうしてトロンとバレットもオークの王に別れの挨拶を済ませ、その場を後にしダグンダの街への帰路につくのであった――