第六十六話 少年の仕事
39話と40話の内容が重複しておりました
申し訳ありません現在は修正しております
――ちょっと! 起きて! もう早く起きなって!
キンキンとした甲高い声に呼び起こされ、少年はその瞳をゆっくりと開いた。
「全くいつまで寝てるんだい。昨日あんだけ言われたのにさぁ」
背中を大木に預けるようにして寝ていた少年が寝起きに眼にしたのは、仁王立ちするような体勢を取る女の姿だった。
女は少年が目覚めたのを確認すると、肩より下まで伸ばした黒髪を掻き揚げ、まるで少年を卑下するような目付きで見下ろしてくる。
「早くしないとあの人が起きちまうよ。全く、あんたのせいでとばっちりを喰らうのはあたしなんだからね」
少年は大木に背中を預けたまま、ヒステリックな声を上げ続ける女の顔を見上げた。
「……本当可愛げのない目つきね」
すると、汚らわしいものでもみるかのように片目を窄め女は呟いた。
少年の目の前に立つ女。
決して醜女というわけでは無いが唇を歪ませるその姿は酷く醜く感じる。
「おい! 梨花一体何処にいやがる」
「ちっ! あの人が起きちまったじゃないか」
声は、梨花の背中越しに見える見窄らしい小屋からふたりの耳に響いて来た。梨花は眉間に皺を寄せ舌打ちまじりに言い捨てる。
「あたしゃここだよ」
小屋の方に振り返りながら梨花が言葉を返した。
すると、薄い板で簡易的に作られたような扉がゆっくりと開き小屋の中から一人の男が現れる。
「ここにいやがったのか梨花ぁ」
男の手には陶器で出来た太めの徳利が握られていた。その顔は赤く、朝方にも関わらずすっかり酩酊してしまっているのが見て取れる。
男は梨花を一瞥すると、栓を抜き徳利の口を咥え顎を上げた。グビグビと喉を鳴らし飲み終えると、ぷはぁ~と息を吐き出し顎を空いた左手で拭う。
ふと男の爬虫類のような瞳がぎょろりと動いた。
徳利を決して手放すことはないが、その視線は明らかに梨花の横の少年へと注がれている。
「てめぇ、まだこんな所にいやがったのか! 昨日も稼ぎが無かったくせによぉ!」
男は怒鳴りながら偉い剣幕で少年の下へと詰め寄った。
そして梨花の隣に立ち、その面長の顔を近づけ、男は少年を見下ろした。
少年は沈黙したまま見上げる、男の顔を。
女と同じように、蔑むように、少年を見下ろすその顔を。
「なんだその目付きは、あぁ?」
男はその身を屈め、ぼさぼさになった少年の髪を乱雑に掴み更に顔を目の前まで近づける。
口内から吐き出される酒の匂いが少年の鼻腔を突いた。質の良くない酒独特の酸味の効いたキツイ匂いだ。
「ったく、てめぇの母親がさっさとおっ死んじまうから俺が代わりに育ててやってるのによ! 可愛げのねぇ餓鬼だぜ」
吐き捨てるような言葉と共に、男は少年の髪から手を放し立ち上がり、再び徳利の口を咥え喉を鳴らす。
しかしすぐに男は徳利から口を離し、口を逆さにして何度も振った。
だが徳利からは最早、酒の一滴も出てきやしない、今ので完全に飲み干してしまったのだろう。
男は赤味のました面を更に真っ赤に染め、少年の足元に酒瓶を叩きつけた。
「てめぇのせいで! 最後の酒もきれちまったじゃねぇか! この糞餓鬼が!」
そう言って男は、少年の頬を右拳で殴りつけた。何度も、何度も、何度も――
少年の唇は切れ、鼻からも血が地面に向かって零れおちた。
「あんた、もうそれ以上やったらこの子動けなくなっちまうよ」
梨花が男の肩に寄りそりそっと囁いた。
男はちっ――と言う短い舌打ちと共に、最後に少年の腹にむかって蹴りをいれる。
「ぐふっ――!」
腹部への衝撃に、思わず言葉を漏らした少年の身体はくの字に折れ曲がり、そのままゆっくりと横に倒れた。
「いいか! 今日も稼ぎが無かったらこんなもんじゃ済まさねぇからな! 判ったらそんなとこでいつまでも寝そべってないでとっとと町へ向かいやがれ!」
倒れたまま、何も語らない少年に容赦の無い言葉を浴びせ、男は小屋へと戻っていった。男の横にいた梨花も、まるで汚らわしい物でもみるかのように少年を見下げ一瞥し、男の後ろについて小屋へと向かった。
ふたりが小屋に入っていくのを確認し、少年は手で土を掴み、ゆっくりとその身を起き上がらせていく。
口内には鉄の味が広がっていた。肌は土に混じった石片や粉々に割れた徳利の欠片によって所々擦り傷が出来、赤く滲んでいる。
それでも少年は、無表情のままふらつく足でその場を離れた。
小屋は人里離れた森の中に佇んでいた。少年は男の言われるがまま、その足を此処から一番近い町に向け進め始めていた。
だが、近いといっても少年の足では片道で一刻以上は優に掛かる。
だが、仕事の時間を考えれば、ぼやぼやしていては日暮れまでに帰ることは叶わない。
あの男の言った事が嘘ではない事を少年はよく判っていた。
男は少年が物心付いた時には、少年の傍にいた。男は母が死に、残った親は自分だけだと言い聞かせた。
しかし男は親らしい事など何もすることは無かった。気に入らなければすぐ暴力に訴えた。
いつの間にか遊女上がりの女を家に連れ込み、その分の稼ぎを少年に作らせた。男が唯一少年に手ほどきした事と言えば稼ぐための方法だけだ。
住み着いていた女もロクな女ではなかった。毎日のように続く躾という名の暴力に、笑顔すら失った少年を蔑み男と同じように罵りを入れる。飯もまともに作れないような女だ。醜女でこそ無いが品が良いわけでも特別綺麗というわけでも無い。
それでも男が女を横に置いているのは、床が上手いということに他ならないだろう。
少年が近くにいても毎晩お構いなくよがり狂う様は、まるで盛の着いた獣と変わらなかった。
だが、そんな劣悪な環境においても、少年は決して男の傍を離れなかった。
――腐っても親。
その思いが、少年の心を男へと繋ぎ留めていたのかもしれない。
そして少年は、痛い身体を引きずって、とても快適とは言えないような獣道をひたすら辿っていった――
◇◆◇
少年が町に辿りついた時には、既に陽はかなり昇っており子の刻も近い程であった。
往来は活気に溢れており、派手な昇りを立てた店や出稼ぎに来た行商が一生懸命声を上げている姿も見られる。
呉服屋では上品そうなおなごが反物を品定めし、小間物屋の広げる櫛や簪に足を止め興味深そうに手にとり連れと共に笑い合う。
そんな光景は少年にとってとても眩しくも見えた。
往来を楽しそうに行き交う人々が陽なら少年は陰であった。
建物の影に隠れ、じっくりと獲物を見定める。
男が少年に唯一教えた稼ぎの方法を実行する為にだ。
そう、少年に教えられた唯一の特技、生きていく為に必要とされた技術が摺であった。
まだ小さな子供である点を生かし、人ごみに紛れ銭入れを掠め取る。
それがいつも少年が銭を稼ぐために行う手口だ。
勿論、摺行為自体は立派な罪であり、捕まりでもすれば子供とはいえ容赦なく罪人として裁かれる事となるだろう。
だからこそ慎重にもなる。
――同じ場所で何度も行うな。
これは男が少年にきつく言いつけていた事であった。
場所も変えず、何度も行為に及べば当然怪しまれ捕まる可能性も高くなる。
その為、今まで何度となく男と少年は住処を変えてきた。
だがあの女、梨花と暮らすようになってからは、今の住処に長いこと居座り続けてしまっている。
この町でも少年は大分仕事を行ってきた。
いい加減怪しまれている可能性も高い。
特に昨日は、人々の訝しげな視線が少年の肌身にひしひしと感じられたのだ。
だからこそ少年は摺を行わなかった。
しかし、そんな少年に対し男は容赦無かった。役たたずと罵り暴力に訴えた。もちろん梨花はそんな少年の姿をただ黙って見ているだけだった。野良犬に石を投げつける姿を何の感情も持たず眺めるだけの傍観者のように……
酒に溺れ、女に溺れた男は、既に自分が教えた術すらも忘れてしまっていたのかもしれない。
少年の胸中には、今日失敗するわけにはいかないという自責の念のみが渦巻いていた。
だが、だからといって安易な方法に出て捕まるわけにも行かない。
幸いな事に、昨日に比べれば今日はずっと人の往来が激しい。
馴染みの客だけではなく遠くから来ている者も多いのだろう。
その中でも、特に見慣れない獲物を少年は探し続けていた。
時折場所を変えながら、目立たないようにじっと少年は獲物を見定めた。条件に合う獲物を――
そして決行の瞬間がやってきた。
少年が小さな身体を生かし、人ごみに紛れ獲物へと突き進む。
一人目は派手な着物を身に纏った女。軽くぶつかりながらごめんなさいと呟き財布を掠める。
二人目は旅の商人。この町には商人も数多くやってくるが男は見慣れない顔であった。
だが、銭が命の次に大事と考えている商人である。特に摺には敏感だ。女のようにぶつかっては怪しまれるかもしれない。
人ごみに紛れながらも少年はじっくりと機会を窺う――
そして、人々と商人の間。出来上がった僅かな隙間。そこに見えるは根付に付けられた革袋。
それを少年はすれ違いざまに素早く取り外し、自らの懐へと忍ばせた。
その行為が気付かれた様子はない。
予想以上に上手く行ったことで、少年は心の中で少しだけ安堵した。
本来はこれで十分な位であろう。
もうこのまま帰ってしまっても良かったのかもしれない。
だが、少年の瞳に再び見慣れない輩が近づいてくるのが見えた。
その目に映し出されるは、横一列に三人並ぶ男達の姿。そしてその腰には刀。
一見全員武士かとも思えたが、髷も云わず格好もばらばら。恐らくは浪人とも思われるがどこか怪しげな雰囲気も感じられる。
特に真ん中の男の存在感は凄まじい。熊のような巨躰に、髷どころか髪等は一切生えていない。獣のような鋭い瞳を持ち、右の眼には縦に刻まれた刀傷が浮かび上がっている。
それは本来であれば関わりあいにはなりたくない者たちだ。
にも関わらず少年は彼らを次の獲物に選んだ。
もうこの町では暫く摺を行うのは無理であろう。
だから出来るだけ多く稼いでおきたかったのだ。
心臓の音が激しく波打つのを少年は感じた。
だが不安を気取られるわけには行かないと平静を必死に保つ。
――後十歩、八歩、五歩。
その距離が段々と近づいていく。
狙うは少年から見て左端の男。これまで築きあげてきた勘を必死に働かせ、標的を見定めた。
そして機会を窺い、商人の時と同じようにすれ違いざまに銭入れを掠め取る。
かと思えば、先程と同じように即座に懐へ戦利品を忍ばせた。
上手くいった――
再び少年は心の中で安堵した。
だが少年は気付かなかった。
一瞬、野獣の視線がその小さな身に注がれていた事を――