第六十四話 訪れる影
心地よい波の音色が辺りに響いている。陽は傾き空は大分暗い。星も見え始めて来ている。
ここの波は一見とても穏やかだ。だが実際は途中の潮の流れが激しく、また暗礁も多い。普通の船ではとても近づけるような場所では無い。
ともなれば必然的にあのような小舟で乗り上げるしか道は無い。視界に捉えた二隻の舟がそれだ。
ふと海岸沿いに生え渡る大樹の影から一体のオークが姿を現した。左手には龍の頭を形どった杖が握られている。右腕はどうやら負傷してるらしい。
オークは森を抜けると脚を止め、肩で息をしはじめた。そうとう疲弊してるのか、その特徴的な鼻から吹き出た風音が今にも聞こえてきそうである。
「な~に? 貴方一人なの?」
海岸を一人の女が歩きオークの下へ近寄った。この闇とは対照的に、全身が白で統一されている。服装も髪の色も肌や爪のマニキュアさえもだ。
「お、おお! 来てくれていたのか!」
オークが声を上擦らせた。両手を広げどこか安堵の表情を浮かべているようにも見える。
「ねぇ、約束ではマグノリアの亜人も一緒に連れていくって話よね」
その問いにオークが一瞬の喉を詰まらせたが、すぐに立ち直り言葉を返す。
「少々手違いがあってな。私一人だ。と、とにかく私だけでも一緒に連れていってくれ! 事情は皇帝に直接話す!」
オークは捲し立てるように女に言った。すると、ふ~ん、一言女が返し。
「つまり作戦、失敗しちゃったのねぇ。それで、とにかく急いでこの地を離れたいってとこかしら?」
図星をつかれたようで口惜しそうに唇を噛むオーク。
「えぇい! とにかくお前は私をしっかり連れて行けば良いんだよ! 私の頭脳と帝国の力があればこのような国、後でどうにでもなる! その為の策を練る力も私にはある! 所詮一介の駒に過ぎないような者がつべこべ言わずに――」
そこで言葉は途切れた。オークの瞳が見開かれ口を広げたまま涎が顎を伝う。
オークの腹部には五本の細い刃がめり込んでいた。背中側にも同じような刃が五本飛び出している。腹から背中まで淀みなく刺し貫かれているのであろう。
「悪いけど、豚の講釈に興味ないの、あたし」
冷たい口調で女が言い放った。だがオークはまだかろうじて意識があるのか、左手に持った杖を女に向け翳そうとする。最後の悪あがきといった所か。とは言え、女がそのあがきを見逃すわけもなく、腹部から抜き取った刃で今度はその醜い顔面を貫いた。
オークの口から最後に漏れた言葉は、ぶぎゃ、であった。豚らしい最期だ。
女はオークの死を確認すると刃を抜き、徐にこびり付いた紅い雫を舌で絡めとる。
「マズッ、やっぱり所詮豚ね」
顔を顰め女が言った。同時に、只の木偶と化したオークが前のめりに倒れこむ。
女は刃を横薙ぎに振るった。オークの顔面が刃と同じ数に分断される。更に縦にも振るわれ賽の目状にまで切り刻まれた肉片が海岸に降り注いだ。砂の一粒一粒にどす黒い地が染み渡る。折角の景観が台無しだ。
「ねぇ」
行為を終えた女が、ふと身体を向け直し口を開いた。
「そんな所から覗いてるなんてちょっと悪趣味じゃないの?」
その言葉を聞き、男は女の前に姿を晒した。女とは対照的に肌の色以外は全て黒で統一している。
「気付かれてたとはな」
「……気付かないわけないじゃない。そんなあからさまな隠れ方で」
「ちょっとショックかな。自信あったんだがね」
男はそう言いながら砂辺を歩き女へと近付く。
「酷いもんだ。ここまでする必要があったのかな?」
足元に転がる肉片を見て男は言った。
「醜いものは、出来るだけ視界に収めていたくないのあたし」
肩まで伸びた髪を掻き上げ女が言う。男はくくっ、と含み笑いをして見せる。
「相変わらずだな、しかし勝手な事をしては皇帝殿が怒るのでは?」
女はふんっ、と鼻を鳴らし、視線を男に重ねた。男を惑わす妖艶な瞳だ。
「別に、こんな豚の一匹やっても何も言わないでしょう? そもそもあたしは殺しがメインだし。人攫いなんて性に合わないわ」
「しかし彼は納得しないんじゃないのかい?」
「そんな事知らないわよ。あんな変態そこまで構ってられないし」
両手を広げそう述べると、女は男に顔を近づけ、大体、と一言発し、伸ばした刃をその顎目掛けて突き上げてくる。
「本当は貴方みたいなのを切り刻みたいんだけど。あ・た・し」
男は女の手首を強く握り締める。刃の軌道はずらされていた。
「全く、喰えない男」
睨めつけてくる女に頬を緩ませ返し、その手を放す。
「ところで貴方は何しに来たのよ」
「――ちょっと野暮用でね」
「ふ~ん」
訊いておきながら、女は対して興味なさげである。
「帰るわ」
女が踵を返した。
「詳しくは訊かないのかい?」
「そうね、あたしも混ぜてくれるなら訊くわ。貴方が絡むなら楽しそうだし」
「それはちょっと厳しいかな。あまり派手にされても困る」
「そう、残念。あんな豚一匹ぐらいじゃ溜まってしょうがないわよ」
「戻ってからも程々に」
それには何も語らず、女は海岸に乗り上げた小舟に向かって歩いていった。二隻の舟でマグノリアの亜人を連れ去ろうとしたのだろう。
その舟を眺めながら、全く一国を賄う主の趣味としては少々悪趣味すぎるな、と男は思いつつ。
砂浜に転がった杖を見てそれを拾い上げた。
「こんな物まで用意してやるとはな」
そう呟き、瞳を閉じると瞬時に杖が炎に包まれた。男がその目を開いた時、杖は跡形もなく燃え尽きていた。握った手をゆっくりと開くと吹き抜けた海風によって僅かに残った粉末が宙を舞う。
「さてと――」
男は一言述べ、森へと脚を進めた。ちらりと背後を見ると女も舟も既に消えていた。男は視線を戻すと目の前に広がる森の中へと脚を踏み入れ、そのまま闇へと溶け込んでいった。
◇◆◇
オーク達の協力もあってか牢屋に囚われていた人々は全員無事助け出される事となった。
繋がれていた鎖も、口を塞いでいた猿轡も外れた事で、皆は涙ながらにバレット達にお礼を述べる。
とは言え事情が飲み込めていない彼らは、最初はオーク達に全く近づこうとしなかった。そもそも、なぜオーク達が一緒にいるのかも理解できないと言った感じであったのだが。
この事に関してはドラムやシンバル、そして唯一捕らえる事の出来たオーク一体を王の元へと連れ帰った後、ダグンダの住人達へはトロンが説明にあたった。
ちなみにこれはバレットも助け終えた後に気が付いたのだが、捉えられた人々は皆、シェリーと同じような耳を持った亜人と言われる人々であった。
しかし、これが何を意味するかはバレットには判らない。
幸いだったのは、捉えられていた彼らの状態がそれほど悪くは無いという事であった。大分疲れてはいたが会話も出来るし、皆身体に異常はない。
そう言った意味では寧ろドラムや風真の方が重症とも言えるだろう。只、風真はオークが施してくれた薬のおかげなのか、戻った時には大分元気を取り戻していた。出血もすっかり止まっている。
これには王も驚いていた。確かに効き目のある薬なのは間違いないが、それ以上に風真の回復力が凄まじいという事なのだ。
その後は、トロンとオーク王との話し合いにより、ダグンダの街の住人は全員解放する事で話は纏まった。
それ以外の詳細も纏まり次第という事になり、マージルなど、この件を企てた者達の処分はオーク王に任せる事でとりあえずの決着が付いた。
「さて戻りましょうか」
無事事件も終わりを告げ、安堵の表情でトロンが言った。表情は明るい。肩の荷が下りたといった雰囲気である。
「はぁ、なんか今日だけで随分疲れちゃったわ」
立ち上がり、リディアが大きく伸びをした。その姿を一瞥した後、バレットも腰を上げる。
「おいおい、なんだよもう行くのかよ」
すると皆の気持ちとは裏腹にそんな台詞を風真が零した。
「当たり前でしょう? これ以上何があるっていうのよ」
リディアが文句をつける。
すると風真がやっと重い腰を上げた。やれやれと言った雰囲気だ、バレットは何故風真がそんな事を言ったのかと考えを巡らせたがその理由はすぐに判った。
立ち上がった瞬間彼の腹が鳴ったのだ。
あっきれた、とリディアが両手を広げ肩を竦める。
その反応に、しょうがねぇだろうが、と風真が眉根を寄せた。
「待てお前たち!」
すると、ふと王がバレット達を呼び止めた。その後ろにはオークの面々が数体、異様な雰囲気で顔を並べている。
「よもや、お前達までこのまま帰れると思っているわけではあるまいな?」
そして、オークの王はドスの効いた声で彼等にそう言い放ったのだった――