第六十二話 意地と意地
風真の上半身は、右の肩口から左の腰辺りまで斜めに切裂かれていた。かろうじて立ったまま姿勢を保っているようだが、夥しい程の血潮が大地に小さな池を形成している。
「風真君! もうそれ以上は無理だ!」
トロンが声高々に叫んだ。
「けっ……ざけんな!」
語気を強め、風真は着物の上半分を捲った。凝縮された上半身を曝け出すが、それと同時に痛々しい傷が顕になる。
「へっ――こんなの只の掠り傷さ」
どれだけの傷を負っても、その気迫は変わりはしない。トロンもそれ以上は何も言う事は無くその姿を見続けるだけであった。
「全く、変わった男だ貴様は。のう? この状況で何がそんなに可笑しいのか」
王の言葉に、あぁん? と一言述べ風真が口元に手をやった。
「く……くくっ――ははっ、気付かなかったぜ、何時の間にかこんな顔になってたとはな」
言って風真は瞳を鋭くさせオークの王をみやる。
「そうさ、楽しいんだよ俺は。全く異世界とか言われてもピンときやしながったが、あんたみたいのがいるとはな――今は寧ろ感謝したいぐらいだぜ」
その言葉にふんっ――と王が返す。
「だがよ――あんただって一緒だろ?」
「何だと?」
「俺には判るぜ。あんたの頬だって随分緩んでる。楽しいんだろ? なぁ!」
「――否定はせんさ」
言葉を返しニヤリと笑って見せるオークの王。
「へっ。それじゃあ続きを――始めるとするか!」
叫び風真が飛び出し、望むところ、とオークの王が身構える。
だが、その時。
「ちょっと待って! ストップ! その戦い中断して!」
そう叫びながらリディアが木々の中から姿を現した。
真っ先に飛び出したリディアを追うように、バレットとシェリーも戦いの間に出た。
リディアの発言で一旦は二人の動きも留まっていた。風真は怪訝そうにリディアへ顔を向ける。
「なんなんだてめぇは! 邪魔すんな!」
「何よ邪魔って! てか風真、凄い怪我じゃない!?」
リディアが眼を丸くさせ言った。確かにバレットから見ても風真の怪我は尋常では無い。立っていられるのが不思議なぐらいだ。
「娘、一体どういうつもりだ」
口調は静かだがリディアに向けられた視線は鋭い。事と次第によっては例えエイダの孫だとしても容赦はしないといった空気を醸し出している。
だがリディアは怯む事なくオークの王をみやり。
「この戦いを中断させたのは、もう、お二人が戦うことに意味がないからです」
そうはっきりとした口調で述べた。
オークの王は右の瞳だけを見開き、その真意を問う。それに対しバレットはリディアと共にその経緯を話した。
「むぅ――よもやマージルがそのような事を……」
リディアとバレットの説明を受け、オークの王が信じられないと言った表情で唸った。
静まり返っていた周囲のオークも、再び堰を切ったように騒ぎ出す。
「オークの王よ、彼等の言う事が真実であれば確かにこれ以上の戦いは無意味かと思います」
バレット達の傍に立ったトロンが王へと進言する。
「むぅ――」
「ねぇ? どっちにしてもここで無駄な事してるより、現場に行った方が早くない? そうすれば全てはっきりするし街の人達だって助けないと――」
「いい加減にしろてめぇら!」
突如風真が吠えた。バレットが顔を巡らすと鬼のような形相で風真が睨みつけている。
「おいあんた! いいからこんな奴らは放っておいて勝負を再開するぞ!」
風真が再びオークの王と対峙する体勢に戻し、語気を強めた。
「な!? あんた何馬鹿な事言ってんのよ! 話聞いてなかったの!? 二人に戦う理由なんてもう無いじゃない!」
「漢の戦いに勝手に理由なんて付けてんじゃねぇ!」
風真の怒声にリディアの肩が僅かに震える。
「こっちはなあ、互いに意地張り合ってんだよ。最早そんな言葉で納得できる話じゃねぇ! 理由もいらねぇ! ただどっちが強えぇか証明してぇ――それだけだ!」
風真はそこまで言って一旦大きく呼吸して見せ、そしてオークの王を鋭く睨みつける。
「さぁ――やろうぜ!」
腰を落とし風神を握る風真。するとオークの王が口を開き問いかける。
「風真よ。つまりこういう事か? ただ単純に、どちらがより強い牡なのかはっきりさせたいと――その為だけにその場に立ち続けていると……」
風真は何も応えない。ただその鋭い瞳だけが全てを物語っていた。
「くっ――くく……がぁっはっはっは!」
オークの王が大口を広げ笑い出した。身体を揺さぶり暫し辺りに笑い声を響かせた後。
「確かに主の言うとおりよ。この戦い、最早こんな中途半端な形で終わらせられる物でも無いわ」
真剣な面持ちで言葉を返した。そして更に大きく息を吸い込み王が辺りを見回す。
「お前たち! ここから先はわしと風真による只の意地の張り合いだ! どちらがより強いかをはっきりさせる為のな。そこに理由なし! よって、事の勝敗に関わらずその後こやつらに手出しする事は一切許さん! これは王としての命令である! 言葉の判る物はこれを皆に伝えぃ!」
オークの王が捲し立てるように一気に言い放った。
そして、オークの王が発した言葉にオーク達のざわめきが途切れ静まり返る。
「何よこれ――信じられない」
リディアが理解できないといった表情を見せた。確かに普通に考えれば、何故こんな事をと考えてしまうかもとバレットは思う。
だがバレットは何となくだが理解した。もし互いの力量に圧倒的な差があったならば、ここまでは至らなかったかもしれない。
しかし均等した力と力の衝突が、互いの野生を目覚めさせたのだろう。それは彼等の言う雄と雄の本能だ。
「さぁ、これでもう邪魔は入らぬ」
発した言葉に眼力を加え――。
「決着を付けようぞ――」
静かに吐き出された言葉。だが重圧感のある響き。
オークの王が少しずつ距離を詰めて行く。
風真は風神に手を掛け構えを取ったまま微動だにしない。
「恐らく勝負は次で決まりそうだねぇ……」
バレットが零した言葉に、え? とリディアが反応する。
「あの出血じゃ風真の旦那も長くは持たないさ。オークの王もそれが判っているのかもしれないねぇ――一撃で決める気なのかもしれない」
リディアの喉が鳴った。この場にいる全員が勝負の行方を見守っている。そこにオークも人間も無い。
王は右手で戦斧を握りしめ一歩、また一歩その距離を縮めていく。
そして――
王の身が風神の間合いに入った。その瞬間オーク王の豪腕が一気に振り上げられ……
刹那、風神の刃が王の胴体を捉えた。纏われた革鎧ごとその岩盤の如き肉体を切裂き、紅色の血潮が吹き上がる。
「ぐぬぉぉおお!」
それは呻きではない、猛りだ。それは王の覚悟を決める所業であった。
オークの王はその一撃をあえて受けたのだろう。刻まれた傷も、流れる出血も構う事なく、刃を振り上げたまま獲物をしっかりとその視界に捉えていた。正しく肉を切り骨を断つといった所であろう。
そして、ミキミキと豪腕が唸り、それを振り下ろす――
「いかん!」
トロンが叫ぶ。リディアの、いやっ! という細い声が耳に届く。
だが――
「いや、まだだ!」
バレットは眼を見張った。風真の動きは止まってはいなかったのだ。風神の一撃を決めてもなお回転は収まらない。
そう、あれは前にトロル戦の時に見せた動きだ、とバレットの脳裏に件の光景が浮かび上がる。
風真は抜刀後、続けざまに旋風の動きへと移行したのだ。そしてその回転を生かし、瞬時にオーク王の背後側へと踏み込み、旋風! と発すると同時に振り向きざまの一撃を叩き込む。
再度、バレットの耳に聞こえたのは王の呻き声であった。二度目の斬撃は彼の脇腹を深く抉った。吹き溢れる鮮血の量は一撃目の比では無い。
鞘に刃の収まる音が辺りに波紋のように広がった。かなり憔悴しているのか、呼吸が荒く風真の肩は小刻みに上下している。
これで決まらなければ流石にまずいか、とバレットが思った直後、オーク王の膝が折れた。二方向からの連撃は流石の王も耐えられなかったのだろう。
「αΓαΒΑ!」
だが、王の身が崩れおち、そのまま地に伏せるかと思われた直前、幼い声が響き渡った。それはオークの言語であった。声は風真の後ろ側から聞こえた。バレットが視線を移すと小さなオーク三体が横に並んで必死に何かを叫んでいる。呼びかけている相手は――
「ぬぐぉおぉお!」
咆哮と共に崩れかけていた膝を持ち上げ、オークの王がその身を風真へと向け直した。両手で握りしめた巨斧を振り上げ、これまで以上に雄々しい形相で風真を見下ろす。
「わしは負けん! 王として! 父として! 負けるわけにはいかんのだぁあ!」
空気を切裂き、大地を砕き、渾身の一撃は振り下ろされた。あまりの衝撃に地面や木々さえも震えた。地に刻まれた窪みはバレットが戻ってきた時に先ず目にした孔よりもさらに大きい。が、しかし――
「ぐぬぅ――」
思わず声を漏らす王の視線の先には風真がいた。寸での所で交わし懐に潜り込んだ風真の姿だ。その手は既に雷神の柄に添えられている。
「飛――」
尖った瞳で獲物を見上げ風真が技を繰り出そうと力強く右足を踏み込み口を開いた。
だがその時、何かがへし折れる音が周囲に響き渡る。
更に連鎖的に広がるは樹木を伝う軋み音。その場の皆が顔を上げある一点に視線を集中させる。
「ΒαΑβ!」
数名のオーク達の叫ぶ声がバレットの耳を貫いた。横からはリディアの息を呑む音も続く。
「なんてこった……」
思わずバレットも眼を見張り言葉を漏らす。視界の先では今まさに上空の屋根を形成していた大樹の一部が、落下を始めていた。
そしてその落下地点にいるのは、かの小さなオーク達。あまりの事に空を見上げたまま身動き一つ取れない。
バレットは何とかその身を動かし助けに入ろうと試みるが距離が離れすぎている。
刹那、響き渡る轟音にリディアの悲鳴が広がった――