第六〇話 万事休す?
鮮血をその細い顔に浴びながら、異形は絡めた刃を右に振りドラムの剣を跳ね除けた。右腕一本ではとても支えきる事が出来なかったのであろう。おまけに左腕の痛みもある。
異形の振り抜かれた腕は、ドラムに向かって斜め下へと軌道を変え、先程バレットに行ったように彼の顎目掛け突き上げられた。
ドラムの視線が下に向けられ、その瞳が見開かれる。迫る狂刃を避ける余裕も無い。
「うわぁああぁあ!」
突如シンバルが声を上げ、異形に飛びかかった、曲剣の軌道を変えようと必死に掴みかかる。
「ぐっ!」
ドラムが歯牙を噛み締め、右の瞳を閉じた。その表情には苦痛の色が伺える。だが命に別状は無い。男をみせたシンバルの所為によって刃が僅かに逸れ、更にドラムが顔を左に傾けた事で、右の頬を狩るに留まったのだ。
頬から滲む鮮血は痛々しいが、それでも最悪の展開だけは免れた。が、とは言え、以前ピンチな事に変わりはない。
「どうやらお前さんの目論見は敗れたようだねぇ。まぁ当然さ。こいつはさっきまでの雑魚とは格が違う」
先程まで仲間だったオーク達を雑魚と言い切るマージルに、バレットは嫌悪感を抱かずにいられなく眉を僅かに潜めた。
「さぁどうする? さっきも言ったが、もし土下座して詫びをこうなら許してやらんこともないぞ」
マージルの口端が歪んだ。その口から出た言葉を鵜呑みにするわけにはいかないが現状分が悪いのも確かである。
「ひぇ!」
マージルの立つ位置から更に奥で、シンバルの身が異形から剥ぎ取られた、ドラムも何とか素手で抵抗しようと奮闘してるが、限界だろう。
マージルを見据えるバレット。額から一筋の汗が滴り落ちる。そして――。
「判った降参だ。もうどうしようも無いねぇ」
リボルバーを持ったまま。両手をバンザイのようにさせ、バレットが負けを宣言した。
「だから、はやくあれを止めてくれ。彼等だって武器がなきゃ何もできないさ」
その言葉にふんっ――とマージルが鼻を鳴らし。
「βαΑΓΒ――」
例の言語で命令するマージルに従い異形がぴたりと攻撃を止め、主の横についた。
「くっ……なんだ――一体?」
ドラムが満身創痍といった表情で声を発した。シンバルもわけが判らないといった風に瞳を泳がせている。
バレットは状況が飲み込めていないドラムに視線をやり、その口を開いた。
「ドラム。俺たちの負けだ、このままじゃどうしようもない」
淡々と述べるバレットに、はぁ? とドラムが一言発し言葉を続ける。
「ふざけんな! 何勝手に決めてんだ! こっちはまだ――」
「まだ何だっていうんだい? 武器もなくして一体全体これ以上どうしろと? おいらの後ろには街の住人も捕らえられてるんだ」
その口を塞ぐように重ねられたバレットの言葉で、ドラムが視線を動かす。マージルが握る杖の矛先が件の住人達に向けられている事を確認したようで悔しそうに唇を噛み締め、くっ、と一言漏らした。
「ふ~ん、中々素直じゃないかい。いい心がけだよ。だけどねぇ、降参だというなら貴様のその妙な物も捨てて貰おうか」
バレットの持つ両手の拳銃に視線を送り、マージルが命じた。
「へいへい」
軽い口調で返し、右手方向に向けて二丁の拳銃を放り投げる。
「ふんっ――」
一言漏らし、バレットとドラム達の方を交互にみやり、
「それじゃあそっちの正面に向かってもらおうか。但し妙な事はするんじゃないぞ」
とマージルが言った。その言葉にバレットは黙って従い移動を始めた――その時ふとあの異形の方に視線を向け軽く唇を動かした。異形がぴくりと何かに反応したように顔を動かす。が、直ぐに正面に視線を戻した。
バレットがマージルの指示に従い歩みを進めるが、ドラムは中々動こうとしない。
「何やってるんだ! あいつらがどうなってもいいのかい!」
声を荒げるマージルを睨みつけながらドラムが渋々と命令に従った。
「お前もだよ! さっさと行きな!」
マージルの声に、は、はい! と返しシンバルも立ち上がり移動する。
バレット達三人は最初にオークと戦いを繰り広げた位置に並んで立たされた。
バレットは勿論の事、ドラムとシンバルも武器は持たず素手の状態だ。
マージルがこの位置までわざわざ移動させたのは、捕らえられてる住人達の事があるからだろう。いざとなったら犠牲も厭わない考えやもしれないが、降伏されたとあっては話は別だ。
「さぁ、土下座して詫びを乞うんだよ! そうすれば命ぐらいは助けてやるよ」
口元を嫌らしく歪めてそう言うが、まず間違いなく三人を始末する気なのは予想が付いた。この豚はただ自分のうさをはらしたいだけなのだ。
「冗談じゃねぇぜ、なんでこんな奴に……」
小さな声でドラムが呟く。
「ドラム。とりあえず振りだけでもしてくれ――」
バレットも囁く。
「もしかして……何か手があるのか?」
ドラムの問いかけ、シンバルも窺うようにバレットをみやる。
「上手くいくかは判らないけどねぇ――とりあえず頭を下げるんだ」
「チッ……上手くいってもらわねぇと困るんだよ」
そう口にしながらドラムが右腕を押さえながら腰を落とす。シンバルも後に習い、バレットも続けて身体を屈め始めた。
その姿を眺めながら、マージルの口角が吊り上がり――その瞬間。
マージルの両目が見開かれた。バレットが急遽姿勢を変え横に向かって駆け出したのだ。
「くそ! 何を無駄な事を!」
マージルの叫びを耳朶に受けながら、バレットは相手に判るよう懐に腕を忍ばせ、対象の顔を覗きみた。明らかな動揺の色が見て取れる。
「くそ! まだ何か持ってるのか! だけどバカが! そっちは壁だ!」
声を上げ、その手に握られた杖の先端をバレットに向けた。マージルの言うとおり、バレットの面前には分厚い土の壁が立ち塞がる。
「消えて無くなれぃ!」
その口が開かれるとほぼ同時に先端の珠が淡い光を放ちはじめる。
「ββγΑαβ!」
突如、オークの言語が洞窟内を木霊した。発信源はマージルではない。しかし杖をもったその表情には明らかな戸惑いが見られた。
マージルの目の前に大きな影が躍り出た。それはあの異形であった。下された命令と、バレットの行動から、主に従順な下僕は身を挺して守ろうと行動したのだ――それが裏目に出るとも知らず。
マージルにはしまったという思いもあっただろう。だが既に遅かった、その杖から放たれた豪炎は異形さえもあっさりと飲み込んだ。他のオークと違い、直立のまま声すらあげない姿は見事とも言えるが、いくら並外れた身体能力を持つ異形とは言え、この炎を喰らって無事ではいられないだろう。
しかしだからと言って、これだけの火炎がオーク一体飲み込んだからと収まる筈もない。それは前回の件で証明されている。
激しい轟音を奏でながら、焔は淀みなくバレットに向かい突き進んだ。駆ける彼の目の前には壁。本来なら万事休すといったところだが――
迫る熱が肌を今にも焦がしそうであった。失敗は許されない。奥歯を噛み締めバレットは目の前の壁に向かって飛ぶ。迫り来る豪炎を尻目に面前に迫る土壁を右の足で思いっきり蹴りつけた。その反動を利用し一気に反対側の上空へと飛び上がる。
ブーツのスパーに焔が触れた。ジュッというミディアムな音が耳に届く。頭からずれ落ちそうになったハットを必死に押さえた。これだけは絶対に手放せない。
宙から地へと両脚が下ろされ、土煙を巻き上げながら地面を数メートル程滑り、バレットは静止した。
ハットを右手で押さえたまま顔を巡らす。視界の先に慌てふためくマージルの姿と刃ごと炭化し佇む下僕の姿。
「ドラム! シンバル!」
それだけ言うとバレットは再び駆け出した。声を掛けられた二人もその意味を察しバレットと反対側へ走る。其々の得物を取り戻す為に――
考える時間を与えてはいけない。いざとなったら奴はまた彼らを狙い始めるだろう。しかし今はまだ思考が追いついていない。
杖をもったまま右往左往するマージルを尻目にバレットは一度は投げ捨てたリボルバーを拾い上げた。
先程懐に手をやった仕草等はハッタリでしか無く、まずは武器が無ければ話にならない。
「と、とまれお前等! そいつらがどうなっても――」
ここに来て漸くマージルがその考えに辿りついた。が、杖を牢屋に向け始めた時には既に遅く。
銃口からは火吹きと共に弾丸が発射された。空気を螺旋状に切り裂き、淀みなく杖を握り締めたその手に向かう。
「ぶぎゃ!」
手の甲に命中した痛みから、思わず獣の鳴き声を発するマージル。杖を落とし、慌ててもう片方の手で拾おうとするが、首筋に触れた二本の刃でぴたりとその動きを止めた。
「形成逆転だな」
「へっ! さ~てどう料理してやろうか」
ドラムと変貌したシンバルがそれぞれ発した言葉に、マージルの表情はすっかり凍りついてしまっていた――