浮遊する僕ら
君へ続く道は果てしなく遠い。
* * *
『たすけて』
目を覚ました時、すでに時計は九時過ぎを指していた。けれども、まだ眠っている身体はなかなか言うことを聞かず、少々強引に引きずり出された意識はふわふわと覚束ない。
身体を起こしてぼんやりと窓の外を眺めれば燦々と照りつける太陽の光が目を刺す。とても正視していられなくて、私は慌てて窓から視線を逸らせた。寝起きの目には正直堪えるが、それでも俯いたままブラインドを上げ、部屋の中に光をいれた。
朝の日課を済ませ、『まあ、二限に間に合えばそれで良いんだけど、朝練はできないなあ』、などと悠長に考えながら階段を下りた。
明るすぎる日の光を受けた自室とは対照的に、階下は薄暗く、どことなく陰鬱だった。
家の中はしんと静まり返っていて、その静寂は母の不在を示していた。いつもどおりのガランとした台所。テーブルの上にはラップを掛けたベーコンエッグとサラダが置いてあった。ご丁寧に、私の好きなカスタードが練り込まれてる食パンが、乾燥しないように袋ぐち、トースターの傍にセッティングしてある。
どうやら母さん、私はわざわざ自分で用意してまで朝ごはんは食べない、ということに気付いたようだ。
気付かなくてもいいのに。また、いらぬ手間を掛けさせてしまった。
何から何までそつなく用意されているテーブルに着くと、もやもやとした感情が頭をもたげる。心に染み渡る申し訳ないと思う気持ち。ならもう少し早く起きて一緒に食べるだとか、たまには自分が作ってあげるだとか、せめて自分の分だけでもきちんとするとか、負担軽減の努力をすればいいのだけど、考えるだけなところが私だ。甘やかされてるなあと思いつつ、この状況に甘んじてる。一人暮らしでもすれば少しは自立できるんだろうけど、その必要性を感じないのだ。むしろ金銭面とか、家族との疎遠とかデメリットばっかり浮かんでくる。
心の内を押し出すかのように、自然と溜息がこぼれた。
果ては見えてるようで見えない。おぼろげなその果ては、そこに行き着くまで実際にどんな形をしてるかわからないから。
私はテーブルに着いて、母さんの愛情を噛み締めた。
* * *
戸締りと火の元チェックを済ませて家を出る。時間は十時二十分。電車は一本余裕を持たせて出てきた。もしかしたら今日もあそこで足止めを食らうかもしれないもの、保険は必要だ。
駅に向かって足早に歩く。住宅街だけあってこの辺りはとても入り組んでいる。小道がたくさん走っているし、その上新しい家がとっかえひっかえ建っては壊される。最近は建て替えずに、住んでいる人だけがいつの間にか違っている家も多いみたいだ。昔はよく、この辺の友達とも遊んでいのだけれど、もう何年も顔を合わせていなかった。一本道を違えれば、見知っているはずなのにどこか余所余所しい雰囲気がしてどうにも居心地の悪さを感じてしまう。
そして私はそれを仕方のないことなのだと諦めている。割り切っている。そういうものなのだ、きっと。一度、馴染みが薄くなってしまった場所は始めての場所よりむしろ、受け入れ難いものだから。
そこに差し掛かったとき私は足を止めた。
気にはしていた。いなければいい、いなければいいと呪文のように想いながら、ちらりと盗み見た先にくたびれたダンボールはなくて。ほっと胸を撫で下ろして通り過ぎようとしたそのとき、何かが視界の中を動いた。
そこは俗にいうT字路の突き当たりで、私が歩いている道はTの上辺に当たる。厳密には大文字じゃなくって小文字のtだ。ちょうど上の出っ張り部分に空き地と呼ぶのもはばかられるような空間がある。年中じっとりと湿っているようで、黄色の塗装が剥げた電柱の陰に隠れたその場所はちょっとした廃材置き場、もといゴミ溜めだった。
よせばいいのに、見たところでどうしようもないのに、足が勝手に視界の隅に捉えたものを確認しようと行く先を変える。
ここはなぜか、『そういう』場所らしい。勝手な都合で不要になったモノ達が捨てられる、そんな場所。一番多いのは猫で、その次は犬だ。時々フェレットとかウサギなんかもいるけど、どれもいつの間にかいなくなってしまっている。拾われていったのかもしれないし、自分で箱から這い出したのかもしれない。それから……考えたくもなかった。希望的な推測はいくらでもできるけど、そのほとんどが事実じゃないってことも同じくらい容易く想像できる。
電信柱の影を覗き込んでみても、やっぱり箱らしきものも、ふわふわした毛並みも見当たらなかった。気のせいだったことに安堵してきびすを返そうとしたその時―――……
ゴトン。
何か固いものが転がる音がした。ゴミ溜めだけあって、タイヤとか扇風機とかタンスとか、なんだかわけのわからない鉄くずとかが渦高く積まれているから、落ちるものならたくさんある。危ないなあと呟いて私は後ろを振り返った。
地面にはさっきまでなかった丸い『なにか』が転がっていた。グレーに近い緑色。球状の表面には格子模様が走っていた。
私は、それがなんだか知っていた。知っていたけれども。
「カメはないよねえ、カメは」
まるで私の心を代弁するかのように耳元で声がした。
「……っ唯香!? びっくりした……」
頼むから普通に声かけてほしい。首筋がぞわぞわする感覚を必死で押さえ込み振り返ると、ゆるくウェーブがかかった長い髪が目に入った。
唯香は中学時代からの知り合いだ。といっても高校は別だったので、去年の春、三年ぶりにキャンパスで再会したときもしばらく気が付かなかったくらいだった。それからは地元が一緒というのもあって親しくし始め、今では親友と呼べるほどの仲になった。
「おはよう、あず。何してるの? こんなとこで」
「ん、なんにも。なんか動いてたからちょっと気になっただけ」
そういって私は背筋を伸ばした。知らず中腰になっていたようだ。
「朝会うなんて久しぶりだね。今日、二限からなんだ?」
地面に落ちたカメはのそのそとガラクタの山の方に歩いていた。のんびりしたものだ。
こんな住宅地にカメが自然発生するわけないからきっと捨てられたんだろうけど、犬や猫よりよっぽど丈夫そうで、私は不謹慎にもそれほど心を痛めなかった。
今度こそ廃材置き場に別れを告げ、唯香と連れ立って駅に向かう。
「今日はめずらしく起きれたの」
悪びれもせず、むしろ清々しいほどの笑顔で彼女はそう言い放った。
要するに、いつもは遅刻だと。
「……まあ、それで唯香がいいならいいんだけどね」
「あずが真面目すぎるんだよー」
微妙な間の真意を汲み取ってくれたのはいいけれど、逆に咎められてしまった。確かに融通の利かない性格だとは思ってるけど、かといって唯香が標準だとも思えない。
「唯香はもうちょっと真面目になってもいいんじゃないかなー」
彼女の口調を真似て反撃すれば、はぁいと首をすくめて見せる。もちろん本気で反省したわけじゃないのは重々承知。ちょっとしたポーズだ。
こういうとき、コミュニケーション能力って大事だなあとつくづく思う。会話を楽しむにはまず、適切なタイミングでいかに的確な反応を返してそれを成立させるかが重要になってくるから。って、こんなことを考えながら状況分析するなんて趣味悪いかも。
私達は駅近くの踏み切りに差しかかった。遮断機の音と赤いランプが異なったリズムを刻んでいる。視覚的な不協和が私の網膜を刺激した。
『たすけて』
唐突に、頭の中に響き渡る。何の前触れもなく、だ。
何かの、訴えかける声。抑揚のない声。事務的にその言葉を伝えるようでいて、感情を押し殺しているようにも取れる。
幻聴ってやつだろう。だとしか考えられない。突然、意識の底から這い上がってくるんだから。
隣を歩く唯香は楽しそうになにか話している。だから助けてなんて言うはずないし。適当に相槌を返してる私も同じく。
いつもこうだ。油断してるときに限ってあの声が聞こえる。私はぎゅっと目を瞑って不快な余韻を追い払った。
* * *
「最近ね、高村君が怖いの」
その日の午後。私と唯香は学部のカフェテリアで遅めの昼食を取っていた。さすがに昼休みの後は人もまばらになってきており、ゆっくりお喋りするにはちょうどいい。
私はカレーライスを掬っていたスプーンを皿に置いた。
「なに? ケンカでもした?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」
唯香は両手で覆うようにコップを持ちあげ、水を一口飲んだ。
どうもはっきりしない。
私は訝しがりながらも、まあそんなに珍しい事態でもないので食事を続けつつ話を聞くことにした。
「ケンカしたんじゃないけど……仲直りしたいなあって」
「なにそれ?」
いよいよ意味がわからない。ただひとつ確かなのは、唯香がこのまま話を曖昧に進めていくつもりだということだった。要するに触れてほしくない事情があるって訳だろう。
これは、会話パターン『わかったような振りで話を聞く』でいくしかない。そして最終的に『それっぽい助言で納得させる』に持ち込めれば万々歳だ。
私は頭の中ですばやく会話の道筋を立て、同時に聞く態勢を作った。こんな状況分析はもう癖みたいなものになってしまっている。
「んー要するに、なんだかわからないけど高村の機嫌が悪いって感じるわけね」
唯香はこくんと頷いた。
因みに高村っていうのは他学科の同回で唯香の彼氏だ。私たちとは入学まもなく語学の授業で知り合った。体育会の陸上部に所属していて、明るく裏表のないところが取り柄という感じ。なんというか、私は苦手だ。
「それって唯香に対して怒ってるの?」
「わかんない。でも八つ当たりなんかされたことないし」
確かに、そういうタイプじゃないのは見ていてもわかる。見た目通りの性格なんだったら多分唯香の言う通りなんだろう。けど油断ならない。人間、詐欺師のような気性の奴なんて五万といる。
こんなことを考えるのは、自分のことを棚に上げてるからじゃない、決して。
「原因がわからないと対処しようがないよねぇ」
「よねぇ」
「直接きいてみたら?」
「それは無理」
即答された。どうやら原因について知られたくないから話を曖昧にしただけでもなく、原因を知らないからでもなく、そもそも根本的なところで秘密主義らしい。知ってたけど。
だったらそもそも相談なんかしなくてもいいと思われるかもしれないが、そういうもんでもないんだ。それもひっくるめて理解しているから、こうして取り留めのない話にも付き合える。
「なんで? 自分の彼氏じゃない」
全部わかった上で探りを入れる。もしかしたら案外簡単に問題の本質に触れた答えが返ってくるかもしれない。そんな期待を抱いて。
しかし、私の言葉に対して唯香は曖昧に笑っただけだった。困ったような、哀れむような表情。
きっと二人の間には第三者から見えない複雑な関係があるんだろう。部外者が預かり知ることのできない何か。男女間なら尚更、表に出すことができない事情の一つや二つ、あってもおかしくない。
そんな風に尤もらしい言い訳をして、私は唯香の笑みの意味がわからない苛立ちを合理化した。
『たすけて』
何処かから聞こえたあの声も無視して。
* * *
弓を引いているときが一番落ち着く。放つ瞬間の虚空を突き抜ける感覚。そして浮遊した意識を乗せ矢が的を貫き、私の中心に落ちる。
軽く息を吐けば緊張の糸が解けた。腕から外したユカゲを少しばかりぞんざいに畳の上に転がす。
「弓具は大事に」
道場の壁に貼り付けてある評語をそのまま読み上げるかのような調子で諌められ、意識せず身体が跳ねた。練習日でもない日にここに来る人間は限られており、それでなくても良く聞き慣れた声の主を間違えようがない。しかしいつの間にいたんだろうか。
「祐介、あんた趣味悪い」
気配消して人の背後に立つなんて、とぼやくのを悪びれもせず、
「梓が考えごとしてただけだろ。気配消すなんて、そんな芸当できるわけないよ」
とのたまう。全く私の友人は何でこんなのばっかなんだろう。類は……なんて考えは頭の外に締め出した。
祐介とは、いつから知り合いだったか……もう忘れた。昔からそんなに親しかった思い出はないけれど、記憶を探ればいつもどこかしらにいた気がする。本格的に認識するようになったのは高校から。弓道部に入って、同じ中学からあがってきたっていう軽い親近感を感じて、気付いたらいつの間にか私の一角を担う存在になっていた。特に示し合わせたわけでもないのに大学も一緒になってしまうんだから、人生って不思議だ。
弓を掛け、放り出したままだったユカゲを取り上げる。
「集中してただけ。何もないよ」
「ふうん。まあいいけどね」
そうしてしばしの沈黙が流れる。五秒。十秒。
窓の外からグラウンドの掛け声が聞こえてきて、道場内の静けさを煽った。畳に腰をおろして、開けっ放しの倉庫の暗闇に整然と並ぶ剣道部の防具を何とはなしに見つめる。音もなく、当たり前のように祐介が隣に座る気配を感じた。
「話したいなら話せよ」
三十四まで数えたところで、彼の方が先に口を開く。痺れを切らしたって訳じゃない。むしろ私のために折れてくれたという方が正しい。昔からそうなのだ。祐介を相手にすると私が話し手に回ってしまう。それがなんだか歯痒くて、腹立たしくさえあるのだけれど、未だにこの力関係を打破できないでいる。要するに、甘やかされているのだ。
「……あんたほんッとにムカツクね」
「いいから」
私が言う気なかったらどうするんだろう。そんな考えがふと浮かんで、ありえないと嘲笑った。
「気色悪りぃ」
「うるさいよ」
そしてまたしばし。
けれど今度の沈黙は十秒も続かなかった。
窓から流れ込んでくる陽の光を浴びた風が私の鼻腔をくすぐり、胸が締め付けられるような感覚が私を急き立てる。
叫び出したい衝動が駆け抜けた。
「……思い通りにいかないもんだなあって思って。いや、失敗はしてないんだよ? でもねぇ……」
「わかるように言えよ」
「やだ。わかんないままで聞いてて」
そうじゃなきゃ意味がない。わかってしまったら惨めになる。負けてしまう。だからこうして、不満そうな祐介を見てちょっと救われた気分を抱く。他人のことがわからないのは自分だけじゃないと安心する。独り善がりだ。
「わかった振りすんのって難しいよね」
唯香の話を頭から最後まで聞いて、その間うんうんと相槌を打ち、それらしいことを言って目標通りの会話を成立させても、無力感が否めない。ポーズだって割り切ってるのにそれがつらくなるなんて。
他人の考えていることを理解するのは難しい。ましてや数少ない情報しか与えてくれない相手ならなおさら、自分の推測に頼る部分が多くを占めてしまって、結局本質は意味をなくす。仮想に過ぎないものに成り下がる。
それが、悲しいのだ。
「私ってお人好しかもなー」
「今更」
「だからうるさいよ」
私は勢いをつけて腕を振り上げると、そのままの態勢で唸りながら後ろに倒れこんだ。たたみ独特の匂いが鼻を突く。喉の奥まで出掛かっていた衝動は唸り声に紛れてしまったようで、すっかり形を潜めていた。
「もういいやー私のことはおしまい!」
ちょっと口に出したくらいでころころ気分を変えてしまう自分が幼稚に思えて、なんだか恥ずかしくなってしまった。
私に傾いていた話題の矛先を無理やり相手に向ける。
「祐介は最近どうなの? 麗しの君は」
私の言い方が気に入らなかったのか、祐介は眉をしかめた。
「……相変わらず。梓の望むような進展はない」
「ええーじゃあまだ遠くから眺めてるだけ? あんたそれ一歩間違えば……」
「言うな。僕だってわかってるよ」
祐介にはもう何年も片思いしている人がいるらしい。ひょんなことで私の知るところとなったその話は格好のネタにされている。
だって今時、自宅近くを通るだけの年上のお姉さんに恋焦がれるなんて純愛話、現実にあるだろうか。
「……気持ちわる」
「言うなって……」
深窓の令嬢か、あんたは。
これ以上言うと本気でへこみそうだったので、後の言葉はぐっと飲み込んだ。まあこんなヘタレでも友人としては申し分ない。むしろ欠点にも思えるそんな気質を私は気に入っていた。
だから私は、こうしてからかいつつも、密やかながら彼の恋路の応援をするつもりだった。
* * *
それからしばらく練習を重ねた後、祐介は用事があるとかで先に帰っていった。
すっかり日が落ちた時分、電車も空いた頃、私は地元の駅のプラットホームに降り立つ。夜道は暗く、明かりはところどころにある街灯が薄ぼんやりと辺りを照らしているのみだった。
「……高村どうしたんだろ」
結局、今日の唯香の話では高村が何で怒ってるのかわからずじまい。実際のところ、本当に機嫌が悪いのかも確かじゃないし。それほど、彼女の話は掴み所がなかった。それは私の理解力が弱いとか、それだけの理由じゃないと思う。
深く突っ込めない、突っ込まないのを知っていて唯香は私を選ぶのだ、体の良い聞き役として。
それが不満なわけではなく、むしろ一種のスキルを発揮できているということであり、またそのスキルを磨く場を得ていると思えば私としても無駄ではない。
そういうものなのだ、私たちの関係は。
何を思って、これほどまでに理由づけがほしいのか。自分でもわからなかった。
気が付けば例の廃材置き場の前まで来ていた。そういえば今朝見たカメはどうなっただろう。どさくさに紛れてそのままにしてきたが、カメくらいなら家でも飼えるかもしれない。放っておいても問題なさそうだったけれど、できれば飼ってやりたかった。
ガラクタの山を覗き込んでみても暗くてほとんど何も見えず、諦めて帰ろうとしたとき、数間先の街頭の下に何か丸いものを見つけた。
私はそれに歩み寄る。だんだんと距離が詰まっていくにつれて不快な胸騒ぎがした。
あまりに、薄いのだ。その丸は。
あと数歩、というところまで来てようやく私はそれの全容を理解した。
「……っ‼」
球状だった『それ』は平たく潰れ、硬いはずの甲羅は無残にもひび割れていた。
『たすけて』
どうにも吐き気がおさまらなくて。逃げ込むように家に入った後もしばらく自室を出ることができなかった。
母さんがまだ帰っていなくて本当によかったと、ベッドの上で膝を抱えつつ思う。取り乱した姿を見られたくはなかった。
どうして、大丈夫だなんて思ったんだろう。あんなにも脆いのに。なぜ? どうして?
私が罪悪感を感じることじゃないと理屈ではわかっていても、気持ちの整理が付かなかった。
安易だった。浅はかだった。一瞬でも、捨てられたカメを憐れんでやれば、ここまで罪の意識に心が押し潰されることもなかったのだろうか。
手近にあったシーツをぎゅっと、指が白くなるほど握り締める。肩が震えた。
かわいそうな猫。かわいそうな犬。かわいそうな……
捨てられている動物を見る度、無責任な人間に苛立ちを覚え、同時に己の無力ささえも罪であるかのように感じて。そんなどうにもならない葛藤を置き換えるかのように、私はそれらをただひたすらに憐れんだ。見捨てることしかできない自分を癒すために。
なにが大丈夫だって? 心がなければ傷つかないとでもいうのか。
そう私は。
あの時、猫や犬とカメを弁別した自分が許せなかったのだ。
* * *
翌日は日曜日だった。
朝からそれは素晴らしくいい天気で、日曜特有の匂いが香っていた。私はこの空気が好きで毎週楽しみにしているのだけれど、今日に限っては気分が晴れなかった。昨日の光景が頭を離れない。睡眠が足りていないからかもしれないなあなどと、靄がかかった頭でぼんやり考えた。
とはいえ日曜はバイトがある。いつまでも塞ぎ込んではいられない。私は鉛のような身体を無理やりベッドから引き剥がした。
休みの日は遠出ができるから、物を捨てるにはもってこいなのだろうか。必ずと言って差し支えないほど頻繁に『それら』は居た。だから私は大学に行くときよりもっと余裕を持って家を出る。そうしてしばらくの間、かわいそうな動物たちを眺めるのが日課だった。
何の解決にもならない。でも誰にも気に掛けられずに終わってしまうよりは少しでも救われるのではないかと、そんな気休めに縋っていた。
でも今日はそれが偽善にしか思えなくて、ギリギリの電車に乗ってバイト先に向かうことにした。
再び駅に降り立ったのは、とっぷりと日が暮れた夏場ならまだまだ明るい七時半頃。
ぼんやりと照らし出されるアスファルトの道路が所々煌くのを、呆けたように見つめながら家路を辿っていた。その途中、T字路の窪みの前に差し掛かったとき、古びた電柱の下に見慣れた人影が見えた。
「……唯香?」
「あず」
俯いて自分のつま先を見ていた唯香は私の声にはっと顔を上げた。そうして私を認めるとゆっくりと表情を綻ばせる。風に揺れる長い髪。くっきり縁取られた目元。華やかに微笑む彼女は余りにも精巧で。いつまでも昔のままではないのだと、唐突に思い知らされたような気がした。
「何してるの? こんなとこで」
「待ってたの」
「ずっと?」
「うん、そう」
そう言って差し出された手は冷たく冷えていた。
ずっと? ここに? 唯香は知っていただろうか。私の今日の行動を。日曜日はバイトだなんて教えたことがあっただろうか。思い出せなかった。どうでも、よかった。
「付き合って、ほしいの」
いきなりごめんね。ちょっとだけでいいのよ。
どうでもいいはずなのに、やっぱり私は彼女とのごっこ遊びを拒否することができなくて、「いいよ」なんて、微笑んだのだ。
もしかしたら、廃材置き場に佇む彼女に、彼らを重ね合わせたのかも、しれなかった。
私たちはさっき降りたばかりの電車に乗って隣町までやってきた。
ショッピングモールをうろついて、ゲームセンターで遊んで、カラオケをして。ごく普通に友達同士でするように時間を潰した。ようにというのはおかしいか。実際に私たちは友達なんだから。
ひとしきり遊んだ後、私たちは二階席のあるカフェに入った。窓から煌びやかな夜の街が見える。ネオンの光を見つめているとなんだか物悲しいような腹立たしいような、そんな感情に襲われた。
「ごめんね、無理やり……」
あずと出かけたかったんだ、と唯香はバツが悪そうに微笑んだ。ピンクレモネードのグラスを両手で覆い、ちびちびとストローを吸う仕草をなんとなく見つめる。
「いいよ、全然。私も気分が塞いでたから」
落ち込んでたのも、突然連れ出されたのを気にしていないのも事実だった。けれど晴々した様子の唯香を見ていられなくて、私はディンブラのカップに目を落とした。琥珀色の表面に映る表情は揺らいでいてよく見えない。
「楽しかったよ、すっごく。なんか……落ち着いた」
「そう、よかった」
嘘ではないけれど、真実でもないんだろう、きっと。けれど唯香がそのつもりなら、私はそれ以上突っ込んじゃいけない。関わっちゃいけない。私たちの関係はそれで良いんだ。
なのに所詮はポーズなんだと割り切って、割り切りきれてない部分が痛む。救われない。
『たすけて』
一体誰なんだろう。上っ面を偽って、心で助けを求めているのは。唯香? それとも―――……
何かが胸の奥で突っかかっていた。けれども私はその何かに気付かない振りをして、唯香といることに集中した。そして実際に忘れたのだ、唯香に対する不満や猜疑心、虚無感や劣等感、そして憐れみや蔑みを。あの潰れたカメと共に。
そうして大事な本質を見落とした。
* * *
次の日からキャンパスで唯香の姿を見ることがぱったりとなくなった。
最初はいつものサボりだろうと全く気にせずに一週間が過ぎ、どうもおかしいと思い始めたのは二週間が経っていた。メールも電話もつながらない。そんな事態になって始めて、他人との繋がりの薄さを思い知ることになった。
その日の朝、私は一時間ほど余裕を持って家を出た。玄関を閉め、鍵を植木鉢の下に置いて、駅とは反対方向に自転車を走らせる。
五年ほど前の記憶を辿って唯香の家に向かった。知っているのに馴染みの薄い町並みを眺めていると、得体の知れない不安がふつふつと沸き起こる。私はその不安を追いやるように、昨日の出来事を思い出していた。
* * *
「神崎、ちょっといいか」
長い間顔を見ない友人が気がかりで、記憶を頼りに自宅まで行ってみようかと迷っているところに声を掛けられてやっと、その存在を思い出した。そうだ。
「高村! あんた……」
「ちょっと待て。外で話そう」
ここじゃ何だからと言うので私たちは教室を出て、学舎外の適当なベンチに腰を下ろした。ちょっと人通りがあるけれどそんなこと気にしていられない。それほど私の焦りは昂っていた。
「あんたならなんか知ってるでしょう!? 唯香どうしたの?」
掴みかかる勢いの私に、回りにいた幾人かの視線が集まった。
「ちょ、ちょっと待てよ」
「もう待ったわ!」
「わかったから落ち着けって」
高村は息巻く私の肩に手を置くと困ったように顔を歪めた。その表情を見て少し冷静さが戻る。驚いた。高村のこんな顔は未だかつて見たことがなかったから。
「俺が聞こうと思ってたんだ。唯香、最近見ないからどうしたのかと……」
「私が聞きたいよ」
「どうやらそうみたいだな」
どうしたもんかね、頼みの綱だったのに、と高村は額を手で覆い、頭を抱え込んだ。
目の前で途方にくれる高村を見ても信じられないと言う気持ちが強くて、こぼれ出る言葉は自然と棘を帯びた。
「唯香、言ってたよ。最近あんたが怖いって……まさか、なんもしてないよね?」
「何の話だよ」
「だからそれが理由かもしれないって言……!」
「だから! 何のことか説明しろよ!」
高村の怒鳴り声が休み時間中の中庭に響き渡った。視線の数は圧倒的に増えている。立ち止まって見てくる人もちらほらいた。さすがに居心地が悪い。
「……声デカ過ぎ」
「お前のせいだろが……」
居たたまれなくなったのか、高村はすっくと立ち上がると、私の手を引っ張り上げた。
「おい、場所変えっぞ。きちんと話さないと埒があかねぇ」
私も同感だった。腕を引かれるままにキャンパス内を突っ切る。向かう先は、どうやら学食のようだった。唯香と高村について話しこんだ場所で、今度は高村と唯香について話すのかと思うと、なんだか可笑しくて唇の端が吊り上るのを感じた。上手く笑えたとは、思えなかった。
「だから唯香は、あんたの機嫌が悪いってことを気にしてたのよ」
お昼時のカフェテリアは騒がしくて、ここなら人に注目されることなく話ができそうだった。尤もここに来るまでの間に随分と落ち着いたから、どんな場所でも差し支えなく話せそうだったけれど。
「……機嫌が悪かったわけじゃねぇよ。そりゃ納得がいかなかったから、上機嫌で対応できてたかってぇと自信ないけど」
高村は柄にもなく口を間誤付かせると、目線をテーブルの上で組んだ手に落とした。
「納得いかないってどういうこと?」
唯香は違うって言ってたけど、やっぱりケンカしてたんじゃないだろうか。
高村になら面と向かって深くまで突っ込める気がした。一体なにが原因なの、って。そんな風にこの後の会話を組み立ててみれば、多すぎる相違点が見出せた。相手によって対応が代わるのは当たり前のこと。けれど私はどこか、唯香を壊れ物のように扱っていたところがあったようだった。そんな『特別扱い』に気がついた。ううん、とっくに気付いていたのかもしれない。
高村や祐介にならすんなり言える言葉が彼女には向けることができなかった。それは決して優先順位に比例するものではないと私は自覚していて、だからこそ自分が情けなくて。
皮肉すぎて滑稽だった。
「そりゃ、付き合ってる人たちに部外者の私が口挟むべきじゃないけど……」
「俺ら、とっくの昔に別れてるよ」
「……え?」
私は自分の耳を疑った。だってそんなの。
「聞いて……なかったのか?」
言葉を失った私の耳に、高村の驚いたようなバツの悪そうな声が届いた。
たいしたことじゃないのかもしれない。言う必要がないと思ったのかもしれない。そんな理由をつけてみたけれど、どれも悉く欺瞞のように思えた。
結局大事なことは何一つ、私に告げられることはなかった。
私たちは友達で、お茶をしてお喋りをして、時には悩み事を相談し合って。だけど、お互いのことをこれっぽちも信頼してなかった。全部、ポーズだったんだ。
「お前らさ、似てるよな」
思いつめた顔で私のことをしばらく見つめていた高村は、唐突にそんなことを言った。
私と? 唯香が?
自慢じゃないけれど、唯香はおしとやかなお嬢様テイストな容貌をしているのに対して、私はいかにも体育会的なショートカットで女気のかけらもない。性格だって、あんなふうにおっとりしていたら、つめの垢ほどでも彼女のような可愛げがあったらと、何度羨んだか。
「どこが? 似てないよ」
おかしなことを言う奴だと思った。もしも、少しでも似ていたなら、こんなに相容れないこともなかっただろうに。
「そういうとこだよ。知ってたか? 唯香もそんな風に眉根しかめて笑うんだ」
高村は自分の眉間を人差し指でくいと上げた。
「自覚ないのかもしんねぇけどよ」
ぽかんと呆けたような私を見て笑う顔がなんだか憎らしかった。わかったような顔をされるのは気に食わない。不本意ながら、私は今までとはまた少し違う意味で、高村のことが苦手になってしまったようだ。
「……唯香のこと、気にかけてあげて」
けれど私は自分に高村と張り合えるほどの度量がないことを知っていた。悔しいけれど、そうなのだ。目の前で真っ直ぐな目を向ける彼は、私にはできないことをいとも容易くやってのける。
「お前に言われなくてもそのつもりだ。心配すんな。けどよ、唯香が一番頼りにしてんのはお前だからな」
だからお前がもっと唯香を信じてやってくれ、とそんな力のある言葉を無責任にも吐き捨てる。それなのにそんな泣きそうな顔をするなんて。本当に、ずるい。
「それ、本気で言ってるんだったら見当違いだよ」
わざとなんでもない風を装って、極力軽い口調を心がけた。正攻法では勝てないのだから私は私の得意なやり方で防御を固める。どれもこれもポーズなんだと開き直って。
「……何でお前らそんなに、他人と関わるの怖がってんだ?」
哀れむような目を向けて来る高村に対して、私は曖昧に笑っただけだった。
* * *
記憶にあった住宅街の一角を一筋ずつ見て回って、ようやく見覚えのある家に辿り着いた。確かにここだ。玄関の横にあるミニチュアの池に屋台の金魚をいれたもの。間違いない、はずなのに。
表札に掲げられているのは見覚えのない名前だった。
住んでいる人の話では、もう二年も前に持ち主が代わっていたらしい。時々とはいえ、駅やその辺りの道で出くわすこともあったから、まさか家を住み替えていたなんて思いもしなかった。
唯香の存在がどんどん薄れていく。人一人がいなくなるってこんなにも簡単なことなのだろうか思うと、背筋が薄ら寒くなった。
もうどうしようもない。完全にお手上げだ。大学に聞いても住所は教えてくれないだろうし、唯香はサークルにも所属してなかった。
私は昼間で人がまばらな車内で、独り途方に暮れた。
* * *
静まり返った弓道場で私は的と対峙する。今日何本目かの矢は、大きく軌道を外れあらぬ箇所に突き刺さった。節を崩し、板張りの間を降りる。弓を射れば少しは落ち着くかと思ったけれど、気休めにもならなかった。
乱暴に弓を置き、畳の上にうつ伏せに寝転がって、そのまま突っ伏した。
両手で顔を覆う。畳と、陽の匂いが鼻腔をくすぐる。
泣いてしまいそうだった。
ぽん、と頭の上に置かれる手。悟られないように、空気のような自然さで私の側に入り込むその巧妙さ。確認するまでもなく、誰のものかすぐわかった。
「なに寝てるんだ」
「寝てない」
「じゃあ泣いてる?」
「泣いてない」
声が震えていた。たすけて、たすけてと淡々と告げる声がうるさくて、頭がおかしくなりそう。
あのとき、身体が冷え切るまで私を待っていた貴女を、貴女の真意を、無理やりにでも抉じ開けていれば、こんなことにはならなかった? ねぇ唯香。
助けを呼ぶ声は止まなくて、ほしい答えは返ってこない。
黙って私の頭をなでる彼は、一体どこまで『私』を知っているんだろう。正体のわからない恐怖に襲われて、喉の奥が焼け付くように痛かった。
「祐介、覚えてる? ほら私が高二の時……―――」
当時大学生だった先輩に、練習見に来て下さいって頼んだときのこと。
「軽い気持ちだったんだよ。そんな深い意味なんてない。ただ」
会話のネタみたいなもんだったのに。
『若いときって自分のことしか考えてないよな』
今でもはっきりと覚えている。そのときは何を思ってそんなことを言われたのかわからなかったけれど、考えれば考えるほど心が痛んだ。己の浅慮と無知とそして相手の心無さが、遣る瀬無かった。
「それから私、誰かに何かを望むことは止めたの」
他人のテリトリーに踏み込むことがとても恐ろしく思えて。誤解を受けて自分も相手も不快な思いをするくらいなら、最初からわかった振りで十分じゃないと自分を納得させた。
そう、唯香の話を聞いていたときも、『それっぽい助言で納得させ』たのは自分自身。いつだってそうなのだ。私は己の保身ばかりに気をとられて、大事なものを見落としてしまう。
押し殺してしまっていた気持ちの方が大切なときも、たくさんあったのに。
祐介はただ黙って、とりとめもなく私の口からこぼれ出る言葉を浴びていた。本当に聞いてくれているのだろうか。普段とは逆の不安が押し寄せてきて、私は震える唇を噛み締めた。
「私、怖い……」
見透かされてしまうことも、理解してもらえないことも。全部、怖い。
わかったような振りをして御しきれない重荷から逃げる一方で、ずっとわからない振りをして避けてきたものもあった。
助けを呼ぶ声は唯香だけのものでも私だけのものでもなくて、『私たち』のものだったんだともっと早く受け入れていれば、何かが変わっただろうか。拾ったはずで拾いきれてなかった彼女の心を留め置くことができただろうか。今となっては知る術もないけれど。
「梓は優しすぎたんだよ」
かけられた言葉は都合が良すぎる労りに満ちていて、とても信じられたものではなかったけれど、涙を誘うには十分だった。
* * *
そして脆い。
後に続く言葉を僕はぐっと飲み込んだ。
わからない振りをするのはわかった振りをするよりもっと難しい。それでも梓が望むなら僕はその役を続けようと思ったから、その努力のおかげで今もこうしていられる。
電信柱の影にしゃがみこんで、まるで自分が捨てられたかのように涙を流す姿を見た時から、それが君の優しさであって、自己愛だと気づけた瞬間から僕は梓に惹かれていた。
毎日毎日、そこに佇む姿を見れるだけで満足だった。今でもその気持ちは変わらない。そのために彼女の気が済むように鈍感を装って、時には嘘も吐いて。
だからこれからも、ずっとこうして過ごしていく。
梓を救って貶めて、変わらない姿を見続けるためなら、他の何も厭わない。
どこからか、声が聞こえた気がした。
* * *
だから私たちは日曜日の午後、あの道の先に君を見る。どんなに願っても永遠に縮まらない距離を、見る。
*end*
【浮遊する僕ら】
黎