第二話 名を捨てた者達
冷たい風が頬を撫でる。
ヒュンダスの冬はこれからが本番。あと一ヶ月もすれば、大地は雪に覆われ、樹氷も見られるようになる。
本格的な冬はまだもう少し先なのに、凄く寒い。
この時期でこんなに寒いなんて……
「気が付いたか?」
声をかけられ、エイファはゆっくりと目を開けた。
半壊した民家と思われる建物の中で、薄い毛布をかけられて横たわっていた。日は沈んでいて、暗闇が広がる中、焚火の灯りを確認する。時折吹き込む冷たい風が炎を揺らしている。
すぐ隣に、見慣れない大男が座っていた。彫りの深い顔付きで、一見すると四十代後半といった印象を受ける。状況から察して、この男に助けられたのだろうと、エイファは理解した。
「あ、あの……、僕を助けてくれたのは、……あなたですか……?」
問いかけても返事はなく、代わりに小さな鉄製の水筒を差し出された。
「これを飲め」
言われるがまま、エイファは水筒を受け取り、口に運んだ。酷い苦みと辛さだった。薬草を何種類か混ぜて作った薬だということはわかったが、このような不味いものを、エイファは初めて口にした。
だが、飲んですぐに体の中から暖かくなってくるのを感じた。
「……効いてきたか。斬りつけられた傷が熱を持ち、寒気がしていただろう。もう大丈夫だ」
そうだ。ウルブレントの騎士に従者を殺され、自分も瀕死の重傷を負った。それなのに、今こうして生きている。傷も塞がり、痛みも感じない。一体どうなっているのだろう……。
「あなたは一体誰なのですか? 私はエイファ・ラ・ヒュンダス。この国の第三王子……、です」
正確には「だった」と言うべきなのだろう。確かめるまでもなく、このヒュンダスは滅ぼされた。南アンシリア十大国の一つ、ウルブレントに……。
グレイザーは、エイファの身分を聞いても眉一つ動かさなかった。ただ、その表情はどこかもの悲しげに見えた。
「俺には名はない。……いや、名は捨てた。グレイザーでも何でも、好きに呼べばいい」
「グレイザー……、ウルブレントでは、悪魔の代名詞だとか……」
朦朧とする意識の中、エイファはウルブレント騎士達の言葉を聞いていた。しかし、悪魔と言われたこのグレイザーは、どうして自分を助けてくれたのだろう。
「あなたは私の恩人です。傷の手当までして頂いて……」
「俺ではない。お前自身が癒したのだ。魔導師の血を引いているようだが、覚えていないのか?」
自分で癒した?
魔導師?
何の事か、エイファにはわからなかった。自分は魔導師などではないし、魔法も使えない。
しかし、このグレイザーが嘘や、出鱈目な事を言っている様にも思えない。彼がそう思えた何かが、気を失っている間に起こったのだろう。
「そう言えば……」
小さく呟く。
気を失う直前、体の中で変化が起こった様な気がした。言葉にするには難しい感覚だった。例えるなら、体の奥で、静かに水が湧き出るような……、いや違う。もっと特殊な感覚だった。
そして、記憶の中に埋れていた事実を思い出した。
「祖母が……、魔導師の血を引いていました。」
「やはりそうか。死の間際、血の中に眠っていた魔導師の力が覚醒したのだろう」
きっとそうに違いない。祖母は癒しの魔法を使えたのだろう。その力が自分にも……。
ただ、祖母には会った事がない。母より聞いただけだった。その母でさえ、幼少の頃に亡くなった。
……そう、ヒュンダス王妃は、自分の本当の母親ではない。三人兄弟の中で、自分だけ母親が違う。
王妃が不在の時、城で働く平民出身の若い女官を、夜毎、王が自分の寝室に連れ込んでいたという昔の話を耳にしたことがある。自分の母も、その中の一人だったのだろう。
朧気な記憶だが、母と話した事や、この城に来た時の事は覚えている。
「……魔導師の血とは不思議ですね……。何故、突然癒しの魔法が使えるようになったのか……。生きたいと願ったからなのか……?」
エイファは自問自答するようにそう言った。死にたくない、そう思ったのは事実だ。しかし、今思えば、生き残ったところで、この先一体どうするというのか……。
国は滅びて、親も兄弟もいなくなった。頼れる部下も、国の人々もいない。完全に独りになってしまったというのに……。
「まだ死ぬべき時ではなかったという事なのだろう。俺もお前も」
グレイザーは言った。
それは、彼が、自分自身に言った言葉のような響きがあった。
名を捨てた理由、それと関係があるのだろうか……。
「……まだ、死んではいけない? 僕にはもう何もない。それなのに、一体何のために生きろと……」
「それは自分で探せ。死を覚悟したお前が魔導師の力に目覚めた事も、きっと意味のある事に違いない。」
果たしてそうだろうか?
単なる偶然だったと言えばそれまでだ。いっその事、あのまま死んでいた方が良かったのかもしれない。
焚火の火が弱まり、焚き木を追加するグレイザー。その脇腹から、血が滲み出ていた。
「その傷は……」
「ああ、よくあることだ。お前のために負った傷ではない。気にするな」
無意識に、グレイザーの脇腹に向けて右手をかざしていた。すると、優しい光が手に集まり、それがグレイザーの傷へと吸い込まれた。
驚きの表情を見せるグレイザーに、エイファが言う。
「これが癒しの力なのですね。信じられないけど、頭の中に不思議な言葉が降りてきて、それが魔法を発動させている……、きっともう傷が癒ている筈です」
「あ、ああ……、痛みが消えた。魔法の力とは凄いものだな……」
エイファは思った。
今はこのグレイザーと言う人の為に魔法の力を使おうと。彼は命の恩人だし、彼と一緒ならばこの先、どうにか生きていけるかもしれない。
「……私を従者にして頂けませんか? あなたの力になりたい。そして、生きる意味を探したい……」
エイファの言葉にまた驚かされるグレイザー。癒た脇腹を摩りながら返答する。
「お前はこの国の王族なのだろう? 従者になるような身分では……」
「ヒュンダスはもう滅びました。なので、私はもう王子などではありません。私も……、ヒュンダスの名前を捨てます。」
生きる為に名を捨てる。
それがエイファの選んだ道、最初の一歩だった。それは決して穏やかな道程ではない。だが、今の彼に他の道を探す時間はなかった。
正しいかどうかなど分からない。ただ、絶望の中から這い出る為に、進むしかないのだ。
しかし、名を捨てた二人に、亡国の風は容赦などしなかった。