星空のもと、神と鬼が
人気のない暗い森。里の人間は「入らずの森」と呼んで近付かない場所。その森の奥に、ぽっかりと開けた場所がある。
その場所には、古びて今にも崩れそうな、小さなお宮が建っている。お宮の屋根は苔むして雑草が生え、かつて捧げ物が置かれただろう、虫食いだらけの台の上には、捧げ物の代わりに落ち葉が乗っている。
空高く昇った月が、白い光でお宮を照らす。
ごとごと、と音を立てて扉が開いた。白い足が階を降り、草を踏む。
お宮の中から出て来たのは、一人の少女だった。黒い髪はばさばさで、その肌は対照的に青白い。ぼろぼろの、白い着物をかろうじて身体にまとっている。
少女は階に腰掛け、空を見上げた。黒く塗った紙一面に銀砂を撒いたような星空が広がっている。
草を踏む音。少女はちらりとその方に目を向けた。木の陰から人影が現れる。人影は黒い衣を着た少女だった。一度も櫛を通したことがなさそうなぼさぼさの頭からは、角が二本生えている。
「また来たか、鬼子。飽きずによう来ること」
やや皮肉げに少女が声をかける。鬼子は小走りに少女の横までやって来た。
「ほんとは神子も嬉しいくせに」
鬼子がやり返す。にい、と笑う拍子に、口からは鋭い牙がのぞく。
神と鬼。正反対ながら、最も近い存在の二人は、並んで星空を見上げる。
「あんたはいつから宮にいるのさ」
「ずいぶんと昔から。思い出すことも、もう難しい」
「ふん、こんなちっぽけなぼろ宮なんて、放り出してしまえばいいのに。どうせもう誰も参りに来やしないんだから」
鬼子が捧物台をぽんと蹴る。年月と雨風、その上虫食いで痛んでいた台は、その一蹴りであっさりと倒れた。
神子は一つため息をつき、階を降りてごろりと草の上に寝転んだ。その場所からだと、星空がよく見える。
「人は変わり、土地も変わり。されども星は変わらず、か」
吐息と共につぶやきを漏らす神子。ひょこひょこと、横に鬼子がやって来て、同じように横になる。
「こんな夜には、星祭りだと言うて、里の人間が踊りに来たものよ。朝までかがり火を焚いての。好きおうた二人が歌を交わすこともあった」
「ああ、騒がしかったねえ。神子もこっそり混ざってたっけ」
二人の笑い声が、夜の森に響く。もし里の人間が聞けば、一体誰がいるのかと恐れたことだろう。
「あんたは何でここにいんのさ。人は去り、土地は枯れ、もうここに誰かが来ることもないというのに」
「それが約束だから。神が約束を違えることは許されぬ。例え人が忘れ去ろうとも」
答えを聞いて、鬼子が不満げに口を尖らせる。神子は横目でちらりとそれを見た。鬼子は気付かぬふうで星空を見続ける。神子も星空に目を戻した。
神子が思うのは、この森が「入らずの森」となる前のこと。星祭りの夜に歌を交わして恋人となり、やがて夫婦となった若い男女。
ある日夫は森に行き、そのまま戻らなくなった。妻は夫を待ち続けたが、夫は一向に戻らない。待てど暮らせど帰ってこない夫を捜しに、ある日妻は森へ行った。しかしいくら捜しても、夫はおろか夫の持ち物すら見つからない。
夫を捜してさまよう妻は、季節が一つ過ぎ去るごとに、己が目的を忘れ、とうとう鬼と成り果てた。
鬼子が思うのは、このお宮にまつわる昔話。昔、今よりも森が荒れたことがあった。人々は、森のものを採るばかりであったことが、森の神の怒りに触れたのだろうと言いあった。
神の怒りを鎮めるためにはどうすればよいか。やはり贄を捧げるべきである。ならば、誰を贄とするか。
幾度も相談が重ねられた結果、一人の娘が贄とされることに決まった。白い着物を着た娘は、身を清めた上で贄として神に捧げられた。そしてその場所に、森の神となった娘を祭るための、小さなお宮が建てられた。
「ほんと、物好きだよねえ、あんた。鬼を見ても殺すでもなく、とうに枯れた土地を守り続けてさ」
「その言葉はそのまま返そう。今や力もほとんどない神を喰らいもせず、里に下りて人を襲うこともない鬼子にな」
くつくつと鬼子が笑う。神子も口の端を持ち上げた。
星空はいつしか徐々に明るくなってくる。夜明けが近いのだろう。
ふらりと鬼子が立ち上がり、森の奥へと消えていく。神子はそれに目を向けようともせず、その場に横になっている。
やがて鬼子の姿が完全に消えたあと、神子はゆっくりと立ち上がった。白い足が階を上がり、その姿はお宮の中へと消えた。