四、醜い私は愛されない (2)
「皇子様、ぜひ召し上がってください。絶対に美味しいですから」
早く、早く、皇子のもとに。
そして、雑炊を召し上がっていただいて、美味しいと褒めて貰いたい。
――さすが真緒姫の雑炊ですね。瞬く間に元気になりました。
そう言って誉めて貰いたくて、真緒は木箱を抱えて本格的に走り出した。その時。
ぐぎっ!!
左の足首に激痛が走った。
思い返してみれば、真緒が走ったのは十数年ぶりの珍事だ。萎えまくっている真緒の足は普段から体重を支えるだけで限界だった。それが走ったのだ。毬のように弾みをつけて飛んだり着地したりすれば、普段の体重の何倍もの負荷がかかる。そりゃあ、無理というものだ。
かくして真緒は顔面から地面に倒れつつある。そんな危機的状況であるにも関わらず、彼女は幸せな妄想をその脳内で展開していた。
(こんなことってあるんですね! 私も皇子様に抱きしめて貰えます!!)
けしてわざと転んだわけではない。足をくじいたのは偶然なのだと心の中で自分ではない誰かに言い訳を繰り返しながら、真緒は矢凪の逞しい腕が伸びてきて自分を抱き上げてくれるのを待った。
脳裏に浮かぶのは、先程の鮮明な光景。矢凪に抱き上げられた咲穂の姿だ。そして、彼女の顔が自分の顔にすげ変わる。
どぉぉぉぉぉーん!!
「え?」
真緒はさっぱり状況が分からなかった。
ただ分かることは、現実の自分が地面に伏しているということ。目の前に、一瞬前まで大切に抱えていた木箱と、その中に入っていた椀が逆さになって転がっている。
椀の中身はどうなっただろうかと首を左右に回せば、たらりと額から汁が滴り落ちてきた。それは額から頬に流れ、真緒の唇を湿らす。絶妙な塩加減のとびきり美味しい雑炊の味が口の中に広がった。
「真緒っ!! 真緒っ!! 大丈夫かっ!!」
血相を変えた織人が駆け寄って来て真緒の傍らに膝を着くと、自分の袖で真緒の頭に掛かった雑炊を拭う。侍女たちも追って来て真緒の衣の汚れを払いながら、怪我はないかと問いかけて来た。だが、真緒は答えられない。織人に立つようにと促されても身動きがまったく取れなかった。
「……真緒姫、大丈夫ですか?」
真緒がどうにか顔を上げられたのは矢凪が声をかけてくれたからだ。けれど、真緒が茫然と彼を仰ぎ見れば、そこに暖かさの欠片も感じられなくて、ただ、ただ、無感情に見つめてくる眼差しだけがあった。大丈夫かと問いかけながら、真緒に手を貸す気配もない。
真緒はガタガタと体を震わせた。
その震えは、雑炊に濡れて体が冷えたからではない。怒りでも、恐怖でもない。
震えの原因。――それは、恥ずかしさだ。
真緒は己の失態を悟った。そして、今この場において自分がいかに場違いであるかを。
消え入りたいくらいの居たたまれなさ。
自分という生き物が情けなくて、猛烈に悲しい。
(何、これ……。こんなつもりはなかったのに。なんで。なんで! なんでっ!!)
自分が嫌いだ。
自分はなんて醜くて、みっともない存在なのだろう。
真緒は生まれて初めて自分への嫌悪感を抱いた。できることなら、真緒という肉体をズタズタに引き裂き、儚くなってしまいたい。
(なぜ私はこうなんですか? こんなにも醜くて情けない……。なぜ私は……っ)
真緒は両手を地面に着いたまま立ち上がれなかった。いっそのこと、自分のことなど構わず、矢凪が立ち去ってくれればいいと願う。だが、誰もその場を去ろうとはしなかった。
鈴を転がしたような清らかな声が響く。
「矢凪様、この方が和多の真緒姫であらせられるのですか?」
場の空気にそぐわない、じつに無邪気な問いかけだ。誰もが答えられずにいると、咲穂は矢凪の腕に両手を添え、小首を傾げて真緒に微笑みかけてきた。
「真緒姫、お召し物が大変なことになっていらっしゃいます。お部屋にお戻りになられた方がよろしいのではないの?」
真緒だって何も答えらなかった。なぜだろうか。やっぱり悔しい!
美しく微笑む咲穂を前にして死んでしまいたくなるような悲しみと誰に向けたらいいのか分からない怒りを覚えた。
だけど、分かっている。咲穂の可憐さを恨んでも仕方がない。助けてくれなかった皇子に怒りを感じても仕方がない。
呼んでもいないのに現れて、頼んでもいないのに食事を用意して、走って転んで、雑炊を頭から被ってしまったのは真緒自身の不注意のせいだ。
真緒は侍女たちの手を借りてゆっくりと立ち上がった。悔しさと情けなさに涙が滲んだ。でも、今ここで泣いてしまったら、ますます惨めになるに決まっている。だから、真緒は歯を食いしばるようにして皇子に向き直り、ぐっと頭を下げた。
「見苦しい姿をお見せして申し訳ございませんでした……」
咽から絞り出すように言えば、後はもう顔を上げることなどできない。皇子がどのような表情で自分を見つめているのか、咲穂がどのような眼差しを自分に向けているのか、それらを確認する勇気もなかった。
真緒は踵を返すと、ズキズキと痛みを訴えてくる左足を無視して全速力で駆け出す。太くて短い両腕を精一杯に振って、弛んだお腹を上下に弾ませながら、一刻も早く矢凪と咲穂の視界から自分を消し去りたくて、懸命に懸命に真緒は走った。
「真緒っ!!」
引き止めようと声を上げてくれたのは、織人だけだった。後を追って来てくれるのも織人だけ。
――皇子様は追って来てくださらない!
橙陽殿を飛び出して乾いた黄土を蹴散らしながら真緒は、やめよう、と心の中で叫んだ。ぐちゃぐちゃに心を乱され、今にも泣き出しそうな自分が嫌で嫌で堪らなくて、もう嫌なことは考えたくなかった。
(こんなの私じゃないです。いつもの私は幸福に包まれていて、なんの不満も不安もなかった。良いことだけを考えて暮らしていたんです。だから、そう……。もしかしたら、皇子は私を助けなかったのではなく、助けられなかったのかもしれません)
すぐ傍にいた咲穂とは異なり、真緒と皇子との間には距離があった。腕を伸ばしても届かなかったに違いない。
橙陽殿を走り去った真緒を追って来てくれないのも、今は隣に咲穂がいて、大きな後ろ盾を持つ彼女を放って真緒を追いかけるわけにはいかないからだ。
そうやって都合の良いように考えようとした。――だけど、そんなわけがないということを真緒の頭はよく分かっている。
もし、距離の問題だったのだとしたら、真緒が地面に伏した後でもすぐに皇子は駆けつけてくれるべきだった。せめて織人よりも早く声を掛けてくれるべきだったのに、彼はそうしなかった。
なぜ咲穂姫を放っておくわけにはいかないの?
悲しみに押し潰されそうな真緒はひとりで去らせてもいいの?
いいのだ。真緒のことはどうなっても。なぜなら……。
(――私は愛されていない)
真緒は、ぷつりと糸が切れたかのように立ち止まり、膝を折ってその場に崩れ落ちた。
真緒も咲穂も巫覡に選ばれた麗しの花姫であり、同じ立場に違いない。だけど、真緒と咲穂は違う。少なくとも矢凪の中では二人はまるで違う存在だ。
真緒が本物かどうかなんて関係が無い。皇子は咲穂が大切なのだ。
だから、価値が違う。想いの深さがまるで違う。
ぜぇぜぇと激しく肩で息をしながら真緒は両手で地面を引っ掻いて、ボタボタと汗が黄土の上に円模様を描いていく様を睨んだ。
「真緒」
追い付いてきた織人が真緒のすぐ後ろに立って物言いたげに吐息を漏らす。真緒は織人が何かを言う前に自ら口を開いて織人の慰めを拒絶した。
「ほんと、月と泥亀みたいですよね」
月は天上にたったひとつだ。唯一の輝きは、どんな貴重な玉よりも尊い。
だが、泥亀は沼を漁ればわしゃわしゃと姿を現す。その中の一匹や二匹がどうにかなったとしても誰も何も思わないだろう。
「咲穂姫が皇后になって、私がたくさんいる妃のひとりとして王宮の片隅でひっそりと暮らすようになったら、皇子様はどのくらいの頻度で私に会いに来てくださいますか? 一日置き? 三日置き? それとも、ひと月置きですか?」
真緒は頭を左右に振る。
「違う! きっと私なんて存在は忘れられてしまうに違いないんです!! 私、そんなの嫌です。私もちゃんと愛されたいです。……ううん、違う。私が月になりたいんです。醜い私が不遜かもしれませんが、皇子様を独り占めしたい……。もっと一緒にいたいんです。私を見て欲しい。私を優先して欲しい!」
真緒は振り返り織人を仰ぎ見た。すると、今の今まで堪えていた涙がぽろりと零れ落ちて、真緒の頬を伝う。
「たくさんいる妃のひとりだなんて、そんなの嫌です。我慢できません。私だけを見て欲しい。その両腕で他の誰かを抱き締めないで欲しい。私だけを抱き締めて、私だけに微笑みかけて欲しい。――なんて、こんなことを思うのは本当に不遜ですよね? こんな私がそんな途方もないことを願うだなんて滑稽過ぎて笑っちゃいますよね? だって、私……。私ったら、ぜんぜん綺麗じゃないし、むしろ見苦しくて、本当にみっともなくて。私なんか、私なんか、誰にも気付かれないところで気付かれないうちに、ひっそりと消えてなくなっちゃえばいいんです! ……そう思うのに、それなのに。こんな醜い女が高望みなんかしちゃって、本当に笑えます」
あはは、と自ら笑いながら真緒はボタボタと涙を流す。じつに悲しげな笑い声だった。
織人が怒ったように顔を顰めて片膝を着く。ぎろりと睨まれて真緒は口を閉ざした。
「ちっとも笑えない。不遜だとも思わない。それでいいんだ。それが普通なんだ。誰かを好きになれば、その相手と自分以外は邪魔に思えてくるものなんだ。相手さえいればいい、相手にとっても自分だけでありたい。そう思うのが普通なんだ」
「でも私……」
「ああ、そうだ。今のままのお前では駄目だ。皇子は振り向いてくれない。たぶん、もう食事も共にはしてくれないだろう。食欲が無いと理由をつけてお前との食事を断ったのも、お前と過ごす時間を惜しんで咲穂姫との逢瀬を大切にすることを選んだからだ。そして、今後も皇子はお前よりも咲穂姫を選び続けるだろう」
「咲穂姫が羨ましい。皇子様に選んで貰える咲穂姫が……。私はきっと誰からも選ばれません。一生誰からも愛されず、ひとりで年老いて、ひとりで死んでいくんです。だって、私は醜いから!」
「真緒……」
織人は強張っていた表情を和らげ、肩を震わせ涙を流し続ける真緒に向かって、できるだけ穏やかに声を響かせる。
「お前、言っていたな。男の寵愛を得るために努力するなんて面倒臭いって。どうして女ばかりがそんな苦労をしなければならないのかって。――違うぞ。男も好きな女を振り向かせたくて努力をする。あらゆる手を尽くして、めちゃくちゃ頑張るんだ。だって、みんながみんな美男美女ってわけじゃない。だから、そうやって頑張って、努力して自分を磨いて、少しでも良く見えるようにどうにかするんだ。誰だって好きな相手には自分だけを見て貰いたいからだ」
真緒は織人の言葉を聞きながら、何度も何度も瞳を瞬かせる。
「私、どうしたらいいんですか……?」
「まず痩せろ」
「……どうやって…?」
「食わなければ痩せるだろう。――まあ、俺に任せておけ。俺がお前をどうにかしてやる。真緒、お前は俺が選んだ麗しの花姫だ。俺がお前を選んだんだ。絶対にお前を幸せにしてやる。だから、俺を信じろ!」
言って織人は立ち上がり真緒を見やると、春先の陽向のような暖かい笑顔を浮かべた。ぐっと力強く真緒に向かって手を差し伸べる。
「ここで頑張らなきゃ、お前は残りの人生をずっと後悔して過ごすことになるぞ。そんなの損だ。そうだろ?」
真緒は涙で濡れた頬を拭わないまま織人を見つめ、こくんと小さく頷きながら織人の大きくて男らしく骨ばった手を掴んだ。
その瞬間、真緒の胸の奥に淡く優しい小さな燈火のような種がひっそりと芽生えたのだが、真緒も織人もこの時はまだそのことにまったく気付いていなかった。




