四、醜い私は愛されない (1)
「えっ、お越しになられないんですか? どうしてですか?」
それは真緒にとって思い掛けないことだった。素っ頓狂な声を上げて真緒は侍女に聞き返す。
昨日、矢凪は真緒と食事の約束をした。だから当然、食事時になれば矢凪が桃華殿を訪れるだろうと、真緒は侍女たちに指示を出して二人分の食事を用意していた。
ところが、約束の時刻になって、矢凪の侍女が申し訳なさそうに断りを告げにやって来た。
「皇子様は食欲がないと仰せでして……」
「食欲が!? それは大変です! ご体調が優れないでいらっしゃるんですよ。薬師を、薬師をすぐに呼んでください!!」
青ざめ、鞠が跳ねるような動きで腰を浮かした真緒に、織人がひどく冷めた眼差しを送ってくる。織人に肩を押され、真緒は浮いた尻を床に戻された。
「お前じゃあるまいし、毎日毎日、腹ペコってわけにはいかないんだ。物が喉を通らない、そんな気分の日もあるさ」
「えー、何ですかぁ、それ。無いですよー。だって、食べなきゃ死んじゃうじゃないですかぁ。人はまず食べなくてはいけません。何があっても食べるんです! それが生きるってことですよ」
真緒は侍女たちを呼び寄せると、料理を持ち運べるように器を入れ替え、木箱に入れて麻布に包むように指示を出す。そして彼女たちの準備が整ったのを見て、難儀そうに腰を上げた。
「どこに行くつもりだ?」
「愛しの皇子様の危機なんですよ。駆けつけなきゃ妻ではありません! ――って、私ったら、妻だなんて恥ずかしいですっ!!」
真緒はきゃあきゃあ言いながら体をぷるぷる揺らす。その振動で少しでも肉が削ぎ落ちれば良いのだが……。まず無理だろう。
織人に呆れられながら、真緒は侍女たちを連れて桃華殿を後にした。
当然のことながら、当然な顔をして織人も付いてくる。織人は謂わば、王宮における真緒の後見人だ。奇しくも真緒が織人に連れられて王宮に上がったその時から――真緒が無事に皇后になれば、織人も大巫覡になれるわけなので――真緒と織人は成功するも破滅するも共に分かち合う仲となっていた。
その織人の様子が明らかにおかしい。何を言っても上の空で、真緒が目の前で焼き菓子を貪り食べていても厭味のひとつ言う気配がない。だが、真緒には織人が何を思い悩んでいるのか、なんとなく察することができていた。
――もうひとりの麗しの花姫のことだ。
織人や侍女たちから話を聞くに、咲穂姫とやらは、かなりの美少女らしい。
しかも、矢凪皇子の生母である秋津妃の姪にあたる人物で、つまり、後ろ盾もばっちりだということだった。
(大丈夫です! 誰かに言われなくても、私、ちゃんと分かっていますから。要するに、彼女と私は、月と泥亀ということですよね)
和多族は地方豪族だ。それもかなり都から遠く、未だかつて大王に后や妃を差し出したことがない。和多の地では豊かに暮らせていても、都では弱小豪族だった。
加えて、真緒の残念な容姿……。
一方、吾田族は大王を筆頭とする皇族と深い関わりがあり、吾田族の男たちは都に上がり、大王の臣下として仕えている。所謂、中央豪族と呼ばれる者たちである。そして、吾田族の女たちは代々の大王に求められるほどに美しく、秋津妃もその美貌で大王の心を虜にしていた。
(だからこの場合、当然、咲穂姫が月で、私が泥亀なわけですけど。……いいじゃないですか、泥亀で! だって、月は綺麗なだけで食べられないけれど、泥亀なら食べられますし、食べれば誰でも元気になれます。私、泥亀で良かったぁ!!)
きっと滋養満点の泥亀のように真緒は皇子を助け、最良の支えとなるはずなのである。
(だけど、皇子様が月も愛でたいと仰せなら、咲穂姫も妻に迎えればいいんですよ。大丈夫ですよ、私、かなり心が広いですから。大王に后の他にたくさんの妃がいるのは仕方ないことだって思いますし)
さらに妥協したことを言えば、自分が皇后にならなくてもいいと真緒は考えていた。
大巫覡になりたがっている織人には悪いが、やっぱり皇后になれば、いろんなことで面倒臭そうなのである。季節ごとに様々ある儀式に出席したり、また出席するためにあれこれ準備したり、礼儀作法を学んだり、豪族たちの機嫌を損なわないように気を配ったりしなければならない。
また、皇后が大王の正妻であるからには、大王の身の回りの女たちも統制しなければならないだろう。王宮には下働きの婢女から皇族の世話をする侍女がいる。そして、大王が娶る多くの妃たちにも皇后は目を配らなければならなかった。
(なんて面倒臭いんですかぁーっ!!)
無理、無理、と真緒は大きく頭を左右に振る。
(やっぱり皇后には咲穂姫になって頂いた方が良さそうです。私は妃のひとりでいいです。普段はのんびり王宮の片隅で暮らしていて、そんでもって時々、皇子様に愛されればそれでいいんです)
ふらりと訪れた皇子は日々の政務に疲れ果てており、それを料理で慰め、癒して差し上げる――そんな未来の自分の姿をうっとりと思い浮かべ真緒は、うふふ、と笑みを漏らした。きっと未来の真緒は皇子に寵愛され、らくをして暮らしながらも幸せになっているはずなのだ。
どこまでも怠惰な真緒がそのようなことを考えているうちに、真緒たちは矢凪の寝殿である橙陽殿にたどり着いた。
婚礼を迎えるまでの日嗣の皇子の住まいである橙陽殿は、赤みを帯びた土塀で囲まれ、門扉は矛を手にした二人の衛士に護られている。
衛士たちは門の前で足を止めた真緒に不審げな眼差しを向けたが、すぐに織人の額についた印に気が付くと、姿勢を正して門の前を開け、真緒を内に通してくれた。
門に入ってまず真緒の目に映ったのは橙陽殿の前庭だ。矢凪の清らかな性格を写し取った鏡のような穏やかな池と、豊かな緑、鮮やかな花々に満たされた庭だった。
(ここが皇子様の寝殿なんですね)
真緒は鼻からすうっと大きく息を吸い込む。もしかしたら皇子の残り香がそこかしこに漂っているかもしれないと思うと、自然と鼻息が荒くなった。
「おい、大丈夫かよ。そんな大した距離を歩いたわけでもないのに、もうくたびれているのか?」
「えー、べつに疲れてなんかいませんよ」
「けど、ぜぇーぜぇー言っているじゃないか」
「違いますって。いやですよ、織人ったら、乙女心が分からないんですから。……あっ。あそこにいらっしゃるの、皇子様ですよね?」
真緒は織人の肩を叩いて池の反対側――赤や白、桃色のツツジの花が咲き乱れている植え込みの方を視線で指し示した。だが、織人の立ち位置からはエンジュの木の陰になっていて見えないらしい。真緒は織人の腕を掴んで木の陰から引っ張り出した。
「痛っ!! この馬鹿力! いきなり引っ張るなよ。腕がもげるだろうがっ!!」
「大げさです、もげるわけがないですよ。そんなに強く引っ張ってないですから。ほら、見てください。……ね、皇子様ですよね? あっ、でも、一緒にいらっしゃる方はどなたでしょうか?」
「あの方は……」
真緒は織人に指し示しながら、わずかに離れた場所でツツジの花を楽しんでいる矢凪の姿を見やる。そして、その矢凪に寄り添う、桃色の上衣を纏い、薄絹の領巾を両肩から流して歩む少女をじっと見つめた。
矢凪と少女はツツジの花を眺め、言葉を掛け合い、そして、微笑み合う。と思えば、矢凪が植え込みに手を伸ばして白い花を摘み、少女と向かい合うと、彼女の黒髪にそっと花を挿した。
「もしかして、あの方が咲穂姫ですか? 本当に愛らしい方なんですね。皇子様と寄り添っている姿はまるで男神と女神みたいです。素敵すぎて、うっとりしちゃいます!!」
「はぁ~!? お前、何を言っているんだ。どこまでも余裕ぶったヤツだなぁ。何が素敵だ。何がうっとりだ。咲穂姫は所謂、お前の恋敵だぞ。皇子がお前ではなく彼女を正妻にと望まれたらどうするつもりだ?」
「えー、べつに良いじゃないですかぁ。その方が絶対に見栄えがいいですよ」
「は? お前、それ本気で言っているのか?」
「本気ですよ。だって、その方が、みんなが喜んでくれます。あーあ、羨ましいです。私も皇子様に花を挿して貰いたいですぅ」
「そうだな、突き刺して貰うといい!」
真緒の間延びした声を切り捨てるように織人の苛立った声が響いた時だった。
あっ、と真緒が声を上げる。いや、真緒だけではない。ほぼ同時に咲穂が小さく声を漏らし、そして、体を大きく傾けさせた。草に足を取られたのだ!
――倒れる!
誰もがそう思った。そして、真緒も。
真緒は全身を強張らせ未だかつてないくらいに目を見開くと、咲穂の体が地面に倒れ込んでいく様子を見つめる。
ひっ、と真緒の咽が苦しげに鳴った。もうだめだ。愛らしい姫君が地面に伏してしまう。そう真緒が思った時、逞しい腕がふわりと彼女の体を掬い上げる。そして、軽々と抱き上げ、大事そうに両腕の中に包み込んだ。
(きゃああああああああああああ!!)
真緒はその場に座り込み、バシバシ、と地面を両手で叩く。ぷるぷると体を震わせて、悶絶寸前であった。
「今、見ましたか!? ちゃんと見ていましたか!? ものすごい徹底的瞬間でした。躓いた咲穂姫を皇子様が抱き留めて、抱き上げたんです。ほら、まだ抱きしめています!」
びしっと真緒は池の向こう側を指差して、ジタバタと両手両足を暴れさせる。
「すごいです! 素敵です!! トキメキが大爆発です! 皇子様って、どうしてあんなに皇子様なんですかぁ? やーん、私も皇子様に抱きかかえられたいです!」
「……」
「はぅぅぅ……っ」
「……お、おまえ……。まず立て。話はそれからだ」
真緒は自分が矢凪に横抱きにされている妄想を思い描いていた。皇子の首に両腕を回して、可能な限り体を密着させる。顔は皇子の肩に埋めよう。そうしたら、きっと至上の幸せに包まれるに違いない。
真緒は織人に促されて立ち上がると、再び池の向こう側に視線を向けた。ちょうど矢凪が咲穂を地面に下ろしているところだ。二人の会話は聞こえないが、やや俯きながら言葉を交わしている様子は、そこはかとなく甘い。
「なんて素敵なんでしょう!」
真緒の目に、美男美女の二人はキラキラと輝いて見え、まさに真緒が理想とする恋人たちの姿に映った。
「あんな風に私も皇子様の隣を歩きたいです。私もあんな風に皇子様と!」
この時、真緒は何の根拠もなく、咲穂に向けられている皇子の優しさと同じものを自分も皇子から与えられるものだと信じていた。なぜなら咲穂と自分は同じ――どちらも巫覡によって選ばれた麗しの花姫だからだ。
しかも、本物の花姫は真緒である。咲穂も自分こそが本物だと言い張っているらしいが、織人が自信たっぷりに本物は真緒だと言っていたのだから間違いない。
つまり自分と咲穂は、容姿の美醜では一歩劣るものの、真緒の方が本物であるということを考慮すれば、二人は対等であればこそすれ自分の方が大きく劣っているはずがないと、真緒は固く信じて疑いすら抱いていなかった。
「――なぁ、俺たちって何のために橙陽殿に来たんだっけ? 覗き見をするためじゃないよな? 俺、いい加減、覗き見している自分が嫌になってきた」
「あっ、忘れていました。皇子様にお食事をお持ちしたのです。そういえば、皇子様ってば、食欲がないと仰せでしたけど、とてもお元気でいらっしゃるみたいです。ご病気ではなくて本当に良かったです」
体調が悪いわけではないのなら、きっと食事を召し上がるはずだ。真緒は運んできた食事を矢凪に渡そうと、侍女から木箱を受け取った。
木箱には泥亀の雑炊を盛った椀が入っている。木箱の中に雑炊を零してしまわないように真緒は慎重に歩きながら矢凪に歩み寄った。
さほど大きくない池をぐるりと半周する。桂の木の前を通り、楓の木の前を通り、ドングリの木の前を通った時ようやく矢凪が真緒に気が付いた。
「真緒姫……?」
真緒は矢凪に気付いて貰えた嬉しさを満面に浮かべて、早く皇子のもとにたどり着きたいと歩調を早めた。長い裳が足に絡みついて鬱陶しい。それを蹴り上げながら真緒は知らず知らず小走りになっていた。
――早く皇子のもとに行きたい! 早く!!
真緒は皇子との距離を一瞬でも早く埋めようと大きな声を張り上げる。
「精の出るお食事をお持ちしました! 皇子様、これを!!」
真緒は欠片も疑っていない。なぜなら、王宮に上がってから今まで矢凪はいつだって真緒に優しかった。淡く微笑みを浮かべて真緒のことを最大限に気遣ってくれていたから、真緒はまったく気が付かなかったのだ。橙陽殿にいるはずのない真緒が突如目の前に現れたことに皇子はひどく驚き、言葉も表情も失っていたことを。




