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花となりて 君恋うまで  作者: 日向あおい
6/18

三、可愛いって、お得よね (1)


 たっぷりと肉の付いた手が青銅の高坏に盛られたトチの実の焼き菓子を鷲掴みにする。その後どうするのかと眺めていれば、それら五つを一度に頬張り、ぼりぼりと音を立てながら咀嚼した。

 溢れ出てきた唾液と共に口の中をジュワリと広がる甘さ。呼吸をする度に鼻からフッと抜けていく芳ばしさが堪らないのだろう。 


「ああ、幸せ。……ああ、幸せ。……ああ、幸せ」


 うっとりと頬を緩ませ、細い目をさらに細めて真緒は繰り返し繰り返し、ひとりごちる。その鬱陶しさときたら侍女たちを残さず部屋から追い払ったほどだ。

 思えば、その時に自分も退散しておけば良かったと織人は深く後悔した。


「真緒姫、失礼します。織人、交代の刻限だよ……って、あれ? 何かな、この空気は」


 階を上ってくる軽快な足音が聞こえたかと思えば、すぐに高良が部屋の入口から顔をのぞかせた。そして、一瞬で部屋の中の異様な雰囲気に気が付いたらしい。顔を引き攣らせる。逃げようという考えが高良の脳裏を過ぎったに違いない。

 だが、一瞬の怯みが手遅れとなった。高良の姿を見つけて、どんっ、と真緒が行儀悪く膝を立てて床を踏み鳴らす。


「高良、待っていたんですよ。聞いてくださーい! 私、すごいんです!!」

「うわぁ~、そうなんですかぁ。それはすごいですね」

「いやですよぉ、まだ何も話していないじゃないですかぁ。あのですね、私、皇子様に好かれているかもしれないんです!」

「え?」


 高良の表情が固まった。いや、表情だけではない。すべての動きが停止する。

 部屋の奥まで入って来て、真緒の前に腰を下ろそうと屈み込んだ――その姿勢で固まった高良の気持ちは、彼が声に出して言わなくても分かる。とくに織人には手に取るように分かる。高良が今一番に吐き出したい言葉は、そんなまさか!? ありえない!! であろう。間違いない。


「ええっと、それは……。いったい何が起きたんでしょうか?」

「今朝のことなんです。月恵宮で。ねぇ、織人も見ていましたよね?」

「ああ、まあ、俺も傍に控えていたからな。けど、あれは……」

「すごいんです!! ちょっと太っているからって何ですか。食欲が抑えきれないのなんて大したことではないんです。こんな私でも恋はできるんですよ。想い想われ、なんて素敵な私の運命なんでしょうか!? まさに今、私は運命の恋に身を投じているんですよ!」

「……」

「……」

「……え? で? 結局、何があったの?」 


 拳を握り締め、二の腕をぷるぷるさせながら力説するわりに真緒の話はちっとも要領を得ず、高良は説明を求めて織人に振り返るしかなかった。







 今朝方、真緒は矢凪と共に月恵宮を訪れた。

 数年前に大王が秋津妃への寵愛の深さを示すために建てた月恵宮は、その御館の絢爛さは言うまでもなく、季節を問わず様々な植物を楽しめる庭園こそが自慢の離宮である。

 王宮から程近く、散策に適した場所だからと誘われた真緒は、その庭園を矢凪の案内で歩きながら彼の美しさにうっとりと見惚れていた。

 正直なところ、真緒にとって庭園の美しさなどどうでもいい。それらは、けして皇子の輝きには適わないのだから。目を奪われるのは、花でも蝶でもない。皇子の淡く優しげな微笑みだ。


「真緒姫、あそこを。池に鯉がいますよ。泳ぎがとても優雅ですね」

「え、あっ、はい。鯉……。本当に、なんて……」


 ――食べ応えのありそうな立派な鯉。


 皇子の横顔に見惚れ過ぎて、うっかり口が滑りそうになる。皇子はまるで抜き打ち試験のように不意に声を掛けてくるから油断ならない。


「見てください。あちらの岩の上で亀が休んでいますよ」

「まあ、本当に」


 白いひれを優雅に流しながら泳ぐ鯉から慌てて視線を移動させ、皇子の指し示す岩場を見れば、手のひらに収まりそうな小さな亀が数匹のんびりと日光浴をしている。

 真緒は小さく落胆のため息をついた。


「あれはまさしく石亀ですね。泥亀スッポンでしたら米と一緒に煮て食べると美味しくて、しかも滋養があります」

「えっ、泥亀ですか?」

「ええ、泥亀です」


 一瞬、しまったと思うが、すでに遅い。泥亀と口にしたとたん、真緒の脳裏にとがった鼻が特徴的な泥亀の顔が浮かび上がって、ぐるぐると踊るように駆け廻った。

 その顔ときたら――自分のことは棚に上げて言うが――かなり滑稽な顔である。まん丸で小さな目玉は、ほぼ鼻の孔と同じ形と大きさで、波打つように弛んだ口は梅干しを食べた老婆のよう。もはや真緒を笑わせるためにそのような顔で現れたのだとしか思えない顔で、食べられるものなら食べてみろと、長い首をひょろひょろ動かして真緒を挑発してくるから可笑しくて堪らない。

 真緒にしか理解できない笑いを噛み殺しながら、頭の中で踊り狂う泥亀をどうにか捕まえて食べてやろうと、真緒はぺらぺらと言葉を重ねた。


「もちろん石亀だって草亀だって食べようと思えば食べられるんです。私、基本的に四足の生き物はすべて食べられると信じていますから。食べませんけど、犬も四足動物ですから……。食べませんけど。問題は調理法なんです。なぜ泥亀なら食べて、石亀だとガッカリするのかと言うと、石亀や草亀の臭みを取り除くにはそれなりの手間が掛かるんです」


 真緒は両手で鍋の形を作り、次にその鍋の中に酒を注ぐ仕草をする。


「もちろん泥亀にも臭みがあります。なので、お酒で煮たり、生姜を入れます。鍋には甲羅ごと入れちゃいます。甲羅から取れた出し汁は本当に絶品なんです。その出し汁に蒸した米やネギを入れて、最後に溶き卵を流し込んだ雑炊なんて、もう最高です! あっ、もちろん泥亀は捌いてから入れなきゃダメですよ。臭みのおおもとを取り除かなくてはなりません」


 今度は刃物で泥亀を捌くような手付きをして、真緒は活き活きと話し続ける。もはや彼女の頭の中は泥亀料理のことでいっぱいだった。思い浮かべた料理に涎が出そうである。


「泥亀の甲羅は他の亀のものと比べて柔らかいので、捌きやすいことも特徴のひとつです」


 捌いた泥亀を鍋に入れ、数時間かけてぐつぐつ煮込んだつもりになってから、米やネギ、溶き卵を入れて、真緒の脳内で雑炊が完成した。ほかほかと白い湯気が立ち、鍋の底で焦げた米が芳ばしく香る。白い米の上に広がった卵の鮮やかな黄色も真緒の食欲を大いにそそった。


(あー、もーう、お腹へっちゃいました。食べたいです。雑炊、食べたぁーい。今すぐ食べたぁーい!!)


 物寂しさを訴え始めたお腹にそっと両手を添えて真緒は、さらに言葉を重ねる。


「――それに泥亀の顔って、石亀や草亀に比べて可愛くないじゃないですか。可愛い顔の石亀や草亀を犬みたいに愛玩する人はいますけど、泥亀を食べずに飼っている人はめったにいないです。だから、泥亀を食べて文句を言われることはないですけど、可愛い石亀や草亀を食べると、え〜っ、ひどぉ〜い、かわいそぉ〜、って非難されるので食べられません」

「なるほど……」

「つまり、これって、可愛いはお得ですね、っていう話なんです。分かりますか?」


 もちろん、そのような話をしていたつもりはないが、なんとなく結論っぽい言葉が出てきたところで、真緒はひと仕事終えたような満足感に胸を膨らませた。

 それにしても、お腹が限界である。真緒はしだいに何でもいいから食べたいという気持ちに支配されていった。


(お肉……。お肉……。お肉が食べたい)


 お腹に添えた両手を上下に動かして優しく擦り、自分のお腹を慰める。


(豚肉。無ければ、鹿肉でもいいです。齧り付きたい……。齧り付くことができるのなら鶏肉でもいいのに。ああ、あの茂みから、ぴよぉーんってウサギが飛び出して来ないかしら。そうしたら、絶対に捕まえて食べてやるのに)


 真緒は鯉が優雅に泳ぐ池の向こう岸の茂みを睨みつけた。

 ――と、その時。

 真緒のお腹の虫たちがわらわらと下腹に集まって来て、銅鑼や鈴、笛などの楽器を構える気配がした。彼らはいっせいに息を吸い込み、大きく口を開け、または、大きく腕を振り下ろす。



 ぐごごごごおぉぉぉぉぉー。



 見事な大合唱。

 そして、大演奏である。

 虫たちは楽器を手にしながら、そこらを転げ回り、大声で歌ったに違いない。そう思わせるような大きな腹音だった。

 ムズムズと空腹を訴えてこそばゆかった下腹がスッキリとすると、真緒はお腹の虫たちに向かって心の声で語りかけて深く賛同する。


(そうですよねぇ、お腹がぺこぺこですよね。もう何でもいいから食べたいです。誰か気を利かせて食事を持って来てくれないかしらー……って、えっ!?)


 驚愕の瞳と目が合う。

 その瞳に真緒の方が何倍も何十倍も驚き、お腹の虫たちも真緒の思考も皆、一時停止した。

 ちらりと、皇子の後ろに控えた従者に視線を向ければ、彼らは真緒から視線を逸らし、さらにその後ろに控えた侍女たちを見やれば、彼女たちは真緒から隠れるようにしてクスクスと笑い声を立てている。そして、織人は真っ青だ。まるで妖魔か幽鬼を見るような恐怖に怯えた眼差しで真緒を見つめていた。


(えっ、どうして? 私、何か悪いことしちゃいましたか?)


 真緒は再び皇子に視線を戻す。皇子は驚愕を顔に貼り付かせたまま薄く唇を開き、そして閉じ、利き手を上げては降ろし、視線を池の鯉や亀たちに流しては、また真緒を見つめ、それらを何度も繰り返していた。真緒に掛ける優しい言葉を必死に探している様子が見て取れる。

 あー、と真緒は声を漏らし、そして、自分がとんでもない失態を犯したことを悟った。


「……っ!!」


 顔が赤くなる。

 どっと噴き出した羞恥心が全身を駆け巡り、眩暈を起こした。

 お腹が鳴った。――それは、お腹が空いているということで、食べ物を欲しているということだ。

 自分が何を欲しているのか、美しい景色を眺めながら自分が何を考えていたのか、それらはけして皇子に知られてはならなかったのだ!

 そう、それを知られることは恥ずかしいことであり、まして、欲しているものが愛らしい花でも優雅に泳ぐ鯉でもなく、一般的な姫君が喜ぶ絹や玉でもないことが真緒には恥ずかしい。いったい真緒の他に誰が、鯉を眺めて美味しそうだと、亀を眺めて食べたい、お腹が減ったと感想を抱くだろうか。きっと皇子は隣を歩む真緒がそのようなことを考えていたとは思いもしなかっただろう。

 真緒だって、普通の姫君がそのようなことを考えないことくらい知っている。自分はちょっぴり他の姫君たちよりも食にうるさく、絹や玉に興味がない分、食に強い執着を持っているのだ。

 今の今まで一度も、真緒は他の姫君のことを気にしたことはなかった。

 他は他、自分は自分。

 自分は普通の姫君とは違うと分かっていても、それが恥ずかしいことだとは思いもしなかった。


(でも、今はものすごく恥ずかしいです!)


 なぜ恥ずかしいのか。

 それは皇子に、普通ではない、奇怪だ、異常だ、と思われたくない気持ちが真緒の心に芽生えてしまったからだ。


(良く見られたい。皇子様の瞳に魅力的な姫君であるように映りたい)


 少なくとも従者たちに視線を逸らされたり、侍女たちから陰で嗤われたりするような姫君ではありたくない。そのような自分の姿を皇子に見られることは途轍もなく情けないことだった。

 きゅっと下腹が再び収縮する。ざわざわとお腹の虫たちが騒ぎだし、再び楽器を鳴らそうか、鳴らすまいかの相談をしていた。


(うそ、また鳴っちゃう!)


 真緒は自分のお腹に絶望する。どうしてまた、こんな時になぜという思いでいっぱいだ。


(あっ、鳴っちゃいます!! やめてくださいっ。ダメです、鳴らないでください!! どうしてまた鳴るんですか!? さっき鳴ったばっかりじゃないですかぁーッ!!)


 和多の集落にいた頃は、お腹が鳴って恥ずかしいだなんて思ったことはなかった。むしろ、お腹が主張してくれれば、口を動かして声を発する手間が省けると思っていたくらいだ。なぜなら、和多の侍女たちは真緒のお腹の音を聞くと、美味しい料理をたくさん真緒のもとに運んできてくれたからだ。

 だけど、今はダメだ。もうこれ以上、恥を重ねたくない!

 きゅぅっと胃袋が縮む。むずむずと腸が蠢いて早く食べ物をよこせと催促している。

 真緒は下腹にぐっと力を込めて息を止め、お腹の虫を抑えつけようとした。だが、基本的に天は真緒の味方はしない。



 ぐきゅるるるるるるるぅー。



 すぐ傍らにいる皇子はもちろん、距離を置いて控える従者や侍女、織人の耳にもはっきりと届いた。

 まるで肉食獣の呻り声のように聞こえたが、間違いない、真緒の腹の音だ。


(……もうイヤです。絶滅したい…) 


 真緒は自分が情けなくて堪らなかった。できることなら目の前の池に飛び込んで、泡のように儚くなってしまいたい。だけど、体が普段の百倍くらい重たく感じ、両足は地面にしっかりと根を張ってしまったように、ぴくりとも動かなかった。もはや顔を俯かせ、肉付きのよい体をぷるぷる震わせて小さく縮めるしかない。

 そうして真緒が居たたまれなさに必死に耐えていると、フッと皇子が息を漏らすように笑みを零した。


「真緒姫があまりにも美味しそうに雑炊の話をされるので、お腹が空いてしまいました。あそこの楼閣で食事と致しましょう。もちろんわたしの食事に真緒姫もお付き合いくださいますよね?」

「え……?」


 いったい今、皇子は何と告げただろうか。

 こんな奇跡が起きてしまっても良いのだろうか!

 真緒は弾かれたように顔を上げた。そして、皇子の甘く優しげな眼差しに胸を突かれてしまう。


(あうぅっ!!)


 涼やかな面差しが、じっと真っ直ぐ真緒だけを見つめている。しかも距離が近い!

 長身の皇子は、横幅は人並み以上あるが縦には短くちんちくりんな真緒と目線を合わせるために背を丸めるようにして屈んでくれていた。あと少し、ほんの少し、真緒が踵を上げて背伸びをすれば、皇子と真緒の唇は触れ合ってしまうかもしれない。


(きゃあああああーっ!!)


 先ほどとは違う意味で儚くなってしまいそうである。胸はドキドキとはち切れそうで、まるでぐにゃぐにゃの地面に立たされているかのように足もとが危うい。


(息が、呼吸が、……ああ、もう胸が苦しい!)


 顔を赤らめて沈黙する真緒を訝しく思い、皇子がわずかに首を傾げた。


「真緒姫? 如何されましたか?」

「あっ、いえ。もっ、もちろんです! お食事にしましょう!!」


 必要以上の大きな声を出して真緒は答える。

 ――ああ、なんて! なんて優しい皇子だろうか!!

 感激が深すぎて涙が溢れ出そうだった。


(お腹がペコペコで倒れそうなのは皇子様ではなく私なのに! 私のためにご自身が空腹であるかのようにおっしゃって食事に誘ってくださるなんて、皇子様は本当に本当にお優しい方です!)


 こんなにも優しい皇子の妻になれば、幸せになれるであろうことは確実であり、こんなにも皇子が優しく接してくれるのは、皇子が自分に多少なりとも好意を抱いてくれているからだ。――真緒はそのように理解した。

 パッと花を咲かせたように顔を輝かせ、先程までの落ち込みはいったいなんだったのだというくらいに調子に乗った馴れ馴れしい態度で、真緒は皇子の腕を軽く引く。


「でしたら、私に月恵宮の調理場を貸してください。皇子様に私の料理を食べて頂きたいのです」

「えっ、真緒姫の料理ですか?」

「はい。きっと皇子様のお気に召すはずです。私、自分が美味しいと思ったものを誰かに勧めて、不味いと言われたことがないんです!」



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