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花となりて 君恋うまで  作者: 日向あおい
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二、雉肉よりも花を (1)

「助けてください、伯母上!! この咲穂さくほの一生のお願いです。叶えてくだされば、もう二度と我儘は言いません。なんでも伯母上に従います。ですから、どうかお願いです。私を助けてください!」


 床板に額を擦り付けるように伏した姪を呆れる思いで女は見やった。

 艶やかな鹿皮を何枚も重ね敷き詰めた上座に薄絹の領巾を両肩から流して座る女――秋津あきつは、大王の妃であり、日嗣の皇子の生母であり、そして、豊葦原の都を影で支配する権力者である。

 山々に囲まれた平地に広がった豊葦原の都。椀を伏したような竪穴の住まいが行儀よく並んだ中心に、突き抜けるように高い御館が幾棟も立ち並ぶ王宮がある。

 王宮の御館はそれぞれに庭を持ち、その庭と御館に付属した建物、それらを囲う土塀を含めて御殿と呼んだ。

 王宮の北に大王の妃たちが住まう御殿が並ぶ一画があり、秋津はその中でも一際壮麗な御殿で暮らしている。その暮らしぶりは彼女がまるで王宮の主であるかのように人々に錯覚させるものであった。

 この日、秋津のもとに彼女の姪が駆け込んできた。姪の咲穂は秋津の顔を見るなり平伏し、はらはらと涙を流しながら喚き散らして秋津を閉口させる。


「いったい何事ですか、騒々しい」


 秋津には姪にあたる娘が何人かいるが、その中でも群を抜いて見目麗しい咲穂を幼い頃から手元に置いて可愛がっていた。美しい娘は時に権力者にとって重要な手駒となり得るからだ。

 ところが、秋津を母親代わりに王宮でまるで皇女のように育った咲穂は、秋津が何度も頭を抱えたくなるような我儘だった。何でも自分の意のままにならなくては気が済まず、欲しいものは欲しいと躊躇いもなく口にする娘だ。今度はいったい何を言い出したのやらと、秋津はぐっと喉を鳴らして身構えた。


「伯母上はご存知ないのですか。麗しの花姫が見つかったのです。それは私ではなく、別の娘なのです」

「すでに聞いております。和多族の娘だとか」

「そうです。和多族の真緒姫です!」

「お前でなかったことは、とても残念に思います。ですが、こればかりは仕方がないことですよ。わたくしとて巫覡に選ばれず、皇后の座に着くことができなかったのです。しかし、たとえ皇后になれなくとも大王の寵愛を受ける方法はいくらでもあります。お前も妾と同じ吾田あがた族の娘なのですから。妾が必ずお前を皇子の妃にしてあげます」

「いいえ。いいえ。いけません、伯母上。私は花姫となり、皇子様のただひとりの妻になりたいのです」

「愚かな。いずれ大王となる皇子の愛をひとりで独占できるとでも思っているのですか」

「叶わない願いだとは分かっています。ですからせめて皇后になりたいのです。私は幼い頃から皇子様だけをお慕いしておりました。幼い頃からずっとです。それなのに、ぱっと現れた女に皇子様を奪われるだなんて我慢できません。しかも、その女というのが、よりにもよって和多族の真緒姫なのです!」


 咲穂が放った意味のありそうな刺々しい物言いに、秋津は眉を寄せる。


「真緒姫がどうしたというのです?」

「ご存知ないのですね。和多族の真緒姫と言えば、とんでもない醜女なのです。伯母上、何が悲しくて醜女に皇后の座を奪われなければならないのでしょう! 何が悔しくて皇子様の愛を醜女と分け合わねばならないのでしょう! 私はとても耐えられません!!」

「真緒姫という娘は、そんなにも醜いのですか?」

「はい、そうです。伯母上。――それにご存知ないのですか? 真緒姫を選んだ巫覡は、あの織人なのですよ」

「なんですって!? まさか、あの子が!?」


 秋津は声を高く上げて身を乗り出した。咲穂の口元に笑みが浮かぶ。それまで他人事にしか話を聞いてくれなかった伯母がようやく真剣に耳を傾けてくれたのだ。

 確かな手応えを感じながら咲穂は言葉を続けた。


「つまり真緒姫が皇后になれば、伯母上の大切な皇子様の傍らに立つ巫覡は、あの織人なのです。かつて伯母上が美羽族の皇后を追い落とし、今の権力を手に入れた苦労も、織人が大巫覡となればすべて水の泡となってしまうのです。それに、美羽族は我ら吾田族に恨みを抱いています。我らに報復しようと企むに違いありません」 

「なんということ……。それは、それだけは、けして許されないことです!」

「ええ、そうですとも。伯母上、どうにかしなくてはなりません!」

「そうね、どうしたらいいのでしょう」

「大巫覡候補は織人の他にも何人かいたはずです。伯母上はその中からひとり選んで密かに呼び寄せてください」

「呼び寄せてどうするのです?」

「私を花姫に選ばせます。その者が望むのであれば、絹や玉をいくらでも持たせてやってください。私を選べば、我が一族の後ろ盾を得られるのですから、その巫覡にとってもけして悪い話ではないはずです。その者に選ばれて私も花姫になります!」


 秋津は開いた口が塞がらなかった。いったいこの姪は何を言い出したのだろうか。数十年前、自分が指を咥えて諦めるしかなかった花姫の座を、姪は神をも欺いて得ようとしている。

 なんて不遜な娘だろうか。しかも、この罰当たりな姪は、人の身ではけして犯してはならない神域を踏み荒らそうとしている自分にちらりとも気が付いていない。

 秋津は、ぞっと恐ろしさを感じながら、大輪の花の如く自信に満ち溢れた美しい姪の姿を見つめた。そして、熟慮の末に頷く。


「分かりました。お前の望み通りにしてあげましょう。けしてお前が後悔せぬように――」











 すまなかった、と声を掛けられて織人は頭を深く下げた。都に戻ったその日のことである。


「ゆっくりと旅の疲れを取らせてやりたかったのだが、どうにも織人が選んだ姫君のことが気になってしまって」

「いえ、構いません。むしろ、気にかけて頂き恐縮です」

「それに織人にも早く会いたかったのだ。わたしのために三年にも及ぶ長旅をさせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」

「いえ、そのように思って頂く必要はございません。皇子のお役に立つことができたのなら、それはとても光栄なことですから」


 淡々とした口調で言えば、皇子は瞳を細めて、からからと笑った。


「相変わらず織人はひどい。心にもないことを平然とした顔で言う。それに三年も経って忘れてしまったのか。ふたりだけの時は名で呼ぶ合う約束のはずだ」

「……申し訳ございません、矢凪やなぎ様」


 皇子の名を口にすれば、彼は満足そうに口角を上げて微笑み、ふっと織人から視線を逸らした。ゆっくりと歩きながら前方の景色を見やる。


「織人、皇后様にご挨拶は済んだのか?」

「いえ、まずは大王と矢凪様にご挨拶をと」

「では、あとで皇后様のもとにも行くが良い」


 是と答えつつも、それは控えようと織人は思った。秋津妃の目が恐ろしかったからだ。彼女はきっと織人が皇后に近付くことを良しとしないだろう。こうして王宮を歩き回っていることさえ疎ましく思っているはずだ。

 秋津妃が織人を嫌う理由は明確で、織人も十分に理解できることであった。

 だから、織人には彼女に好かれたいとか、彼女に嫌われないように振る舞いたいとか、そのようなことを考える余地さえない。織人に残された道は、彼女と同じように織人も彼女を嫌うことだった。

 だが、彼女と彼女の息子は別ものである。秋津妃のことはどうあっても好きにはなれないが、彼女が産んだ日嗣の皇子――矢凪のことは嫌いではなかった。

 見目麗しく、賢い。慈悲深く、強い。矢凪は絵に描いたような完璧な皇子であった。

 とはいえ、好きかと問われれば、そうとも言えず、矢凪の方はあれやこれやと織人を気遣ってくれるが、それを煩わしいと思う気持ちが少なからず織人にはある。

 その気持ちを表に晒したつもりはなかったが、賢い矢凪は幼い頃から織人の想いに気が付いていて、それでも尚、織人に構おうとするのだから、慈悲深いを通り越して酔狂だと織人には思えた。

 それにしても、と前方の景色を見つめたまま矢凪が眉を顰める。

 白石が敷き詰められた庭を抜けると、四角く整えられた生垣に囲まれた『梔子の庭』に出た。大王が白くて愛らしい花とその香りを好んで、梔子で庭を満たしたためそのように呼ばれる。


「花姫への贈り物は本当に雉で良かったのだろうか。絹や玉の方が良かったのではないか? せめて花の方が、姫の心が慰められるのではないだろうか」

「いいえ、雉の方が喜ばれます」


 ――それはもう、口に入るものなら何でも。


 織人は王宮の北東端に建てられた桃華殿に矢凪を案内しながら、そこで都料理に舌鼓を打っているであろう真緒のことを思い浮かべた。


(旅をすれば、その心労で少しは痩せるかと思ったけど、ぜんぜんだったな!)


 正直、あのままの状態で真緒を矢凪の御前に差し出すことは躊躇われる。はっきり言って、織人から矢凪への嫌がらせだと思われても仕方がない次元である。

 僅かでもいい、どうにか取り繕えないものかと、真緒が桃華殿に入った今朝からずっと桃華殿の侍女たちと共に頭を悩ませているのだが、誰も何も妙案を思い付くことができなかった。


「矢凪様、期待は一切しないでください。俺が連れてきた姫君は、その……」

「ああ、分かっている。噂好きな侍女たちからいろいろと聞いているからな」

「そのいろいろが俺の知っている真実の程度と同じなら問題ありませんが」

「織人、大丈夫だ。何も心配しなくていい。織人が懸命に勤めを果たそうとしてくれたことは、わたしが一番よく知っている。それに織人の体を通して神が選んだ姫君だ。その姫君をわたしが厭うはずがないだろう」


 矢凪は淡く微笑んで桃華殿の入口を護る衛士たちの間を抜けると、立派な桃の木が植えられた前庭を通り、御館の階を上った。

 皇子の訪れを告げる侍女の声が静かに響き、矢凪と織人は部屋の中に通される。手前の部屋に控えた侍女が、手前と奥の部屋を仕切る御簾をゆるゆると上げた。



「……っ!!」



 織人は思わず息を呑む。ある程度の覚悟はしていたつもりだったが、それは覚悟を越えた凄まじさだった。



 ――ガマガエルが潰れている!!



 部屋の入口に向かって深く頭を下げた真緒の体は、ますます横に広がって見え、押し潰されたカエルのようだ。身に纏った大袖衣が暗い印象の濃い茶色であるせいで、余計にそのように見えた。

 百歩譲って、肉付きの良すぎる体型は今さらどうすることもできなかったとしても、大袖衣の下から覗いた裳の汚れたような鈍い黄色はどうにかならなかったのだろうか。

 せめて両肩から垂らされた灰汁色の領巾のあちらこちらに深く刻まれた皺はどうにかすべきだろう。


(だから、その色合わせはなんなんだよ! 領巾が皺だらけのヨレヨレじゃないかよっ!! 髪くらい梳けよ、みっともない!)


 美しさの対局を独占するが如くの有様で平伏した真緒に、さすがの矢凪も踵を返したくなったのではなかろうか。織人はそっと矢凪の横顔を盗み見る。

 だが、矢凪は本当によくできた皇子だった。にっこりと完璧な微笑を浮かべる。


「貴女が真緒姫ですか。遠方よりよくお越しくださいました。面を上げてください」

「は、はいっ!!」


 真緒の声が裏返った。当然だ。どんなに図太い女だって、豊葦原の皇子の前では緊張する。その強大な権力の前に、その神々にも匹敵する尊さの前に、声を震わせない女などいないのである。

 まるで自分のことのように意気揚揚として織人は、床に這いつくばり、体を震わせながら、ゆっくりと顔を上げようとしている真緒を見下ろした。

 ――だが、その時。

 織人の瞳に信じがたい光景が映る。

 いや、信じがたいと言うよりも、なんとも珍妙な瞬間を目撃してしまった。


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