一、そんなの面倒臭い (2)
さて、和多の集落。
ここには、世にも有名な姫君がいた。和多族長の娘、真緒姫のことである。
和多族の真緒姫と言えば、その名を聞くだけで誰もが失笑を漏らすほどの肥満だった。嘘か誠か、ある時、彼女が地面に尻餅をつくと、その部分が彼女の尻の形にへこんだ。そして、翌日に降った雨がそのへこみに溜まり、彼女の尻の形の池ができたという。そんな眉唾ものの話まである。
しかし、彼女は自分に関する風評の有無さえ知らずに、幸せな日々を送っていた。
真緒に憂いなど無い。
和多の地は田舎だとはいえ豊かな土地だ。海が近く、一年中、海からの恵みを受けることができた。また、海を渡って大陸からやって来た者たちが目新しいものを和多の地に運んでくる。彼女が大好きな甘い菓子も海を渡って来たものだった。
そのような土地で両親から溺愛されて育った彼女は、彼女自身のおおらかな性格も相まって、悩む、苦しむ、堪える、といったこととは無縁に生きてきた。
そして、彼女のおおらかな性格と両親からの愛は彼女を堕落させ、和多族であれば誰もが承知している肥満体型に彼女を育て上げてしまう。すなわち、織人が初めて彼女と出会った時、彼女はまさに完成体として織人の前に立ち塞がったのだ。
「――麗しの花姫って、何ですかぁ?」
鼻から息が抜けているような間延びした話し方をして、真緒は難儀そうに腰を浮かせ、先ほど転がしてしまった菓子に手を伸ばす。尋ねたくせにさほど興味の無さそうな態度だ。う〜ん、う〜んと呻きながら二の腕の脂肪をぷるぷる震わせ、ようやく菓子を拾い上げると、床にどっしりと腰を下ろして拾い上げた菓子を確認する。
ドングリの粉にクルミとハチミツを練り合わせ、しっとりと焼き上げた菓子は菊の花を模した形をしていたが、床に落ちた衝撃でいびつになっていた。
だが、泥がついたわけでもないし、味が変わってしまったわけでもない。十分に食べられると判断したのだろう。真緒は、ぱくぅっと大口を開けて菓子に齧り付いた。
「はぁ!? なんで? なんで今それ食べた!? 床に落ちたものだろ?」
「えっ、はい、落ちましたね。落ちましたけど?」
「落ちたものなんか食べるな。お前、姫なんだろう!?」
「えー、なぜ姫だとダメなんですかぁ? 私には食べられるものを食べない道理なんてないんですけど。――あのう、それで、貴方いったい何者なんですか?」
ごくりと菓子を呑み込むと、真緒は肉厚な瞼を薄く開いて織人を見る。未だ織人は目の前に立ち塞がった真実を受け入れがたい気持ちに苛まれながらも、問われたことに渋々答えた。
「俺は織人。都から麗しの花姫を捜しにやって来た巫覡だ」
「都からですかぁ。それはそれは遠く和多の地まで大変でしたね。お勤め、ご苦労様でーす」
でぇーす、という言葉に合わせて上体を曲げ、お辞儀をするのかと見せかけて新たな菓子を器から摘み上げる真緒。ぱかぁっと大口を開けて、その菓子を頬張った。
「菓子を食べるな。これは菓子を食べながら聞くような話ではない。お前と俺のこれからの人生を大きく左右する話だ。だから、つまり……」
「あのう、よく分からないんですけど大変そうですね。仕方がないので、柿の搾り汁を差し上げます」
「いやいや、何が仕方がないのか分からないし、いらないし。まだ何も話してもいないし。だいたい何だよ、その液体。めちゃくちゃ甘そうなんだけど?」
「えー、どうして分かったんですかぁ? とても甘くて美味しいんです」
真緒が織人に差し出した器には、どろっとした茶色い液体が入っている。顔を近づけただけで、強烈に甘いと分かる匂いだ。
「なぁ、柿ってさ、搾る必要ないよな? しかも、秋の果物だよな? なんで春に液状になって存在しているんだ? いや、百歩譲って季節は無視してやろう。だけど、どう考えても柿はそのまんま食べた方が絶対に美味しいって。秋の冷たい川水でガンガンに冷やしたものをガブリと齧り付くと、ジュワッと冷たくて甘い汁が溢れ出てきて最高だ」
「それはそうなんですけど……。でも、固くて顎が痛くなりませんか? だから、搾り汁にして水飴を混ぜ合わせてみたんです。保存も効きますし、すごく美味しくなりましたよ」
「なっ、水飴が入っているのか。だから、どろっどろなんだな。絶対にいらない!」
「えー、とても美味しいのに。これを飲まないなんて人生の半分は損していると思います」
してるかよっ、と織人は心の中で突っ込む。そして、もし仮に真緒の言う通り人生の半分を損していたとしても、残りの半分がゲロ甘い柿の搾り汁であれば、織人は喜んで損する道を選ぶだろう。
「――ともかく。お前、俺と一緒に都に来い」
「えー、なぜですかぁ?」
織人が返却した柿の搾り汁を、ずずっと啜りながら真緒は首を傾げた。
「花姫は大王の后になる定めだからだ」
「へぇ、そうなんですね。でも、それでなぜ私が遠い都に行かなければならないんですか?」
「鈍い女だな。お前がその花姫だからだ!!」
どんっ、と拳を床板に叩きつけて、どうだと言わんばかりに織人は声を張る。
この時、華やかな都で生まれ育った織人は信じて疑っていなかった。田舎者は皆、都に憧れを抱いているものであると。そして、この世に女として生まれ落ちたのならば、皆、大王の后になる夢を抱くものだということを。
ところが、不幸なことに、織人が対峙した姫君は体格もさることながら、物の考え方も規格外の姫だった。真緒はあっさりと頭を左右に振って言う。
「無理なので、お断わりします」
「は? なんで!?」
「だって、面倒臭いです」
「面倒臭い!? はああああ~?」
信じられないと大声を上げた織人に、真緒は空になった木彫りの器を手のひらで弄びながら唇を尖らせて言った。
「だって、都って、遠いじゃないですかぁ。遠い都まで歩かなきゃいけないことを考えると、なんだか面倒臭いなぁ、って。それに私、膝が悪いんです」
「は? 膝?」
「はい、膝が痛いという病なんです。だから、この御館から外に出るのもひと苦労で、とても都まで歩けません。無理です」
織人は、じとりと真緒の巨体を見回した。
(膝が悪いだと? 病だと? はっ、莫迦を言うな。膝が痛いのは、その多すぎる体重のせいで膝に負担がかかるからだろう)
喉元まで出かかった反論を、どうにか織人は呑み込んだ。
「わかった。輿に乗せてやる。都まで輿に乗って行けばいいだろ」
その輿の担ぎ手となるであろう者たちに向かって、心の中で猛烈に謝罪をしながら織人が提案すれば、真緒は難儀そうに首を横に振った。
「問題はそれだけじゃないです。私、知っているんですよ。大王の宮殿はとても恐ろしいところなんだって。大王の寵愛をめぐって多くの女性たちが、陰湿で、陰険な争いを繰り広げているんですよね? そんな危険な場所にはいけません。そもそも、昔も今も男性が女性のもとに通うものなのに、なぜ豊葦原の大王だけは自分のもとに大勢の女性を囲うんですか? そんなことをするから女性たちがひとりの男性の寵愛を争って自分を飾り立てたり、芸事に励んだり、媚を売ったりしなければならないんです。そんなこと私はごめんです。だって、とっても面倒臭いじゃないですかぁ」
「また面倒臭いかよ」
「それに、あれですよ。王宮の礼儀作法とか、しきたりとか、都の風習とか、いろいろあるんですよね? 日嗣の皇子様と結婚してしまったら、いろんな人の目があって絶対に自由には動けませんし、どんなにお行儀よくしていても、ああだこうだ言われるに決まってます」
真緒は再び器から菓子を摘み上げて口の中に放り込む。
「そう考えると、せっかくのお話ですけど、あんまり魅力的に思えなくて。それよりも今の暮らしの方が大事なんです。私、今とても幸せで、なんの不満もありませんし、不都合もありません。なのに、どうして自ら進んで苦労する道を選ばなければならないんですか? 都なんてところは、親や兄弟、馴染んだ者たちのいる平穏な故郷を捨ててまで行くところではないと思います」
織人は額を抑えて床の一点を見つめた。甘い匂いに浸食された脳内が織人に反旗を翻したかのように、ずきずきと痛む。
(なんなのだ、この女は……)
もし彼女が麗しの花姫でなければ、とっくに織人は腰を上げ、彼女に背を向けていたことだろう。
――ああ、そうかい。お呼びじゃないというわけだな。勝手にしろよ! 誰が好き好んで、お前みたいな醜く太った女を妻に迎えたいものか。
だが、非常に残念なことに、彼女は麗しの花姫だ。物心がつく以前から神殿で暮らし、巫覡としての修行を積んできた織人の、自分ではどうすることのできない、もはや本能と言ってしかるべき神がかり的な力が彼女を麗しの花姫だと告げていた。もはや他の女性を選ぶことなど織人にはできない。
(こいつをどうにかして都に連れ帰らなきゃならないぞ)
そうしなければ、織人は大巫覡になることができない。
(殴ろう。そうだ、殴って気絶させて輿に乗せてしまえばいい。とにかく都まで運んでしまえば後はどうにでもなるだろう)
織人は視線を巡らせた。このぶくぶくと太った女を殴り倒すのにちょうど良い物はないかと探す。下手なものでは彼女の分厚い肉が衝撃を吸収してしまうかもしれない。あの肉厚を突破できる鈍器を見つけなければならなかった。
散らかった衣装。
性別不明の土人形。
花輪らしきものの干乾びた残骸。
(ダメだ。違う)
ヒビの入った銅鏡。
歯の欠けた櫛。
粉々に砕けているゴホウラ貝の腕輪。
(これも違う)
ふと、青銅でつくられた高坏が目に付いた。その周りには無数の食べかすが散っている。おそらく、この高坏にも菓子が山のように盛られていたのだろう。
(なんて食い意地の張った女なんだろう。――って、これだ!)
織人の瞳がギラリと輝いた。即座に腕を伸ばして高坏を拾い上げると、真緒に振り返る。そして、その高坏を真緒に向かって大きく振り下ろす――のかと思いきや、織人は真緒の目の前に高坏を、ぐいっと突き付けた。
「これを、お前がまだ食ったことのないような最高に美味い食べ物で、てんこ盛りにしてやる! 都には美味い物がたくさんある。めちゃくちゃ美味いが溢れている!」
『美味い』を強調して言えば、ぐぐっと真緒の喉が鳴る。食べかすのついた太い指を握り締めて織人に向かって上体を傾けた。撒いた餌に食い付いた様子が見て取れる。
だが、まだ敵は慎重だった。憎たらしいほどの疑り深い眼差しで織人を見上げる。
「例えば、どのようなものがあるんですか?」
「例えば? ……ええっと、そうだなぁ。若鹿の肉を酒で煮込むんだ。とろっとろに柔らかくなったところに香りの良い野草や茸を加えてさらに煮込むと、肉から出た脂が汁の表面にたくさん浮いて、その香りと茸の濃厚な香りが混ざり合う。これがまた米との相性が良くて、熱々に蒸した米の上に汁をかけて食べると、腹がパンパンに膨れるまで食べられるんだ」
織人は身振り手振りで思いつく限りの料理を語った。
「兎の肉を薄く布のように広げて、その中に木苺や山葡萄、柘榴……とにかく木の実をたくさん乗っけて肉を巻く。そして、肉の表面に水飴を塗ってから焼くんだ」
「美味しそう……」
「そう思うだろ? じつは、ものすごく美味しいんだ! 肉を噛むと、表面に塗った水飴がパリパリ音を立てて、肉の中からは木の実の優しい酸味や甘味がジュワリと溢れ出て来る。その汁が口の中に収まり切らないから、もうさ、子供も大人もそれを食べながら、ダラダラ、ダラダラ、口の端から汁を滴らせるんだ」
「もったいないです!」
「そう! もったいない!! 滴った汁さえもったいないと思うほどに美味いんだよ!」
「すごいです!! 食べたいです。どうすれば食べられますか? 父様にお願いして、都から運んで貰ったら食べられますよね?」
はっ、と織人は鼻で嗤う。都の料理を和多の集落に運び込まれてたまるものか。それらは、この姫を都に呼び寄せるための餌なのだから。
織人は、ばちんっ、と手のひらで床を打つと、真緒の気を引いた。
「都の食べ物は都でしか食べられない。なぜなら、都の食べ物だからだ。食べたければ、都に来い!」
「都に……?」
「食べたいだろ?」
「食べたい……です…」
けれど、と続きそうな真緒を、ぎろりと睨む。言わせてなるものか。
「二度は言わない。都に来い。お前を都に連れて行ってやろうっていう物好きは俺くらいだ。俺を逃したら、お前は都のバカみたいに美味しい料理を食えずに死ぬことになるぞ。いいのか、それで!」
「……っ」
「ああ、もったいない。あれを食べずに死ぬだなんて人生の半分以上を損している」
「えっ、人生の半分……以上ですかぁ!? ……わっ、分かりました。行きます。都に行きます!」
しめた、と織人は頬を綻ばせた。都にさえ連れて行ければこちらのものだ。万が一、真緒が都に馴染めず、故郷に帰りたいとごねり始めたとしても、都から故郷に戻る道中を考えれば、面倒臭いと言って断念するに決まっている。
織人には確信があった。真緒を都にさえ連れて行けば、真緒は花姫として迎えられ、日嗣の皇子と婚礼を上げることになると。
そして、織人の前には大巫覡への道が開けるのだ。




