一、そんなの面倒臭い (1)
(見つけた! 間違いない!!)
長く厳しかった冬の終わりを告げる柔らかな日差しを受けてようやく芽吹いた青草を蹴散らし、竪穴の住まいが立ち並ぶ集落の中を一人の少年が駆け出した。
筒袖の上衣を激しく翻し、足結が解けるのも厭わずに人の往来を縫っていく様は、まるで野を駆ける鹿のようだ。じゃらじゃらと、勾玉や管玉を連ねた首飾りが喧しく音を立てて、少年と擦れ違う者たちを振り返させる。
「織人様、お待ちください! 織人様!!」
油断していた少年の従者は、あっという間に彼を見失った。悲鳴にも似た声が少年――織人を追いかけてくる。しかし、それももう彼の耳には届かない。
湿り気を帯びた黒い土が跳ね上がり、織人の上質な絹の袴を汚す。みずらを結っていた錦紐も解けて、どこかで落ちた。髪はバサバサ。だが、構うものか。
(ああ、間違いない!! どんどん強くなる!)
不意に道が二手に別れた。足を止めることなく南に向かう道を選ぶ。
(こっちだ。こっちにいる)
織人は感じていた。彼の中にある何かが、抗うことの許されぬ強大な力によって引き寄せられているということを。しかも、その感覚は足を前に進めれば進めるほど強く強くなっていくのだ。
(この先におられる。待ち望んだ、あの方が!)
期待に気持ちが逸る。疾うに呼吸は乱れ、言葉は声にならない。それでも、早く、早くという想いは織人の胸を破裂させんばかりに膨らんでいく。足をもつれさせながら、織人は全力で走り続けた。
やがて大きな御館が織人の前に立ち塞がった。この集落を治める一族が住まうものとして相応しい、木組みの壁の立派な御館だ。高く床を上げて建てられている。
(ここか)
ごくりと喉が鳴る。織人は入口に続く階を見上げ、すぐさま駆け上ろうとした。
ところが、その時。ガチャリと金属の擦れ合う音が響き、織人は足止めを食らう。
「おい待て。何者だ」
「ここは真緒姫の居館だぞ」
階の両側に立った二人の兵士が突如として現れた少年に慌てふためきながら、それぞれが手にした矛を交差させた。不審感を露わにした視線が織人を舐めまわすように上下する。
(くそっ!)
織人は肩で大きく呼吸を繰り返しながら、兵士たちをまるで親の敵に向けるような目で睨み返す。
「退け!」
織人の怒鳴り声に兵士たちは同時に眉をひそめた。なんだ、この少年は。――そう顔に書かれている。織人は面倒臭そうに舌打ちをした。
「俺は姫君に用があるんだ! そこを退け!!」
再び織人が声を荒げると、騒ぎを聞きつけた他の兵士たちが矛を手に、わらわらと駆け付けて来る。すぐさま織人を取り囲み、ギラリと輝く矛先を一斉に織人に突き付けた。
織人は抑えきれない苛立ちを感じて地団太を踏んだ。これだから都から遠く離れた集落は嫌だ。都人であれば、織人の額の印を見ればすぐに彼の身分を察することができただろうに。
織人の額の中心には、人差し指の腹で強く押してできた痣のような楕円形の印がついていた。紅桃の花びらのようにも見える。
「織人様、お待ちください! 織人様!!」
織人の背後から聞き慣れた声が響いた。やっと織人の従者が主に追い付いたらしい。彼は主が置かれている状況を瞬時に把握すると、金属を擦り合わせたような鋭い悲鳴を上げた。
「無礼者! お前たちはいったい何をしているのだ!!」
ばたばたと両腕を振り回し、黒土を跳ね上げながら織人に駆け寄ると、従者は両腕を広げて織人を背中で庇う。
「控えろ! このお方は巫覡様だ!!」
「巫覡様……?」
織人を取り囲んでいた兵士たちは皆そろって首を傾げた。まさか、と言わんばかりの無数の視線が織人の全身に注がれる。
織人が都人であることは、この集落に住まう者たちとは顔立ちが異なっていることから分かる。すっと刃物で切ったかのような切れ長の瞳に、鼻筋の通った細い顔。目を引くような美形ではないが、涼しげで好感が持てる雰囲気を纏っている。
年頃は十七。青年というには未だ体の線が細いが、とはいえ、少年と呼べる日々も残りわずかだろう。
兵士たちは未だ織人を捕らえようとしていた格好のまま、しばし身動きが取れないでいた。本当に織人が豊葦原の都にいると聞く巫覡なのか、彼らには判断でき兼ねていたのだ。
いらいらと従者の怒鳴り声が響く。
「何をしているんだ! 頭が高い!!」
従者は兵士たちに背を向け織人に向き直ると、動けないでいる兵士たちに手本を見せるが如く、真っ先に平伏した。そうしてようやく、はっと我に返った兵士たちも次々と地面に這い蹲った。
織人は、額を地面に擦りつける彼らを見下ろして肩から力を抜く。
(……ようやく彼女に会える)
時間を無駄にされたという苛立ちはひとまず押し殺し、ようやく会えるという喜びを胸に抱いて織人は跪く兵士たちの間をすり抜け、階に足を掛けた。
駆けるように階を上れば、隙間なく木板をはめ込んだ壁と両開きの木戸が姿を見せる。そこで織人はひと息つく。じっとりと浮いた汗を握り締めるように結んでいた右手を開くと、思い切って勢い良く戸を開け放った。
「――っ!!」
部屋の奥で息を呑む音が聞こえた。
最初に目についたその人物に、織人の眉が寄せられる。と同時に、丸みを帯びた茶色の物体が汁気の多い果物のような鈍い音を立てて落ち、コロコロと織人の足元に転がって来た。思わずそれを目で追う。一度だけ食べたことがある菓子だ。花のような形をした重量感のある菓子で、口の中の水分を全て吸い取られるほど甘い。見ただけで織人はその時の喉の渇きを思い出した。
再び部屋の奥に視線を戻す。
雛のようにあんぐりとあけられた口。
口の手前で、宙を摘まむように持ち上げられた指。
赤ん坊のように、むっちりとした腕。先ほど織人の足元に転がってきた菓子を大口開けて丸呑みしようとしていたとしか考えられない格好のまま固まっている。
(『これ』じゃないな)
一瞬の判断で、織人の視線が『姫』を探し始める。
だがどうしたことか、どこをどう見回しても、それらしき女人がいない。いや、それどころか、他に人がいないのだ。
思わず織人は首を傾げた。再び『それ』と目が合う。『それ』は、先ほどから指一つ動かすことなく頬肉と分厚い瞼に埋もれた細い瞳で――あまり分からないがたぶん見開いているのだろう――呆然と織人を見上げている。
まさか、と思いながら、『それ』をもう一度よく観察しようと部屋の中に、つかつかと押し入った。
すぐに甘ったるい香りが織人の鼻に重く薫ってきた。桃だろうか、梅だろうか。いや、そんな風流な香りではない。とにかく甘く、複雑に混ざり合った匂いだ。
部屋の床は、雑然としていた。脱いだままになった衣装や、玩具とも見えるが、明らかに不要物だろうと思われる物が散らかっている。ただでさえ、それらのせいで床が見えないというのに、物と物のわずかな隙間を埋めるかの如く、菓子を入れる青銅の器が置かれていた。いや、置かれているというよりもこれも散在していると言ったほうが正しい。ごろごろと転がっていた。
唯一、床に正しく立ち、渡来の練り菓子が山盛りになっている大きな器があり、その前に鎮座した『それ』――少女に、織人は目を凝らした。
まず服装がおかしい。とても姫とは思えない装いだ。地味と言うか、もっと年配の女人が身に着けるような色合いの上衣を着ている。
髪型も変だ。いや、『変』というか、すさまじい。ただ無造作に長く伸ばされただけの黒髪は、まるで婢女のように乱れている。
だが、彼女が婢女ではないことは、彼女を見ればすぐに分かる。身に纏っている衣が地味なわりに上質だとか、彼女の回りに散らばった菓子が高級菓子だからだとか、そんな理由ではない。彼女ほど丸々と肥えた婢女など、存在するはずがないからだ。
肥えるには、財がいる。
財があるなら婢女などにはならない。
ふくよか、なんて遠慮した表現は敢えて使わないでおこう。
太い!
太すぎる!!
座高より腹囲の方があるのではなかろうか!!
やっと我に返ったのだろう。少女は裳の裾を整えながら体裁を整える。豪族の姫がそうするように領巾で口元を覆い隠しながら突然現れた織人の方に向き直った。
「何者ですか?」
――肉だんごがしゃべった!!
織人はそう思ってしまった。
「冗談だろう……」
力なく呟いた織人に少女が小首を傾げた。ただし、どこが首なのかは織人には判別できない。だんだん頭痛を覚えてくる。
(ありえない。これはありえない。でも、状況証拠はそろっている。――いや、待て。もしかしたら何かの間違いかもしれない。今日はうっかり姫君と婢女が入れ替わっているとか)
一応確認しておこう。そんな諦めにも近い気持ちで、なんとか口を開いた。
「ここは……、この地を治める和多族の姫君の居館ではないのか?」
やっぱりどう考えてもありえない。悪い夢を見ているとしか思えない。なぜなら、この、肉だんごを二つ重ねたみたいな娘が『麗しの花姫』であるはずがないからだ。
織人が死刑宣告を受けるような気持ちで少女を見つめる中、少女の頭がゆっくりと動く。顎を三重にも四重にもしながら、ゆっくりと頷いたのだ。
「はい、私が和多族の姫、真緒です」
――麗しの花姫。
その存在を初めて聞かされた時のことを織人は、はっきりと覚えている。神殿の最奥の部屋に呼ばれたのは、織人と幾人かの優秀な巫覡のみだった。
豊葦原において巫覡とは、主に巫男のことを指し、女人であれば巫女と呼ばれるのが常だ。巫男も巫女も神に仕え、神の意を人々に伝えることが役割であるが、豊葦原の巫覡は王宮並みの神殿で暮らし、しばしば大王の政治に口を出すことで知られていた。
豊葦原の北に建てられた神殿には、そこで暮らす巫覡たちしかその存在を知らぬ、いわゆる隠し部屋がある。最奥の部屋と呼ばれるその部屋は、四方を岩壁に囲まれ、昼間でも薄暗く、息苦しく思うほどに狭かった。
その日、最奥の部屋に集められた巫覡たちは、彼らの長である大巫覡の指示で、お互いの肩をぶつけ合いながら剥き出しの冷たい地面の上に敷かれた筵に腰を下ろした。
「お前たちに聞かせておくべき話がある」
橙色の小さな炎が灯った灯明皿を地べたに置くと、大巫覡は一番手前に座った織人と膝がぶつからない程度の距離を取って座る。
「お前たちはそれぞれ未熟な点を抱えているが、認めるべき優れた点も多く持っている。故に、わたしの跡を継いで大巫覡になるのは、ここに集ったお前たちの中の誰かだろう」
織人が息を呑むと、他の者たちも皆同じように息を呑んだ。
「わたしとしては、お前たちの誰であっても大巫覡の座に相応しいと思っている。だが、それを選ぶのはわたしではない」
「――では、どなたが決めてくださるのですか? 大王ですか?」
「いや、大王にも定められぬことだ」
「大王ではないのでしたら、いったいどなたが……」
織人も皆も、この地上において大王以上に尊い存在を知らなかった。皆で顔を見合わせると、大巫覡はすっかり白くなってしまった顎鬚を左手で扱きながら、優秀だが未だ年若い巫覡たちに鋭い視線を向ける。
「巫覡は皆、神の僕だ」
「では、神が大巫覡を選ぶと仰せなのですか?」
「いったい、どのように……?」
「お前たちが大巫覡になるために神から与えられる使命がある。麗しの花姫を捜し出すのだ」
「麗しの花姫?」
「それはいったい何者ですか?」
身を乗り出すと、こつりと膝が大巫覡の膝に当たって、織人は慌てて体を小さく縮めた。大巫覡は織人に向かって瞳を細めると、諭すような口調で語る。
「麗しの花姫とは、この豊葦原を古くから守護する神によって選ばれた娘のことだ。豊葦原を治める大王は必ず麗しの花姫を后に迎えなければならない」
「必ずですか?」
「これは神と大王との間に結ばれた契約なのだ。契約を破れば、たちまち大王は神の守護を失い、豊葦原の大地は枯れ果て、何の実りももたらさない死せる土地となってしまうだろう。故に、次代の大巫覡は、次代の大王のために麗しの花姫を捜し、見つけ出さねばならないのだ」
次代の大王。
――日嗣の皇子と聞いて、織人の脳裏にひとりの少年の顔が浮かんだ。もし自分が大巫覡になったら、あの皇子の影となって彼を支えることになるのだ。
「それで、どのようにして麗しの花姫を捜せば良いのですか?」
集められた巫覡たちの中で最年長の青年が、サルのように毛深くて酔ってもいないのに赤らんだ顔をぬっと突き出し、大巫覡に尋ねる。
「手段は問わない。お前たちの思うように捜せばいい」
「ですが、どの娘が麗しの花姫なのか分かりません」
「それが不思議と分かるのだ。いや、大巫覡となるべく力の持ち主であれば、ひと目で花姫を見つけ出すことができるだろう」
「ひと目で、ですか」
「あるいは、甘い花の香りに蜜蜂が引き寄せられるが如く、お前たちは神の意志によって花姫のもとに導かれるだろう」
サル顔の青年は片眉を歪めた。大巫覡の話が腑に落ちなかったからだ。結局、自分たちはどうすれば良いと言うのだろうか。
もぞもぞと、織人の隣に座った少年が身動ぎながら言う。
「きっと麗しの花姫は、お美しい方に違いありません。だって、今の皇后様も大変お美しい方ですから。皇后様もかつて麗しの花姫として大巫覡様に選ばれた方なのでしょう?」
「さよう。今の大王が日嗣の皇子だった頃のことだ。わたしも花姫を選んで、大巫覡となったのだ」
大巫覡が昔を懐かしむように言い、少年や他の巫覡たちも口々に皇后の面差しについて語り始めたので織人はそれを遮るように、承知しました、と言って深く頭を下げた。皆、はっと我に返り、慌てて織人に倣う。
「とにかく、麗しの花姫を見つけ出した者が次の大巫覡になるってことですよね? すぐにでも発ちます」
「そうだな、そうするが良い。彼女が都にいるとは限らぬからな。わたしも皇后様を見つけ出すのに二年の歳月を費やしてしまった。日嗣の皇子を長くお待たせしてはならん」
はい、と皆で短く答えて再度深く頭を下げると、織人を含む大巫覡候補たちは最奥の部屋を辞した。
こうして麗しの花姫捜しが始まり、大巫覡候補たちは各地に散った。