終章
ただ夢にて相見し人を 覚めては寒月の影に物ぞ思ふ
花となりて君恋うまで 実を結びて茜さすまで
その新しい年は、花姫の歌声によって花咲いた。
王宮から煌びやかな行列が出発したのはまだ陽も登らぬうちのことだ。何十人もの兵士と何十人もの侍女。そして、いつまでも続く衣装箱や宝玉箱を担いだ奴僕たち。中でも一段と絢爛に飾られた輿が屈強な四人の男たちに担がれ、王宮を出て笠沙の地までの道のりを進み始めると、豊葦原の民は我先にと輿の周りに集まった。
退け、退け、道を開けよ、と輿の先を行く兵士が大声を上げる。だが、民たちは誰ひとりとしてその声に怯まなかった。どうにか輿の主をひとめ見ようと、背伸びをし、飛び跳ね、前の者を押しやり、または、前の者の背によじ登って輿の中を覗き込む。
襤褸を腰に巻き付け、みずらを乱した男が誰ともなく周囲の者たちに声を張った。
「見えたか。オレはちらりとだけ見えたぞ!」
「オレも見えた。聞いた話とは違う。どんなに醜く太った姫君かと思っていたが、さほど太ってもいないし、そこそこ美しい姫君ではないか」
「そうだな。並外れた美姫ではないが、あれくらい姫君の方が親しみを持てるというものだ」
「賢い姫君なんだそうだ。そうは見えないが、大陸の薬学書を好んで読まれるらしい」
「本当か、それはいい。きっと大王をお支えできる善き皇后になってくださるに違いない」
口々に言い合い、笑顔を見合わせる民たちの間を抜けて、やがて行列は笠沙の地に新しく建てられた宮殿の内に入った。
輿が地面に降ろされると、真緒は高良の手を借りて輿から足を地面に下ろした。高良は高位巫覡の衣装を身に纏い、片手に胡桃ほどの大きさの七色に輝く種を大事そうに握っている。
視線を上げると、正面に正殿が見える。いずれこの正殿が王殿と呼ばれるようになり、豊葦原の政治の中心となるのだ。
正殿の木戸が大きく開き、青年が階を下りてくる。真新しい白絹の筒袖の上衣を纏い、首には勾玉や管玉を連ねた首飾りを、腰には細やかな金装飾の施された剣を帯びている。錦の紐で括られた下げみずらは労役を課せられない高貴な者の象徴。その如何にも豊葦原の皇子だと言いたげな織人の姿に真緒は思いっきり顔を顰めた。
「なんだ、文句でもあるのか?」
歩み寄ってきて織人が高良から真緒の手を受け取る。真緒は織人の手がわずかに触れると、ぱっとその手から逃げるように腰に両手を添えた。
「文句あります」
「何?」
「貴方、私のことを振ったんですよ。覚えていないなんて言わせません」
頬を膨らませながらそっぽを向いて言えば、すっかり大人の男の顔つきになった織人が嫌そうに眉を歪めた。
「あの時は、……仕方がなかった」
「なら、今言ってください。私のことをどう思っているんですか? 私が花姫だから仕方がなく妻に迎えるんですか?」
「違う。そんなつもりはない。俺はちゃんとお前のことを……」
ふと織人の視線が真緒を通り越して高良に向く。高良は胸の前で両腕を組んで、ニマニマと笑みを浮かべていた。兵士や侍女たちは見て見ぬ振りをしてくれているが、その好奇心旺盛な耳は明らかに織人の言動を窺っている。
織人は真緒の腕をぐっと掴むと、引っ張るようにして階を上がった。そして、二人の他に誰もいない正殿の部屋の中に真緒を押し込み、後ろ手に木戸を閉じた。
木戸が音を立てて閉じたとたん、捕まれた手を振り払って真緒は織人を睨む。
「ちゃんと、何ですか? 今ここで言わなければ、貴方はこれまでの人生とこれからの人生すべてを後悔することになりますよ。いいんですか?」
「……嫌すぎる」
「ですよねっ!」
さも当然だと言わんばかりに真緒が大声を上げると、織人は淡く微笑み、真緒の手を取って、その甲に口付ける。真緒は織人の唇の柔らかさに驚いて、びくりと肩を跳ねさせた。火がついたように顔が熱くなる。
「な、何するんですか!」
「面白いくらいに顔が赤いな。だが、俺の体の方がずっとずっと熱い。お前を想って体が火照るんだ」
織人の手が伸びて来て真緒の肩を抱くと、その体を拐うように自分の胸へと引き寄せた。そうされて、真緒は織人の胸板に頬をぴたりと付け、彼の言葉の正しさを知る。熱い鼓動が強く激しく真緒を求めていた。
啄むような口付けをいくつも額に受けながら真緒は織人の背に両腕を回す。すると、それを褒めるように優しく頭を撫でられ、織人が僅かに屈んだと思った次の瞬間、抱き上げられた。いつか見た咲穂のように愛しい男の腕に抱かれ、真緒は涙が溢れそうになるくらいに幸せだった。
真緒と呼ばれ視線を上げれば、織人の顔がゆっくりと近付いてきて唇に唇が触れる。真緒は織人の首に両腕を回して織人に寄り添った。
「――好きだ。愛している」
掠れる声で、だが、はっきりと聞こえた囁きに真緒は花開くように顔を綻ばせる。
「それは私が痩せたからですか? ……というか、私って、痩せて綺麗になりましたか?」
「ああ、綺麗だ。けど、綺麗とか綺麗じゃないとかではなくて、綺麗になろうと努力する姿や、踏みつけられてもへこたれない強さ、嫌いを好きに換える器のでかさ、……それから、俺のことをすごく好きなところが好きだ。お前、俺のこと好きだろ?」
「はい、好きです! 大好きです!!」
打てば必ず響く鐘のように真緒は即座に応え、とびきりの笑顔を浮かべて織人に強く抱きついた。すると、織人も幸せそうに微笑んで真緒の額に額をぶつける。二人の唇が再び触れ合ったのは、それからすぐのことだった。
完




