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花となりて 君恋うまで  作者: 日向あおい
12/18

六、食べても太らなければ素敵 (1)

 なぜ女は真緒を知っているのだろうか。真緒は怪訝に思いながら女に手を引かれて巨木の下に移動した。

 女の正体が分からない以上、粗相を犯してしまう恐れがあった。不安に思って、ちらりと後ろを振り返れば、高良と侍女たちもちゃんと追ってきている。

 視線が合い、にっこりと微笑む高良の顔を見て真緒はホッと肩の力を抜いた。


(マズイことになる前に、きっと高良が助けてくれますよね)


 マズイことをしでかして、織人から大目玉を食らうのだけは避けたい真緒は、高良の柔和な笑顔を信じることにした。

 それにしても、見れば見るほど不思議な木だ。白銀に煌めく太い幹は真っ直ぐと天に向かって伸び、幹から幾重にも分岐した枝は職人が施した繊細な銀細工だ。銀の枝には葉が一枚もない。まるで真冬の枯れ木のようだった。

 苔の生えた地面に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた巨木の根を避けて、木綿の敷布が広げられている。真緒が歩み寄ると、敷布に膝を折って座っていた女たちがゆったりと流れる動作で立ち上がった。

 刈安染めの上衣を纏った彼女たちはおそらく真緒の手を引く女の侍女だろう。すると、女は大王の妃のひとりなのかもしれない。


「真緒姫、こちらに座って」

「あのう、貴女は……?」


 促されるままに敷布に腰を下ろしながら問えば、真緒のその遠慮がちな言葉を吹き飛ばすような甲高い声が響いた。


「まあ! 真緒姫ではないの!? どうして真緒姫が聖華殿にいらっしゃるの?」

「え? あっ、貴女は……咲穂姫?」


 真緒が座った正面に座していた少女が驚きに腰を浮かす。桜色に染められた絹の上衣を身に纏った少女は、咲穂である。

 真緒の顔が強張る。瞬間的に思い出したものは、雑炊まみれになりながら地面に這いつくばる自分と、それを無邪気に笑いながら見下ろす咲穂の姿だった。 

 半月前に芽生えた苦手意識に体が震える。彼女の淡く朱を挿した柔らかな白い頬も、濡れたように輝く大きな瞳も、丁寧に結い上げられた艶やかな黒髪も、真緒には自分を攻撃してくる武器のように感じられた。


(どうして咲穂姫がここに……。間近で見てもやっぱり可愛らしいです。私とは大違い…)


 織人や侍女たちから言われて少しは痩せた気分でいたが、そんな少しでは補いきれないくらいに咲穂の美しさは真緒を圧倒する。彼女と同じ空間にいることさえ耐え難い羞恥心を感じた。


(どうしてこの世にはこんなにも可愛らしい方がいるのに、私みたいな醜い女もいるの? こんな不意打ちみたいに咲穂姫と会いたくなかったです…)


 真緒は表情を陰らせ顔を俯かせる。こんな場所に連れてきた高良をほんの少し恨みたくなった。


「さあ、皆で頂きましょう」


 真緒の肩にそっと優しく手を添えて、女が真緒の隣に腰を下ろす。


「皇后様、真緒姫も私たちと共に食事を取るのですか?」

「ええ、そうよ。だから、咲穂姫。真緒姫の前にも料理を並べて差し上げて」

「わかりました」

「……えっ。皇后様!?」


 真緒は尻を跳ねさせ驚きの声を上げた。あまりにもサラリと言われたので、危うく聞き逃すところだった。しかも、なんという気さくな雰囲気を纏った皇后だろうか。彼女の親しみやすい言動はとても位の高い女人とは思わせないものだ。

 真緒は尚も信じがたくて、念を押すように女に問う。


「本当に皇后様であらせられるのですか?」

「やだ、真緒姫ったら。王宮での生活も随分経つのに、もしかして皇后様のお顔をご存知なかったの? 皇后様は王宮の女たちの長でいらっしゃるのよ。王宮に上がったのなら、まず挨拶してしかるべきお方なのに」


 信じられない、と咲穂は薄絹の領巾で口元を抑えた。


「第一、この聖華殿は皇后様の管轄下にある御殿よ。そんなこと大変恐れ多いことだけれど、万が一、皇后様のお顔をご存知なかったとしても、聖華殿でお会いしたのだから当然どなたであるのか察することがおできになるはずよ。まさか、ここがどういう場所なのか知らずにいらしたわけではないのでしょう?」


 真緒は言葉を失って青ざめた。

 皇后への挨拶を怠ったのは明らかに真緒の過ちだ。だが、言い訳をさせて貰えば、真緒は一応そうするべきだと織人に言ったのだ。だが、織人が必要ないと固く断じたため、それに甘んじて皇后にも秋津妃にも、他の妃たちにも挨拶を怠ってしまった。

 そして、聖華殿に関しては、まるで知らない。この場所がいったいどういう場所であるのか、誰の御殿であるのか、まったく把握していなかった。

 ただ、見て分かることは、聖華殿と呼ばれるこの御殿が他の御殿とは異なり、人が日々の生活を送る場所ではなく、神域とも聖域とも言えるような神秘的な力に満たされた場所であるということだ。

 呆然として女を振り返った真緒に彼女は柔らかく微笑み、真緒の肩を数度軽く叩いた。


「真緒姫、ごめんなさいね。わたしは貴女を知っているから、すっかり名乗るのを忘れてしまっていたわ」


 女は後ろに控える自分の侍女に目配せをする。指示を受けた侍女は半歩前に進み出て、真緒に向かってはっきりと聞き取りやすい口調で言った。


「こちらは美羽族の瀬里葉毘売せりはびめであられます。瀬里皇后様とお呼びになられるのがよろしいでしょう」


 頭の後ろで一つに括った黒髪に白い筋が見えるその侍女に深く頷いてから、真緒は皇后の方に向き直る。


「瀬里皇后様は、なぜ私をご存知なのですか?」

「だって、貴女は有名でしょう? それに、あの子が選んだ花姫ですもの。――さあ、料理がすっかり冷めてしまったわ。頂きましょう。ここで口にする食事は神への供物よ。真緒姫も神に祈りながら召し上がってね」


 食事を促されて真緒は敷布いっぱいに並べられた料理に視線を落とした。久しぶりに拝むことのできた食事らしい食事だ。このところ粥ばかりを流し込まれていた真緒の腹は期待に騒ぎ立ち、唾液が口の中に溢れてくる。

 だが、真緒はぐっと唇を噛み締めた。せつなくて涙が零れそうになった。


「……でも、私、織人が決めたものしか口に入れてはいけないのです。食べたら織人に怒られてしまいます」

「まあ、そうなの!? それで、織人は貴女にちゃんとした食事を用意しているの?」


 真緒は口を閉ざし、縦にも横にも首を振らなかった。だが、ぐうぐうと鳴り続ける真緒の腹がすべてを物語っていた。


「だから、そんなにも顔色が悪いのね。いいわ、食べなさい。思いっきり食べるのよ。私が許すわ。――いいえ、違うわ。許すのではなく、これは皇后命令よ。食べなさい」

「ほ、本当に頂いても、構わないんですか!?」


 一度見入ってしまったら料理から目をそらすことができない真緒は、躊躇いながら瀬里皇后に尋ねた。皇后は目を細めてにっこりと微笑んだ。まさに女神様の微笑みだ。


「ええ、もちろん。皇后命令ですもの。さあ、召し上がって」


 ぱぁっと真緒の顔に大輪の花が咲く。


「それでは、遠慮なく! いただきまーす!!」

「あっ、待って。駄目よ!!」

「えっ!?」


 腕を伸ばして鶏肉を鷲掴みしようとした真緒を皇后の声が制する。真緒は思わず泣きそうになりながら彼女の顔を仰いだ。あと少しで肉が口に届くという寸前で、やっぱり駄目だとはいったいどういうことだろうか!!

 食べられると思ったのに食べられない悲しみと寸前で制止された怒りがぐちゃぐちゃに混ざり合いながら真緒を支配する。瞳を潤ませながら眉を吊り上げる真緒に、皇后は苦笑を浮かべながら言った。


「好きなだけ召し上がって構わないのだけど。だたし、わたしの言う通りにね」

「え……」

「まず、そちらの果物よ」


 指し示された器を見やれば、赤く熟れたスモモが小さな山のように積まれている。真緒はそれを目にしたとたん、すっぱいものを口にした時のように顔をしかめた。きゅぅっと口の中が引き攣り、それはすっぱいぞ、やめておけ、と警告する唾液がじゅわりと広がる。


「えー、どうしても食べなければいけませんか? すっぱいものは苦手なんです」

「ええ、駄目よ。召し上がって」


 にっこりと微笑みを浮かべながら皇后は言う。真緒はますます顔を顰めた。


「それなら、蜂蜜をください。蜂蜜をかければ食べられます」

「まぁ、真緒姫ったら、スモモに蜂蜜をかけるの? 信じられないわ」

「真緒姫、そのまま召し上がってくださいね」

「……」


 押し黙った真緒が次にどのような行動を示すのか好奇心いっぱいの瞳で咲穂が見つめてくる。真緒は、にこにこと笑顔を浮かべる皇后と、拳よりも一回り小さいスモモを交互に睨み付けた。――そして、肉料理を。

 皇后は真緒がスモモを食べるまで笑顔を浮かべ続けるだろうし、いつまでもスモモを睨んでいても真緒は肉を食べられない。


(スモモを食べてお肉を食べる! スモモを食べてお肉を食べる! 食べてすぐに食べれば、スモモのすっぱさなんて一瞬です。お肉の旨味が打ち消してくれるはず!!)


 スモモを食べてお肉を食べる、と何度も心の中で繰り返すと、真緒は覚悟を決めた。ぎゅっとスモモを握り締めると、固く瞼を閉ざして口を開いた。


「――っ!!」


 口いっぱいに広がった酸味は真緒の頬を引き攣らせる。真緒は、かっと瞳を見開いて肉料理をその眼中に捕えた。すぐにお肉を食べて酸味を駆逐しよう。そう思い、鶏肉に手を伸ばした。ところが――。


「あと二つは召し上がってね。その次は、アカザの和え物を召し上がって。それから小松菜のひたし物、ツワブキの佃煮、スベリヒユの茹で物を」

「草ばかりじゃないですかぁっ!?」

「野菜は体にいいのよ」

「えー、でも、私、草を食べると、ウサギになった気分になるんです! お肉が食べたいです! お肉が!!」

「まあ、そうなの? でも、野菜もちゃんと召し上がってね」

「……と言うか、ウサギになった気分って、なんですの?」


 真緒の『食べたくない』の婉曲した言い回しは、皇后には通用しなかった。そして、咲穂は胡乱な眼差しを真緒に向けてくる。アカザや小松菜を食べたくらいでウサギの気分になられては、この世のすべてのウサギが咲穂同様に胡乱な顔つきになるに違いなかった。

 しぶしぶ真緒はすっぱいスモモをさらにふたつ口に放り込み、指示された料理をなんとか咀嚼する。まったくもって楽しくない。今まで生きてきた中でこんなにも味気なく、満たされない食事は初めてだった。

 ――だが、そんな食事もお肉さえ食べればすべてが変わる。そう信じて疑わない真緒は、ついに肉を食べる時を迎えた!

 侍女たちの手によって目の前に移動して来た肉料理に、真緒は皇后を仰ぎ見て何度も何度も確認をする。また寸前で取り上げられては堪らない。


「今度こそお肉を食べても良いんですよね? 本当に良いんですよね?」

「ええ。でも、茹でた鶏肉は高菜の葉の塩漬けで巻いて召し上がってね」

「えー、まだ草を食べるんですかぁ?」

「じつは、その鶏肉に味を付けていないの。ただ茹でただけだから塩漬けの高菜と一緒に食べないと美味しくないと思うのよ」

「ひどいです。どうして味付けしてくれないんですか。ただ塩を振るだけでいいのに! それにお肉は茹でるよりも焼いた方が美味しいです。だって、想像してみてください。火に炙られたお肉から油がじゅるじゅるバチバチ飛び散っている光景を。見るからに美味しそうじゃないですか。芳ばしい匂いを撒き散らしながら焼いたお肉に噛み付くと、口の周りにべったり肉汁がついちゃうんです。そうやって、口の周りをテカテカさせながら食べた方が絶対に美味しいです!」

「そうね。そうかもしれないわね。――でも、茹でた肉はさっぱりしていて食べやすいのよ。野菜と一緒に食べると、なお良いわ。さあ頂きましょう」


 真緒の言葉に深く同意を示しながらも皇后はまったく真緒の意見を取り入れてくれなかった。揺るぎない態度で真緒に食事を勧める。

 仕方がなく真緒は言われた通りに茹でられた鶏肉を高菜の葉で包んだ。


「頂きます」

「はい、召し上がれ」

「……」


 口に入れた直後に広がるのは、野菜独特の青臭さと苦味。それから高菜に施された塩気がじわじわと顔を出し、ぐっと噛み締めると鶏肉の食感と旨味が救世主の如く登場して真緒の舌を慰めた。


「美味しいです……けど」

「けど?」

「やっぱり高菜が苦いです」

「そうなのよねぇ。慣れてしまえば気にならないのだけど」

「きっと青臭さと苦味を取る調理法があると思います。もしくは、気にならなくなる味付けが」

「あら、貴女って料理に興味があるの?」

「はい。どうせ食べるのなら美味しく食べたいですし。私、同じ食材でも調理法によって美味しくもなるし不味くもなると思うんです」

「だったら、スモモや高菜も美味しく料理ができるかしら? ――ただし、蜂蜜や油を多用しては駄目よ?」

「えー」


 真緒が不満の声を響かせると、皇后は瞳を細めてニコニコと微笑む。


「ねぇ、気付かないかしら? 貴女とわたし、食べた量はそれほど変わらないわ。むしろ、わたしの方が多いくらい」

「……言われてみれば」


 真緒は自分の前に置かれている空の器と皇后の前に置かれている空の器を見比べる。そして、ついでに咲穂の器も比べてみた。三人の前には木彫りの器や焼いた土で作られた器がいくつも空っぽになって積み重ねられている。


(どういうこと?)


 今まで真緒は、痩せている女性は自分とは違って少ししか物を食べないのだと思っていた。食べないから太らないのだと。

 だが、柳の枝のようにほっそりとした皇后は真緒以上によく食べる。まさに今も真緒と会話をしながら休むことなくパクパクと高菜で巻いた鶏肉を食べている。




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