五、食べない、飲まない、太らない (2)
「真緒姫、大丈夫ですか? 明日はもっと早くこちらに来られるようにします。さあ、水です。飲んでください」
「……ありがとう、高良。…でも、ダメなのです。せっかく痩せてきたのに、今、水を飲んだら……もとに戻ってしまいます…」
「大丈夫ですから、さあ飲んでください」
口元に差し出された器から真緒は顔を大きくそむけた。
「いやっ」
「真緒姫」
「……。……織人が、飲んでもいいと言ったら…、飲みます」
いくら弱音を吐いても、真緒は自分を変えたいと強く望んでいて、そのために力を尽くしてくれている織人を信じていた。その健気さに胸を突かれる想いがしたのだろう。高良は外にいるであろう織人に向かって荒々しく声を張り上げる。
「織人! 真緒姫に水を差し上げてもいいよね!! ――さあ、真緒姫。織人から許可が出ました。飲んでください!」
是とも否とも、織人からの答えは聞こえなかったが、高良は強引に真緒の唇に器を押し付けた。ごくりと真緒の喉が上下したのを確認してから、器を真緒の口元から遠ざけて床に置く。
「真緒姫、なんでもかんでも織人の言う通りにしなくてもいいんですよ。織人は行き過ぎるところがありますから。たぶん、いろいろと追い詰められているのだと思います」
「えっ、追い詰められているのですか? 織人が?」
水を飲んでひと息ついた真緒は、ごろりと寝返りを打って仰向けになると、イタチに似た高良の大きな瞳を見上げた。
「織人には、大巫覡になるか、神殿で死んだように生きるか、その二つにひとつの道しかないのです。そして、長旅の末にようやく貴女を見つけたのに、吾田族の横暴が織人の前途を阻もうとしています」
「それって……どういうことですか?」
「織人が今、生きていられるのは、赤子だった織人の額に印が現れたからです。印は、豊葦原の神から力を与えられたことの証。豊葦原の神は、生まれたばかりの赤子の額に指の腹を押し当てて、お前だ、お前こそが相応しい、と言って神の意を伝える者を選ぶのだといいます。選ばれた赤子には神力が宿っているので、神殿に集められ、巫覡として育てられます。ですから、印を持った織人は神殿に護られ、殺されることがなかったのです」
「ちょっと待ってください。何の話ですか? 織人は誰かに命を狙われていたんですか?」
「真緒姫は不思議に思われていませんか? 大王には多くの妃がいます。それこそ両手の指の数よりも多くの妃です。皇女様も何人かいらっしゃいます。なのに、皇子は矢凪様おひとり。秋津妃を生母に持つ皇子しかいないのです」
「言われてみれば、不思議ですね……」
寝転んだまま首を傾げれば、肩を軽く叩かれ、起きるように促された。真緒は、むくりと起き上がって高良の正面に座る。
「今、都では吾田族が強大な力を持っています。そして、その力は大王を凌ぐものとなりつつあります。皇族を中心に治められている豊葦原を護るためには、吾田族を牽制する新たな力が必要なのです。数十年前、大巫覡様は美羽族の姫を花姫に選びました。その頃、皆が、美羽族が吾田族を牽制してくれるはずだと期待したのですが、そうはならず、美羽族の男たちは都から追いやられ、美羽族の皇后様も王宮の片隅でお暮しです」
「皇后様でいらっしゃるのに王宮の片隅にお住まいだなんて……」
「咲穂姫は晴麻が選んだ花姫ですが、真実は違います。吾田族がつくり上げた花姫です。咲穂姫が皇后となれば、吾田族は神殿をも手中にします。新たな大巫覡はけして吾田族には逆らえないでしょうから」
「いろいろとあるんですね。都って、本当に怖いところだと思います」
「でも、希望もあるんですよ」
何かと聞き返しながら高良を見やれば、高良はにっこりと笑顔を浮かべて言う。
「これは大巫覡様と僕のふたりだけで密かに願っていることなんですが。じつは隠された皇子がもうひとりいるんです。それも美羽族の皇后を母に持ち、吾田族の妨害さえなければ日嗣の皇子となっていたはずの皇子です。その皇子と和多族の真緒姫が結ばれれば、きっと吾田族はみるみる力を失い、豊葦原に平穏が訪れるはずなのです」
「えっ、私が結ばれる? 誰とですか?」
「美羽族の後ろ盾を持った皇子とですよ。美羽族だけでは吾田族には太刀打ちできなかった。でも、和多族の力があれば……。真緒姫の一族は海の近くに集落を持ち、大陸との貿易を行い、財を蓄えています。財は力です。真緒姫が皇后になれば、和多族は吾田族と十分に渡り合える力を持つ豪族になるはずです」
でも、と高良は表情を曇らせる。
「真緒姫は、矢凪皇子を慕っておられるんですよね? だから、こんなにも頑張って痩せようとしていらっしゃるんですよね?」
「……ええっと。…うーん、そうですねぇ……」
どうしてなのか、真緒は即答できなかった。
たしかに痩せようと思った初日は、矢凪に愛されたい一心だった。痩せたら自分も咲穂のように矢凪に抱き上げて貰えるのではないかとか、痩せて美しくなった姿を見せて、綺麗になりましたね、と矢凪に褒めて貰いたいとか、そんな妄想や願望を抱きながら織人のむちゃくちゃな指示に従って頑張っていた。
だけど、正直、それだけでは乗り越えられない辛さがある。その人のために耐えようと思えるほど、矢凪は真緒にとって大きな存在ではなかったのだと、真緒は汗にまみれながら悟った。
今思えば、泣きながら織人に矢凪への想いを訴えたあの時が気持ちの最高潮だった気がする。そこから気持ちが落ちて行ったのは、この数週間、一度も矢凪の顔を見ていないからだ。
彼のために頑張っているのに、矢凪は真緒のもとにまったく足を運んで来てくれず、手紙も、言伝を託した侍女さえ送って来ない。これでは、どんな強靭な恋心も萎えてしまうというものだ。
だけど、真緒には矢凪を恨めしく思う気持ちはなかった。
(皇子様は私にトキメキをくださったわ。あんなにも心が弾んだのは初めてだったから、とてもわくわくして本当に楽しかったです。それと、羞恥心。自分を変えたいと思うきっかけをくださったのも皇子様です)
押し黙った真緒を案じる瞳に気付いて、真緒は唇を横に引いて笑って見せた。
「綺麗になって皇子様を驚かせたい気持ちはあります。でも、今は皇子様よりも織人に、綺麗になったな、よく頑張ったな、って言わせたいです。認めて貰いたい。だって、本当に織人ったら、鬼なんです」
「織人は、自分にも他人にも厳しいですからね」
つられるように高良も笑みを浮かべる。
それから、すっと立ち上がり、真緒にも立つように促した。
「真緒姫のお心の中に織人がいることに安堵しました。それでは、鬼の居ぬ間に少し出かけましょう」
「えっ、出かけるんですか? いったいどこに?」
「織人があまり行きたがらないところにです」
「それって、織人の弱点ということですか?」
「そうですね。弱点と言えば、弱点かもしれません。――どうやら真緒姫は、織人にぎゃふんと言わせたいみたいですね」
「はい、もちろんです!」
楽しげに答えて部屋から外に出ると、すぐに下に降りる階がある。この御館が床を高く上げて造られているためだ。真緒は慎重に一歩一歩踏み締めるようにして階を下りた。
桃華殿の庭は、その中央に大きな桃の木がある他、とくにこれといったものが何もない。なんとも寂しい庭だ。
その庭を、さっと見渡して真緒はぽつりと零した。
「織人はどこでしょうか?」
「神殿に行ったのだと思います」
「そうなんですか……」
――傍を離れるのなら、そうと、ひとこと言ってくれればいいのに。
ここしばらく常に傍にいてくれたせいか、姿が見えないと小さな寂しさが真緒の胸の奥で疼く。灰色に渇いた大地を滑るように吹き抜けてきた風が、汗の浮いた真緒の肌をすぅっと撫でて去って行った。
桃華殿を出ていく真緒と高良を見つけて三人の侍女が慌てて追いかけて来る。勝手に出て行かれては困ると言って怒る侍女たちに、高良は柔和な笑顔を浮かべて謝罪すると、桃華殿を囲む土塀に添って歩き出した。
どれくらい進んだだろうか。桃華殿の赤みを帯びた土塀から離れ、西へ西へと進んで行く高良の顔を真緒は横目でちらりと見やった。そろそろ足が痛い。王宮の端から端まで歩くつもりなのかと高良を疑い始めた頃、白く輝く土塀が真緒の前に現れた。土塀の内側に深く茂った緑の上に御館の千木――屋根の上で交差するように突き出た垂木――が見えて、真緒は高良に尋ねる。
「えーっと。ここは、どこですか?」
「聖華殿です。あそこから中に入りましょう」
白塀に添って歩くと小門が現れた。そこから塀の内側に入った真緒は思わず息を呑んだ。
「うわぁ……っ」
ぱっと開けた視界に飛び込んできたのは、豊かな緑と色鮮やかな花々だ。ふわふわと柔らかな苔に覆われた青緑色の地面に、蔦や木の根を緩やかに巻き付けた大きな石がごろごろと無造作に転がっている。
(すごいです! まるで異世界に飛び込んでしまったみたい!!)
人が手を入れて造った庭ではない。ごくごく自然のまま、大地の意思、木の意思、石の意思、花々の意思に任せながら育った空間のようだった。それはまさに人が足を踏み入れることを禁じられた神々の聖域だ。
ひゅっと真緒の喉が鳴る。いつの間にか、背筋がしゃんと伸びていた。
「――あら、貴女はどなたかしら?」
大気に溶けるような澄んだ声が響いて、びくりと肩を揺らしながら真緒は声の主に振り返った。
キラキラと陽の欠片を受けて輝く白雪を強く固めて造ったかのような木。それは、天にも届きそうな巨木だ。声の主はその白銀の巨木の陰からゆっくりと姿を現し、地面の上を滑るように歩み寄ってくる。
真緒は言葉が無かった。白絹の裳と上衣を纏い、青く透ける薄絹の領巾を両肩から流すその姿が真緒の目に、人に非ざる者のように映ったからだ。
その美しい女は真緒の前に立ち、まあ、と驚いたように声を発する。
「貴女はもしかして真緒姫ではありませんか? ずっとお会いしたいと思っていたのですよ。さあ、こちらにいらして。ちょうど食事を取っていたところなのです。一緒に食べましょう」
女はニコニコと親しげに微笑みながら真緒の手を取った。




