卵
私にはアイの表情が分かる。普通の人間には到底分からなくとも、ずっと一緒にいれば分かる。
アイはとても困ったような表情をしていた。
どこか照れくさそうで、そして泣きそうで、後悔していて、満足していて、迷っていて、迷って、いる。そんな表情。四つん這いのような格好をしたまま、私を見上げている。立ち上がろうとはしない。いや、立ち上がれないのだろうか? アイの呼吸が心なしか荒くなってきている気がする。
アイの下腹部は、少し膨らんでいた。それが何を意味しているかは誰にでも予測できる。
尻尾は力なく垂れている。アイは顔を地面にうずめた。その場で硬直しながら、両手は地面を掴む。恐竜のようなその脚の指はは地面にめり込んでいく。
アイはか細く囁いた。その魔法の言葉に引きずられるように私はアイの元に近づき、
凄まじい力で足を掴まれた。
あまりの力に思わず振り払ってしまいそうなほどだった。アイの呼吸が一気に荒さを増す。身体を小刻みに震わせながら、顔を上げ、私を見据えた。震えている。
咆哮。
この美しく凄惨な身体から発せられる、細く、高く、響く声。その咆哮は私に向けて、放たれた。
応えなければいけない。アイの求めに、私は応じなければ。
アイのすぐそばで要求にすぐに応えられるように、私は身体を屈めた。するとアイは上体を起こすと同時に私の背中に腕を回した。明らかに呼吸が乱れている。苦しそうだ。アイが……苦しそうだ。
こんな姿、見た事がなかった。
すがりつくように私の身体をきつく抱き締め、体重を預けてくる。
咆哮。
私はアイに右肩を深々と噛まれた。どっと汗と痛覚が噴き出す。
だが、私は動かない。拒否しない。やせ我慢でいい。アイを……裏切ってはいけない。
私が守らねば。
アイは耐えている。私の想像を絶する痛み苦しみが、アイを支配しているのだろうか。支配しているのだろう。私なんか一瞬でその苦痛に潰れてしまうと思う。それに比べれば、この肩ぐらい、どうだっていい。
私は腕を回す。肩を噛みつかれたまま、反対の腕をアイに回す。言いようのない気持ちになる。心がぞわりと震える。アイと1つになってあげられそうな気がする。
アイは私に深々と牙を喰い込ませたまま、唸る。喉を震わせて、心を震わせて、唸る。ぼたぼたと、私の垂れ下がった右腕を伝ってアイの唾液と私の透明な血液が雫をこぼす。
吸血鬼に血を吸われる人間のように見えるかもしれない。
違う。
私は自らこの身を捧げているのだ。
アイの尻尾のその付け根、両脚の間。どろりと粘液が溢れだした。
がたがた震えるアイ。私はそれを、ただ無言で抱き締める。私ができる事はこれぐらいしかない。アイとの距離を、できるだけ、どこまでも、縮めるしかない。
それで、アイの痛みを少しでも分かち合いたい。
彼女から、白い物が姿を現した。
私の背中に回されているアイの手が硬化し、私の背中をぎりぎりと引っ掻き切り裂いていく。それでも私は動かない。もう、どうでもいい。傷はどうでもいい。アイが、アイがかわいそうで、たまらない。
涙
痛みの涙ではない。
悲しみの涙だった。
右肩を口で噛まれ、背中を両腕で切り裂かれ、身体はアイに拘束され、それでも、私は悔しかった。これしかできないのか。これだけしか、アイにしてやれる事はないのか。何が研究者だ。何が、何が。
アイ。
「アイ……!」
私ができる事。
アイと一緒にいる事。
それで、それだけで、アイが解放されるのを願うしかない私がここにいる。
そして、ぼとりと。
彼女は丸い卵を産み落とした。その後も粘液は垂れ、両腿と尻尾の付け根をぬらりと濡らす。
その後もアイは苦しんだ。苦しみ続け、合わせて4個の卵を産んだ。そして、私の肩から牙を引き抜いて、彼女はくた、と私に寄りかかってきた。
辛かったろう。死ぬほど苦しかっただろう。それでも、耐えきった。
新たな命を、創った。
私はアイを優しく撫でた。
「……お疲れ様」
アイが飛び上がるように動いた。私は何が何やら、全く分からなかった。
ただ、あそこまで苦しんで産んだ卵を、アイが自ら、この場で乱暴に踏み潰していた。
「止めろ……アイ!!」
地団太を踏むように執拗に地面を踏み、卵を踏み割るアイの肩を掴み、荒々しく揺らす。
「何してるんだ! 何を……してるんだよ……!」
私の言葉を、アイは放心したように聞いていた、ように見えた。アイの足元、砕けた卵の殻と、どろりと溢れた黄色い中身。
私は泣いていた。
彼女も……泣いていた。
咆哮。
陽が落ちつつある森の中、その哀しい叫び声は虚しく響いた。




