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 アイはいない。壁の扉から外にいったきり。

 私は日記帳を床に叩きつけた。立ち上がり、頭に手をやりながら天井を仰ぎ見る。何もない。私は机に散らばっていた本や紙を力任せに辺りに投げ散らかす。大切だと思っていた資料が、途端に無意味な物に思えてしまう。

「何が人間だ……! 壊しやがって、裏切りやがって! それでもまだ足りないのか!」

 ガラス、機器、蛍光灯が割れていく破裂音は私がそこら辺にあったガラクタがぶつかり鳴らす音。

「アイ……お前が遠すぎる」

 気付くと研究室の中は火花がばちばちと散っていた。まるで誰かに見境なく破壊されたかのようだ。どうしたんだ? しかしそれは特に問題ではない。

「私は望んでたんだアイ……いや、今も望んでる、なのに何故、そのせいでこんなに苦しいんだ……?」

 大きなガラスの破片を1つ、床から拾い上げる。吹き飛ばされたはずの右腕で。

「私の身体も既に人間じゃないんだろう。腕も足も、こんなにも回復している」

 私はその場にしゃがみこみ、両手で床を叩いた。ガラスが手に食い込む。

「だがアイ……お前には程遠い。人間でもなく、お前の側にいるだけの力も持たず、私は……私は!」

 ガラスの破片の断面を自分の右肩にあてる。

「私の存在価値は!」

 色のない液体が床にしぶき落ちる。

「いらない。いらない、こんな中途半端に人間じみた身体は! いらない! お前の側にいてやる事もできず、忌々しい人間の姿をしたこんな身体なんて!」

 腕が落ちる、

 音。

「いらない……」


 研究室の隅で、鳴き声がした。

「ひっ」

 私は悲鳴のような声を出してしまった。聞き慣れたその声、怖いはずもないのに、アイが帰ってきて、何故だろう、私は。

「アイ……」

 私は、アイから離れるように、歩く。

 怖いのだ。

 悲しいのだ。

 遠いのだ。

 私は色のない血がほとばしる右肩口を左手で押さえながら、私をじっと見ているアイの優しい眼差しに貫かれながら。

「見ないでくれ……」

 涙を流すのだ。

「そんな目で見ないでくれ……アイ、それならもう、殺してくれ、アイ。生きている意味が、きっと私にはない。ならばアイの一部になる方がよっぽど嬉しい」

 力なく膝をつく。

「アイ、私を殺せ」

 アイは私にゆっくり近づく。生えて間もないその脚は既に、その機能を果たし私の背丈を上回る体躯を静かに動かす。そして、小さな声で鳴く。それこそ、泣くような声で。

「アイ……お前は、お前は覚え始めているんだ、感情を。この世を生きるには不必要なはずの感情、心を。失敗だ、お前のただ唯一の、欠点だ」

 この言葉の返事をするかのように、アイは私の目の前で私と同じように膝をつき、そして、私を抱き締めた。その優しさが、私には痛かった

「やめろアイ、やめてくれ……。すまない、本当に申し訳ない、私はお前に感情を……芽生えさせてしまった……」

 青い生き物はもう少し強く、私を抱き締める。私は咽び声をあげる事しか、事しか。

「感情なんか、あるだけ傷つくだけ、なのに。心なんか、あるだけ空しいだけ、なのに……アイ……」

 そう私が言う途中に。

 アイは獲物を食い千切るためにできたその口を。

 私のか弱い口に重ねた。


 音も、動きもない。

 涙の筋を残したまま身動きのできない私を見つめるアイは。その目から流した液体を、口吻に伝わせた。

 それは確かに、涙だった。

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