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冷たい風が吹き抜ける、夜の底に沈殿する闇の中。息を潜め、気配を殺し、自然と同化し、ただひたすらに、その時を待つ彼女。
食事の時間だ。
この島で彼女の食べるような獲物を私は見かけた事がなかったが、彼女の後を着いていくとすぐに、闇の中で動く獲物の影が見つかった。どうやって見つけたのかは分からない。目でなのか耳でなのか、それとも鼻でなのか。
彼女は、待つ。
腕の生えた上半身はだいぶ安定してきた。人間のそれのように肩を形成し、シルエットだけを見るとまるで人魚のようでもあった。……こんなに大きな人魚なんて聞いた事もないが。
彼女がいるのは、研究所の外。外、初めての外だ。初めての夜、草木の匂い、ぼやけた月明かり。私は自然の中にいる彼女を見たいがために、研究所から彼女を出したのだ。
野生の本能。
彼女は、待つ。
空の雲が夜風を受けながら何度となく形を変えた頃、彼女の眼が獲物を捉えた。
その獲物はその毛並みを月光に浮かび上がらせ、身体を縮み込ませて不安そうな足取りで森を歩んでいる。
狼の仔だ。群れからはぐれているのだろうか。
彼女の餌である。
私はその光景をすぐ近くで見ている。彼女のすぐ近くで。
子供の狼が無防備に、ざくざくと雑草を踏みしめ、時折鳴き声など立てて、自分の居場所すら知らせてしまうほどにおどおど歩き回り、体力を消耗し、明かりを求めてびくびくふらふらと、茂みの横を通り抜けようとして。
彼女の腕が狼の胴体を荒々しく掴んだ。
突然草むらから現れた彼女に驚き、鳴き声をあげようと口を開いたが、その前に彼女のもう片方の手が狼の首を鷲掴みし呼吸を止めさせる。口をわずかに動かし、酸素を取り込もうとする狼の仔を掴んだまま、彼女は月光の下に姿を現した。蒼くなめらかなその身体は粘液で潤い、そして滴っている。長い口吻をした顔には、荒々しい口のライン。
彼女は狼と比べ物にならないほどに大きく、口を開いた。唾液が糸を引く。 狼は怯える事も出来ないまま彼女の握力に屈し、命の灯火を消していった。脚を投げ出し痙攣させている。
彼女は狼を口に持って行く。子供とは言え、自らの顔と同じほどのサイズだ。
口の中に獲物を頭から押し込み、呑み込んでいく彼女。うつ伏せの格好で、尻尾をゆらゆら振りながら。粘液が辺りに散る。黒い毛並みが彼女の中に消えていくたびに喉が膨らみ、蠕動し、彼女を満たす。あの頃みたいに細々と体液をすする時期は終わったのだ。喉に肉が通っていく感覚に彼女は酔いしれているように見えた。顔を空に向け、獲物を呑み込みながら月に照らされる。
私は彼女のすぐそばでこの日記を書いている。彼女と共に喜びを分け合っている錯覚に気分が高揚する。
それが錯覚でない事を真に願う。




