夕焼けよりちょっと濃い色
夕焼けより少し濃い色の包み紙が、出来立てのチョコレートたちを包む。今にも漂ってきそうな甘い香りをギュッと押し込め、可愛らしい赤のリボンで飾り付け。あとは彼に渡すだけ。その日の夜は神経を使い果たしているはずだったのに、ほとんどまともに眠ることはなかった。そわそわして、何度も寝返りをうつ。やがて薄霧の先に淡い黄色の朝日が色濃くなってきた。寝不足なのは分かっている。でも、いつもより足取りが軽いのは、きっとこれがバレンタインデー効果だからだろう。
明け方の薄闇を潜りぬけ、冷える手足を我慢しながら自転車を漕いでいく。頬にふれる鋭い風。そんな風に顔をこわばらせつつ校門をくぐり抜ける。白亜の自転車置き場に降り立った時、友達が話しかけてきた。みんな今日という日に相当力を入れてきているらしい。それぞれのチョコレートを見せ合いつつ、誰にあげるだのどうやってあげるだのと話すのがやけに楽しくて、男子たちに聞こえてないか心配になるほどだ。その中の一人の都は、私達以外の誰にもバレないように隠しながらある男子の靴箱にチョコレートを入れた。なんだかこっちまで微笑ましくて照れくさくてホクホクする。私は靴を入れるところに食べ物を入れるなんて考えられないからもっと他のところに置くつもり。本当は手渡しが一番良いのだろうけど、さすがにそれは恥ずかしくて出来やしない。担任の先生にバレないように、指定かばんの奥深く、お弁当の下に潜らせておく。お弁当の匂いが移りませんように。
こんなにも集中できない授業も久しぶりだった。いつもは不要物なんて学校に持ってくるキャラじゃないし、特にやましいことは何もしない私。同じ教室にいるお目当ての彼のほうをたまにチラッと見ることはあっても、今日みたいにいつの間にかガン見しているのは自分でも驚いている。昼食の時間、お弁当を取り出すときに少しだけ見えた濃い橙色。あと数時間後に彼の手に渡っていると考えるだけでもドキドキする。というかほっぺたの下のほうがくすぐったくモヤモヤしてきた。早く時間がすぎればいいのに。
午後の授業の後、掃除が始まった。先生の目が行き届かないこの時間帯には、チョコを渡す人が多くなる。どさくさに紛れて彼に渡そうとするが、人気者な彼は次々に女子から義理チョコをもらっている。おふざけキャラな彼。しっかり一人ひとりにミュージカル調に感謝の弁を述べている。ああいう明るい雰囲気が前から好きだった。彼と同じ空間にいるだけで笑顔になれる。でも、他の女子と楽しそうに話されるのは見ていられなかった。目を背けて真面目に掃除に取り組む。やっぱり渡すのは放課後かな。義理チョコタワーを作っている彼を横目に、ちりとりに溜めたゴミを捨てた。
ホームルームが終わると、部活組は一気に教室から出ていった。何の部活にも所属してない私。同じく何の部活にも所属してない彼たちのグループと喋って帰るのは日課だった。今日もいつもと同じようにひたすら喋って他愛もない会話に一喜一憂する。義理チョコタワーが二十回になったとか、あいつがあいつにチョコを渡したとか、そんな情報が行き交う教室。夕焼けよりちょっと薄い陽の光がカーテン越しに降り注いでいる。他の教室から時々笑い声が響いてきて、向こうもバレンタインネタで話してるんだろうなぁなんて思うと、どこも似たような感じだなぁって急に気が抜けた。頬杖をつきながら、机の上で喜びの舞を踊る彼を見ていると、ついついかばんの中のチョコを忘れてしまいそうだ。
そろそろ話題が尽きてきたのか、徐々に口数が減る私達。その時、彼が席を立った。トイレにいくついでに帰るそうだ。教室から出て、廊下からいつものように子供みたいな笑みで私達に手を振る彼。微笑む彼の残像が消えていく数秒間。それが覚めた後、私はハッと我に返った。今だ。今しかない。気付いたら私は指定カバンの中から夕焼けのような色の包みを左手に持って走り出していた。
彼はすでにトイレを済ませて教室横の階段を踊り場まで降りようとしていた。私はその姿を見ると同時に呼び止めた。左手のチョコレートを背中の後ろに隠しながら。
「ちょっと待って!」
そんなに走るほど距離がなかったのに呼吸が落ち着かない。彼は分かりやすいほど驚いた表情とジェスチャーで私の方に振り返った。彼は今、私だけを見ている。そう思うと彼の顔を見ていられなくて、ちょっとだけ顔を逸らした。
「桃井じゃん。どした?」
「え、ああ、いやぁ……」
私は今何をやってるんだろう。急に頭の中が真っ白になって、状況が飲み込めなくなった。誰も野次馬なんか居ない。多分。きっと。おそらく。さっきまで一緒にいた友だちがもしかしたら後ろから見てるかもしれない。そう思うと余計に体が硬直して目をキョロキョロ動かすことしかできない。
「なんかあった?」
また彼が私に問いかけてきた。どうしたのだ私。顎が内側から乾いてきて、重くなって、唇が軽く震えてきた。
「ハナケン、マフラーずれてる、よ! うん、ずれてる」
「あ、ああ、ありがと。これでバッチシ!?」
また私を笑かそうと芸人みたいなポーズをとって親指を立てる彼。いや、ハナケン。いや、花田くん。私はとりあえず全身しびれたような感覚のまま、右手を顔の近くに持って行き、親指を立てた。
「じゃなっ」
「う、うん。また、ね」
手を降る彼に向かって何度も会釈みたいに細かく頷きつつ、細かく震える手を振る。階段の踊り場から彼が消えた後、脱力してその場にへたり込んだ。結局今年も渡せなかったな。心の中で呟いたけど、それをさっきまで話していた友だちが察知したのか、急にぞろぞろとギャラリーたちが姿を表した。こんなに大勢に見られていたなんて。恥ずかしくて急に体の中から沸騰して湯気が出てきたみたいだ。私もみんなと同じように義理チョコとして渡して手紙でも書いておけばよかったなぁと思ったが、今になってはもう遅い。左手で握りしめて皺ができているチョコレートの包みをその場の冷たい廊下に置いて、ひとつため息をついた。笑って慰めてくれる友だちがいるのがなんとなく嬉しくて、一番心配してくれた都に抱きついた。都の肩に鼻まで埋まって、そっと目を閉じる。彼が私のチョコを食べている様子がどうしても思い浮かべられなかった。そっと目を開けてみる。都の肩越しに見る窓の外は、もう夕暮れよりもだいぶ濃くなっていて、薄灰色の雲に覆われていた。水道から落ちる水滴が、ボドンと銀のシンクに叩きつけられている重低音だけが廊下に響いていた。
挿絵:きび(@Qbe198)作[吉比さんの手書きブログ]