障害を持つという事Ⅱ
私個人の考え方であり、如何に感じたのか、どの様に思ってしまうのかです。
障害を持つという事Ⅱ
前回は、身体障害について触れた。
今回は、知的障害について、私が思う事を連ねてみる。
正直に言うと、私は、知的障害者が、苦手だ。
普通に接する事は出来る、話す事も、一緒に居る事も、出来る。
だがそれは、自分がその相手を良く知った上で、当たり前に接する事が出来るからだ。
初対面で、上手く接する事が出来るか。と言われたら、躊躇せずに、私は駄目だと答える。
どう接したら良いのかが、判らない。
何処まで、普通に接して良いのかが、判らない。
経験が少ないという事もある。
幾らかは、経験を積んだ。それでも、まだ、判らないと、感じる。
その相手を知っている人と一緒に居れば、何とかなるだろう。
だがそれでも、段階を踏み、お互いに時間を掛け、お互いに慣れたらである。
相手が、何か不味い事を仕出かすか、と心配するのではなく。何か不味い事を、自分がしてしまうのではないか、と心配するからである。
私が、何か失敗してしまったとしても、そばに居る誰かに援護して貰える、何とかして貰える、と思えれば、安心して接する事が出来る。
そう都合良く行かない事も、分かる。接し方が判らず、戸惑ってしまう。
会話に関しては、何の話題が出来るのか、何も解らないから。
相手が話したい事が、理解出来るのか、判らない。
吃音や、発声し辛いのであれば、時間は掛るが、ゆっくり、ジックリと聴く事が出来れば、大体理解は出来るが、それを全て理解する事には、時間が掛るし、慣れも必要になる。
人それぞれの、癖が強いと思えば、そう言った事には、慣れる事が出来る。
私も、以前の職場には、障害者が多く居た。健常者より、障害者の方が割と多かった。
私は、そこで時間を掛け、お互いの事を理解し合い、それから何とか、普通に接する事が出来た。
当たり前に会話し、相談し、相談され、それを当たり前のモノとした。
時間も掛ったし、お互いにどう思っているのか、手探りで接し、一応の答えも出せた。
有意義な時間を、作り出す事も出来た。
不可能と思いますか?
そう思われる事が多いと思うのですが、私は、知的障害と言うのは、考える事が出来ないのではなく。
考える事に、時間が掛る。
長く考える事が、難しい。
答えを上手く形にする事が、難しい。
と、私は考えます。
そうと判れば、時間を掛け、その答えが出るのを待って、その答えを上手く、こちらが形にしてあげる事が出来れば、その人の意見が聞ける。
聞く事は、苦にならないので、ゆっくりでも、意見を出し合える。
私は、ダウン症の症状を持ち、身体障害も、吃音も持つ方と、社会的な話をする事が多かった。
お互いに、共通する話題がそれ位しか、無かったのですが。
答えが出ない事が、多かったのですが、お互いが理解できるように話していて、成程と思う事もしばし。
慣れない相手と会話をする。
お互いに、気まずくなり、話題が出にくい、出しにくい。
慣れれば、どんな話が出来るか、お互いに判るので、結構話す事が出来る。
同じ話になる事も、多いが、それはこちらが受け止めてあげれば、特に問題は無い。
受け止めきれるかは、個人の資質に賭けられる。
無理をして、(自分自身が)不機嫌にならない様に。気長に考えた。
投げやりな態度は、相手に失礼だし、相手が判らないとは思わない。
何度でも、聞きますよ。位の余裕で受けていた。
出来れば、喧嘩しなければ良いのですが、時々は喧嘩になってしまう事も。
それでも、喧嘩は喧嘩。
言いたい事を、出せるだけ吐き出し、お互いの溜飲を下げる事も、必要。
相手は忘れてしまうかもしれないが、その時はその時。
喧嘩が跡を引かないと思って、グッと飲み込む事も。
酷くは成らない様に、お互いに手が出ない様に、これが怖い。
加減が利き難いから、何時もハラハラする。
これまでは、そんな事には成らなかった。
幸運に感謝!お互いの自制心に感謝!
それでも、気の良い人が多いのも、確か。
それでも、私は苦手意識を持ってしまう。
顔を合わせる事が少なく、相手の事が判らないという事に、戸惑ってしまう。
逆に、良く顔を合わせ、相手の事を知る事が出来たら、戸惑う事無く、当たり前に接する事も出来る。
以前、良く判らないで、失敗してしまった事も、有った。
それは、私としては、大変失礼な事をしてしまった事で、そう思っている。
その事も、尾を曳いている。
相手を理解する事が、難しく。
如何に接すればいいのかが、判らない。
そう言った事から、苦手だと感じてしまう。
相手が悪い訳ではないが、苦手だという意識が、先に出てしまう。
私が通った小学校には、椎の実学級という、知的障害を持った子の通う教室が有った。
それでも、如何しても、普通の授業を受けさせたいという、親御さんも居た。
そういう事も有り、普通のクラスに入ってくる子も、稀に居た。
周りが、上手く馴染める事もあるが、そうでない事も、有った。
どうなるかは、判らない。
些細な事から、大騒動になってしまった事も。
それを、理解出来ればいいのだが、周り(親御さんや他の子)がそうは行かない事も、間々ある。
私も、運動会の時、クラスに居た、知的障害の有る子と、ダンスの相手を組んだ事が、一度だけ有る。
誰もが嫌がった為、お鉢が廻って来た。
何となく、嫌というのではなく、大丈夫なのか、心配になった。
案の定、アチコチ動いてしまった。その度に、修正したりも。
相手は悪くないが、それでも、どうして良いのかが、如何したら良いのか、判らない事が、辛かった。
怒ってもいけないし、言い聞かせる事も、難しい。
だから、体の向きを変え、進行方向を変える位しか、出来なかった。
中々上手く行かず、相手を怒らせてしまった事も。
それで合っているのか、間違ってはいなかったのか。それを示すモノが、その時の私には、無かった。
だから、相手を知らない事が、怖かった。
相手が、何をしようと、対処出来る。でも、自分が、相手を傷付けてしまうかもしれない。
その事が怖かった。
だから、苦手だと思ってしまう。
それでも、出会う事が有れば、挨拶もするし、話もする。避けようとは思わない。
相手を、知る事が出来れば。
発達障害・精神障害については、私自身は良く分からない。
ただ、精神病院での事は、耳にした事が有った。
私達にしてみれば、極些細な事。
おかずの大きさや、数で、大喧嘩が始まってしまった事。
そう違いは無いと思える事が、その人にとっては、大層大事な事になってしまう。
大袈裟かも知れないが、そう感じてしまう事が有るそうだ。
私はこう感じ、この様に思います。