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障害を持つという事

私自身、障害者です。

障害者には見えないほど、行動的ですが、障害を持っています。

障害を持つという事



 私は、生まれ付きの身体障害が有る。

その為、歩行や移動に多少困難が付き纏う。一寸した事でも、大怪我をしてしまう。

小さい頃や、子供の頃は、大して気にする事は無かった。そういうモノだと、思っていたから。

だが、自分以外の対象に対しては、そうでない事を知ったのは、それなりに大きくなってからだった。


 それに気付いたのは、周りの友人達が、私の歩き方を真似し始めた時だった。

私にとって、それは当り前で、何らおかしい事ではなかった。


何故、友人は、私の歩き方を真似するのか。

何故、その事を笑っているのか。

何故、その事が可笑しいと感じるのか、全く意味が判らなかった。

それでも、笑って居られるのなら、それで良かった。


 私にとって、障害が有るという事は、息をする事と同意義であり、からかいや、それを可笑しがったりする事は、全く判らない事だった。

周りが可笑しがっている、なら、それでも構わないか、とも考えていた。


 だが、大きくなるにつれて、その事は大きな差になってきた。

同じ事が出来ない、同じ様に走れない、付いて行くことすら、難しい。

皆、先に行ってしまう。それでも、遅れても付いて行く。

だが、それは疎まれてしまう。何故、同じ事が出来ないのか。何故、同じ様に進めないのか。

それを理解する事が、出来ない。


 友人達にとって、出来て当たり前の事は、多少の差異は有れど、出来なければオカシイ。

出来て当たり前の世界に居る。

それ以外、というモノを、感じるには、まだまだ世界は狭すぎた。


 私にとっての世界と、友人達の世界には、大きなズレが有った。

人が居れば、それぞれ、違いは有るが、概ね共通している。

私と友人達には、接点は有るが、その範囲のズレというモノが大きかった。

 私にとって、障害とは、何処にでもあるモノであり。誰もが知っているモノだと考えていた。

実際、そういったモノを当たり前に目にしていたし、それが、当たり前の世界だと感じていた。

 友人達にとっては、障害と言うモノは、曖昧であり、滅多に目にする事のない、非日常であった。

理解したくても、理解する事自体が難しい。

実際に体験できるモノでも無いし、だからと言って、成る訳にもいかない。

擬似体験は出来るだろうが、体験し続ける事は、無理である。

ほんの一時、体験したとして、理解出来たとして。それがどの位、理解出来るのか?

ほんの一握りの、極僅かなモノしか、判らない。膨大な時間の、一時。そこから続く、一時。

それが、当たり前の世界。

それでも、その僅かでも、理解しようとし、努力する事は、私個人としては、ありがたい。



手助けの手


 当たり前の手助け、それが必要だと思うのなら、受ける。

受けなくても構わなければ、受けないが、有ると助かる。

心掛けて貰える、気にして貰える。

それが当たり前の様であるが、受け取り方はそれぞれ。

そう言った行為に、慣れる事が出来ない、馴染まない方も、居る。



助ける事、助けられる事


 その気持ちをどう、汲み取る事が出来るか。

上手く汲み取れれば良いが、中々に、難しい。

何処までして貰えるのか、何処までして欲しいのか。

お互いの差異と言うモノは、見えない、聞こえない、感じられない。

 その、物差しとでも言えるモノは、存在しない。

お互いに、時間を掛けて、その規格と言えるモノが、おぼろげに出来る。

それを、別の方に使用する事は、出来ない。だが、その曖昧な規格の幅を拡げ、差異を縮める事は、可能だろう。




 私にとって、言える事は、障害を持つという事は、生涯ソレと向き合い、付き合って行くという事。

当たり前(健常)を、0とすると、障害は-1である。

当たり前(障害在り)を、0とすると、健常に近づく事は+1である。だが、それは健常者にとっての、0でも有る。-1でも有る。0に近づいた事でしか、ない。


それをどう見るのか、それは個人毎に別れる事なので、何とも言えない。


健常者は、生涯、健常である事は、無い。障害を持つ事も、十分に有り得る。

障害を、自分が、与え得る事も有り。自分が、成り得る事も有る。



 私は、私自身の事を、良くは分からない。

今、こうしていられるが、何時、どうなるかは判らない。

不安が有る。誰かと一緒に在る事が出来るのか。その性質は、後々に引き継がれてしまうのか。

気にしても、如何し様もない事でもある。


 だが、考えてしまう。怖くなってしまう。自棄になってしまう。諦めてしまう。不安な気持ちで、生きてしまう。

 それでも、まだ楽しみが有る。楽しくなってしまう。冒険したくなってしまう。追い求めてしまう。安心してしまう。

 そう言った事を、繰り返している。



 以前、障害を持つ主人公の話の相談が有った。

如何、考えるべきか。足が弱いとするか、足を喪ったとするか、無かった事にするか。

その後、対価は大きいが、自由に歩ける、動ける足を手にすると言う。

その相談に対し、様々な書き込みが有った。


足が弱いと、憧れるだろうから、弱いが良い。

足が元々無ければ、諦めがつくだろう。事故で失えば、また元に戻りたいだろうから、途中からとする。弱ければ、一応それで満足だろう。

無いと憧れるから、無い方が良いだろう。

無いと喪うは、自分が引いてしまうから、自分は弱いとする。

 様々な意見が有った。



 私は、無かった方にした。


 弱ければ、我慢できる。だが、憧れる。対価が大きいと、躊躇するだろうから。我慢は出来るが、そこまでしなくても良いと、考えるのではないか?


 事故に遭い、喪えば、元に戻したくなるだろう。だが、諦める事も、出来てしまう。そう在った事は、覆す事が出来ない。絶望はするが、諦め、過去にする事が、出来るのではないだろうか?


 最初から無ければ、憧れる。渇望する。

その最初の地点にすら、立てない事に、絶望してしまう。過去にすら出来ず、追い求めてしまうのではないかと考えた。



 それでも、私は、「元々無ければ諦められる」この一言に憤った!

その場で、その憤りをぶつけたかった!

ぶつけても、その場を荒らす事になったとしても、構わないと思った。


 だが、そう考える事しか、出来ない方なんだと思い、憤りは治まりはしなかったが、矛は収めた。

 その人が何を見、何を感じるのか、それは解らない。

身勝手な人なのかもしれない、そういったモノを、目にした事が、感じた事が無いのかも、しれない。一概には言えない。

 私はその人が、出来れば、そのまま、そういったモノを目にする事が無いまま、感じる事が無いまま、過ごす事が出来るのならば。それは、幸せな事なんだろうと考えた。

 どうなるかは、判らないが、私はそう考える。




追記


 私には、障害者と言う意味では、極身近に先達が居た。

傷痍軍人で、片方の足を脛の辺りから失くした祖父が居た。

そう言った意味では、家族は障害と言うモノに対して、理解が有った。

それを当たり前として育ち、そういった人が居る事も知り、育った。

 障害を持って生まれた事に対し、恵まれている、とは言えないかもしれないが、私にとっては、恵まれていると感じる。

少なくとも、理解者には恵まれていた。

おかげで、グレる事も無く、生まれた事を恨むでもなく。それを、当たり前として育つ事が出来た。


 それと、私にはもう一つ、障害が有る。

姉も、その障害を持っている。

 それは、エイロスダンロス症候群?と言うらしい。

皮膚の組織に異常が有り、異様に皮膚が伸びやすい。

皮膚組織が脆い=些細な怪我で済むはずの怪我が重傷に。

再生し辛い=完治しにくい。

傷跡が消えない=異様に目立つ。


 今現在であるなら、ゴムゴムの実を食べた、と言えるのかもしれない。


 その事は、子供の頃、非常に心を傷つけられる事に。

それは、私に触れば、その皮膚が伸びる性質が感染する、と言うモノ。

私にワザと触り、それを他の子に擦り付ける。

 最初は訳が判らなかった。

ただの遊びだと思った。

意味が判ってからは、死にたくもなった。

だが、そう言う訳にもいかない。

だから、解らない振りもした。嫌われたくはなかったから。

それでも、露骨に避けられる事も、あった。

その事を、からかわれる事も。

未だに思い出してしまう。



 今では、脛に傷持つ男となった。良く怪我をしていた為、脛は傷痕だらけだが。

何時か、自分の子供が出来た時、お前に脛を齧られてこうなった、と冗談でも言ってみたい。


 だが、そんな事もあったと思えるだけの強さは、家族から貰ったと、堂々と言いたい。

理解してくれて、こんな、手の掛る息子でも、面倒がらずにいてくれて、ありがとう、と言いたい。

でも、まだ照れ臭い。でも、何時かは、言いたい。


 生んでくれて、育ててくれて、感謝しています。と

生まれ付いての障害者ですが、三十過ぎるまでは、健常者として、頑張ってみましたが、さすがにもう難しいかと思い。

最近になって、やっと、障害者手帳を申請しました。

それまでは出来るだけ、自分の障害について、考えない様に、気にしない様に、していました。

気にしなければ、考えないで済みましたから。

落ち込む事も、嫌な思いも、しないで済んでいたので。他の人から言われると、物凄く気にしなければならない、痛くなる気がするから。

実際、言われなければ、痛くないと思えたのに、言われた途端、痛いのを気にしなければならないと、痛みに拍車が掛かった気も・・・

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