大人の定義を考える。
私の考え方であって、それが全てに言及するとは思っていない。
私個人が考えた、私個人のモノの考え方です。
大人の定義を考える。
大人になる、という事についての定義は、諸説ある。
あてになるモノから、如何わしいモノも、様々。
私は、子供の頃から、大人びた子供、大人しい子供だと言われた。
だとすると、聞き分けが良い事、物事をある程度、理解する事が出来ている事などの要素もあるのだろう。
昨今、成人式の度、大騒ぎする新成人が居る。
まだ許されるから、そうするのか、目立ちたいから、そうするのかは判らない。
そうする事で、何がしかの利益が生じていると考えるのか、損しか生まないと分からないのか、それは其々なのだろうが、私には、理解し難い。
成人だから、飲酒・喫煙は、大っぴらに出来るが、それは、成人になったのだから、そのルールとマナーが理解できているという、前提の元、許可されるモノでもある。
飲酒していても捕まらないのではなく、飲み方、飲む許容量、飲んでどうなるかを理解の上、飲む事を許されるという事。
喫煙しても捕まらないのではなく、用法容量を理解した上、副作用、喫煙について周りがどう思うのか、そのルールが判らないとどうなのかを、全て理解しているという事。
かつては、飲酒・喫煙は、もう少し若くても、どうこう言われなかった。
その害と言えるモノについて、理解が有ったか、判らなかったかは別として、そこまでとやかく言うほどの問題ではなく、そうしても危なくは無いという事でもあった。
文化的に進み、様々なモノが溢れる中。それではいけない、それは危ないといったモノが見えて来ている。
自動車が出来た頃、飲酒運転なんてモノは存在しなかった。
自分が運転するのではなく、別の人間が運転する事が当たり前だったし、起きたとしても、そこまで酷いと言えるほど、酷い事には成り得ない(特定しやすい、速度は今ほどではなかった)、とは言え、皆無という事は無い。
今は、個人が運転する事が多く、事故が起きた時の被害が格段に酷く、隠ぺいも出来てしまう。そうしやすくもなった。必ず、そうできるとは限らないが。
成る、出来る、とは限らないが、その事が理解できるだけの能力は、携えているとみなされる。
喫煙についても、そうなり得るだろう事は判っても、そうすべきとは思われなかった。
成り得るという事だけで、そうなるとは、決して言えないから。
大人の階段を上る
飲酒、喫煙、親と成る為の行為、求道(求めるモノ)、様々。
何を以って、大人の階段と言うか、それは様々ある。
大人の階段を登るのならば、それは、登り続けなければならないという事でもある。
大人であり続け、あとに続く者の、範と成り得なければならない。
良い意味でも、悪い意味でも、大人であるならば、どうなるかを示す事が出来なければならない。
後に引く事は出来ないが、どうなるかを示す事で、その跡を辿る者にそうならない様に、そうなる様に、標と成る事は出来る。
突き進み、そうなる筈ではなかったと思っても、もう後戻りはできない。
後ろに下がるには、下がる為の段が既に無いのだから、登る為の段以外は無く、登り続ける事を強いられる、という事。
無かった事には、出来ない。
出来るとしたら、知られない様にする事ぐらいだろう。
何処まで出来るかは、分からないが。
大人の階段と言うモノが、どんなモノであるか、大人になってから、知った方が良い物の方が、圧倒的に多いという事。
その位しか、私は言えない。
子供の内に知って、大人に成ったと思える様なモノでは決してない。
大人に成る事は、早ければ良いモノではなく、大人と言うモノを理解出来る様になった時。
大人に成るのではないだろうか?
急いで大人に成る事を願うよりは、子供である事を理解し、どういう大人に成りたいか、成れるか、成るにはどうしたら良いのか、その事から、大人の階段は始まる、と思いたい。
私個人としては、階段を登るかどうか、その必要が有ると、判断できるのか?
その事を、十分に理解した上で、登って欲しい。
その結果、いかなる対価が発生しようと、対処出来得るだけの能力が有り、判断能力が有る事を期待する。
中途半端に登るよりは、諦め、引き返せる内に引き返す方が、無難でもある。
冒険と無謀は違うのだから。
冒険は、危険である事を十分に理解し、それでも、自己責任、自己判断が出来ると判断して、行うモノであり。
無謀は、何も考えず、何も判断しないで行う事だから、その事を踏まえ、行動してほしい。
昔は、大人に成るのは、ずっと若かった。
そうせざるを得ない事情(寿命)等もあった。
今、その事情等も、大幅に変わった。今までの平均的な寿命を、遥かに超えてしまった。
急いで大人に成る必要はなくなったが、大人に成れない、大人と見なされなくも成った。
ずっと上が出来たという事でもあるが、それに対応出来ない社会という事でもある。
上手く出来ているようでいて、未だ日が浅い社会。
刻々と変わる、その速さに追いつけてはいない。
何時かは、追い着き、対応出来るだろうが、今では無い。
この先どうなるかは、判らないが、まだ許容範囲ではあるのだろう。
記号で表わされるという事
未成年であるから、許される、守られるのではなく、判断能力が欠如していると見なされているのでは?
今だ未完成であるから、猶予を与え、判断能力が有るか、試されている。
表沙汰には、成らないだろうが、そうした事は、無かった事にはならない。
付き纏われる、そう考える事は出来ないだろうか?
情緒不安定、精神的に追い詰められ、衝動的に事を起こした。
そう判断されるとして、その結果、その事を無かった事には出来ない。
短くは出来ても、そうしたという事実は、纏わり付く。
若かりし過ち、で済む問題と、そうでない事の判断が出来ていない、その年に成っても、その程度の判断しか、出来ない。
過ちを犯さない人は、居るかも知れないが、少ない。極々一握りの人かもしれない。
その事が理解出来たとして、過ちを犯した時、禍根無く解決できる人も少ない。
禍根は残る、減らす事は出来ても、なくす事は難しい。
私の大人の定義とは、
子供に出来ない事が出来るのではなく、親に成る事でも、理解力が有る事でも、常識が有る事でもなく。
大人であり続ける、という事なのではないだろうか?
小さな人を、大きく導く事が出来る人の事ではないだろうか?
自他の隔たりなく、大きく出来るという事。
それが出来た時、大人として、見られるのではないだろうか?
ホンの一面でしか、大きく出来ないかもしれない。それでも、人の数だけ、大人が居て、その数だけ、大きく成れるとしたら、その次は、さらに大きく出来ないだろうか?
私はそう考えてみた。
違う考え方が有る方は、出来ればご意見をお聞かせください。