娯楽について考える
これは、私の考えで有って、他の方とは違う事を理解して貰いたい。
ただ考え続け、答えを出してみた結果、この様に考えを纏める事が出来たので、それはまた変わるかも知れません。
私は揺れ動く人なので・・・
ただ、頑固親爺だとは、思われている様です。
私より年下の方には・・・
娯楽について考える
娯楽とは、ただ楽しんでいる事を、楽しめる事を指すのだろうか?
楽しめもし、その事を知る事が、娯楽なのではないかと考える。
以前、有る小説家の卵達に聞いてみた。
娯楽としての小説は、このままでいいのかと・・・
大変な反響が帰って来た。
買う人が居る限り、その流れにしかならない、流されるがままにしかならない。
変えたければ、変えられるモノをこそ、貴方が作るべきだと言われてしまった。
変える事を、恐れているのかと思うほどだった。
中には、娯楽であるのだから、教養は必要が無い、とまで・・・
私には、教養があってこそ、娯楽を楽しめるのだと、考える。
教養が無ければ、それすらも楽しいと思えるのだろうか?
私は、ホンの子供の頃、大人達がTVの落語や笑点、漫才を見て笑っている事が、良くは解らなかった。
何故、そのホンの一言で笑えるのか?
その一言の意味が、判らなかった。
今では、ハッキリと判る。
何故、面白いのかが。
それが分かるだけの、教養を兼ね備えたからこそ、見えて来るモノが有り、それが無ければ見えないモノもあると、理解出来る様になった。
その若者向けの小説には、教養は必要だと、私は考える。
楽しむ切っ掛けを与えるべきなのだとも、それについて、知りたいと思わせるべきなのではないかとも。
夢を見させる事が、出来ているのだろうかと・・・
夢を見させる
今、夢を見れるのだろうか?
漠然と、夢を掴める社会になっているのだろうか?
夢を与える事は、出来ているのだろうか?
出来てはいるが、その夢に、溺れている様にも、思えてしまう。
夢を見なくなった人は、現実に溺れる。
夢すらを、見る事が出来ないのでは?
夢を見る人は、夢に溺れる。
現実を見る事を、放棄されてしまう事もあるのでは?
その様に思えてしまう。
私は、極端に考え過ぎてしまうのだろう。
そうならないと思われる事も、考えてしまう事が有るが、危惧するべき事では有るかと、考え込んでしまう。
それが現実とならなければ、それはそれで良いが、それを考えないままで居ると、不安に苛まされる。
考え、答えが出る事ではないが、応えは出せる様にも思う。
古いモノは、教養であり、見るべきモノは無い?
温故知新と言う言葉も有り、古きを知り、新しきを知る。
ただ漠然と読めば、教養となるが、娯楽として見ると、様々なモノが見えて来ると考える。
どう楽しむか、深く入って思い浮かべる事。
自分を、主人公に投影したり。
客観的に見て、こうなっているのではないかと、思い浮かべて見たり。
入り込めるかは、それぞれなので、一様には言えないが、古いからこそ、楽しめるモノの方が多いのかと、考える。
私が最近のモノに入り込めない、入ろうとすると、弾かれてしまうと感じる様に、見えて来るモノが違う様にも、感じている。
ただ、拒むだけで有れば、どんな事でも出来るが、受け入れる事が出来れば、楽しみ方も広がると考える。
教養を娯楽に、娯楽を教養に。
どちらも楽しんでこそ、楽しめてこそ、必要とされると考える。
ただ、娯楽であるだけであれば、教養となる事も、難しいかな?
ただの娯楽のままで有れば、それは淘汰されてしまうのかな?
意味を出す事が出来れば、それは教養になれるかと・・・
今のままで有れば、それは他の人から見て、遊んでいるとだけ、見られてしまうのかと・・・
以前、小説家になる事を夢見た方が、親から猛反発を食らった事で、多数の方に相談された。
そんな下らないモノを作らせる為に、産んだ訳ではないと、言われたそうだ。
理解が有った訳ではないだろうが、そう思わせるモノばかりが多くなっているからこそ、そう言われてしまったのではないだろうか?
娯楽の意味を履き違えられたからこそ、その様に思われた気も・・・
それが、如何に素晴らしいと思われていても、娯楽のままで有れば、この先も反対され続けてしまうのだろうか?
それが、娯楽であり、教養でもあれば。
それが、教養でもあり、娯楽でもあれば、そこまで反対される事も無かったのではないだろうか?
答えは一つではないが、私は、娯楽は教養あってこそ、娯楽たりえると考える。
意味が理解できなければ、それが楽しいと考えさせなければ、娯楽ですら、なくなってしまうと考える。
私はこの様に考える。
ご意見が有りましたなら、お願いいたします。
以前、別の場所で問うた時は、余りの数に圧倒されてしまいました。
何とか、応える事は出来ましたが、余裕は皆無でしたね。
感情的になったり、事務的にしか、対応できなくなっていたり・・・




