赦すと言う事を考える
昨今、赦されざる様な、事件事故が多発している。
その中で、被害者であるのにも関わらず、加害者を赦す事が有る。
そうした人は、何故赦す事が出来たのか?
そうした事を、私なりに考えて見た。
赦すと言う事を考える
誰かを、何かを赦すと言う事がどう言う事なのか、私なりに考えて見た。
誰かを、何かを、赦せると言う事は、そのモノを知る事ではないかと考える。
何故そうなってしまうのか、そうなってしまったのかを考え、悩み、その為にそのモノを理解するに至った時。
人はそのモノを、赦す事が出来るのではないかと考えて見た。
理解する事が出来ず、理解したくない場合は、赦す事は出来ないのでは?
我々日本人は、台風や地震、津波等、多くの自然災害に接する事が多い。
その中で、被害に遭う事もまた、多い。
それでも、自然災害で有る場合は、その事を哀しみ、嘆きはしても、赦す事が出来ているのではないだろうか?
中には、その事が解ってはいても、赦す事が出来ない事も有るかと思うが、理解する事が出来てしまえば、赦してしまうのではないだろうか?
それは、そうなるべくして成ったと言う事を、理解し納得してしまったから、赦してしまうのではないだろうか?
人災である場合、その人の事を、理解しても赦す事が出来ない場合、そうなった事を、まだ理解する事が出来ていないのではないだろうか?
人に非が有り、それを正す。
それで、赦す事が出来る人は少ないが、赦す事が出来た人は、その人の事を、理解する事が出来たのではないだろうか?
理由が有り、そうなってしまった。
その理由を、理解する事が出来てしまったら、その人を赦す事が出来るのでは?
そんな風に考えてしまった。
理解出来るだけの、赦す事が出来るだけの、納得させるだけの理由。
その事を理解してしまう時、人は赦して、赦されてしまうのではないだろうか?
納得出来るだけの理由、理解出来てしまうだけの理解力。
宗教には、様々な相談事が持ち込まれる。
その事を聞き、理解し、納得し得るだけの人物が多かったのではないだろうか?
ただ漠然と聞き流し、赦すのではなく。
そうなり得るだけの、理解が出来た人が居たのではないだろうか?
その事を話し、理解して貰い、赦しを乞う事で、擬似的にでは有るが、赦されたと感じる事が多かったのであろうか?
赦されるだけの理由が有ったとして、その事を理解されるだけのモノであるかは、其々。
理解不能・不足・したくない場合、赦される事は無いのでは?
これは、私なりに考えた結果であり、私のモノの考え方である。
一概には言えないモノである事は、十分に理解しているつもりでは有るのですが、違うご意見が有る場合は、お教え願えればと思います。




