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3.初コンタクト(上)

栗東トレーニングセンターを訪れるたび、ここには独特の密度があると感じる。


馬と人の気配がそれぞれ同じ割合で場に満ちていて、自然の中に厩舎が設けられている欧州とは違う、人が設計した秩序のもとで両者が共生しているような感覚があった。

一斉に動き出す人の数も、敷地内で呼吸をする馬の頭数も、向こうの環境とは根本的に異なる。

『生まれ故郷である国の、競馬の現場』と聞けばそれなりに安心感が生まれてきてもおかしくないのに妙に落ち着かなさが消えないのは、そういった理由からかもしれなかった。


定刻より余裕を持たせて神山厩舎に到着すると、厩舎スタッフの男性が軽く会釈をしてくれた。私も頭を下げた。


「おはようございます。神山です。今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ。馬は元気ですよ」


先週に続いての顔合わせということもあってか、いくらか打ち解けた空気になっていた。

姉の厩舎だからという意識を私がどこかに持っているのは否めないけれど、ここの厩舎の空気感は程よく自由っぽさがあって、穏やかだった。馬の気配が全体に落ち着いて流れている。


今日はホワイトジャンヌ号の2週前追い切りに騎乗することになっている。


ホワイトジャンヌは既に馬装を整えて引き運動を終えた状態だった。

前回馬房で顔を合わせたときと同じように、こちらを向いて耳をそっと立てている。暴れるでも嫌がるでもなくただ静かに、私という存在を確かめるような仕草を見せていた。

芦毛の馬体は朝の光の中でわずかに白く滲んで見えて、小柄ながらも均整のとれた四肢が地面をしっかりと踏んでいた。


“グッドルッキングホース”という表現が競馬の世界では稀に用いられるけれど、ホワイトジャンヌもそれなりに美人のカテゴリーに入るのかなと思った。

でもその表現を当てはめるには少し小柄で可愛らしすぎるかもしれない。デビュー前の若駒という点を考慮しても、その馬体は華奢な部類に入る。


「おはよう」


ホワイトジャンヌの鼻先に手を近づけると、温かい息がかかった。

追い切りに向けての準備をスタッフと進めていく。


「先生から聞いたんですけど、神山騎手はこの馬と付き合いが長いんでしたっけ?」

「当歳の頃から実家で何度か。でも1年の間の数日くらいなので、過ごした期間で言うなら厩舎の皆さんの方が長いですよ」

「馴致も少しつけてたとか」

「一応、はい。……変な癖とかありませんでした?」

「ぜんぜん。いい子ですよ。人懐っこいし前向きだし」


普段から、調教で跨ることになっている馬については前もって情報を集めておくことが多かった。でもこの馬に関してはデビュー前なので過去のレース映像などは存在しない。

得られる情報としては例えば血統面が挙げられるけど、わざわざ調べる必要がないくらいこの馬に関しては知っていた。父グレイスレイン、母シオーネ。母父ミラージュランナー。


あとは、調教開始前のこの時間を使って色々とヒアリングすることもある。たとえば——。


「走りの印象としてはどうですか? 現状の課題とか」

「そうですねえ……もうちょっと力強くなってほしいなとは思います。フォーム自体は綺麗でしなやかさも感じるんですけど、デビューして勝ち上がっていくとなるとこのままじゃ厳しいかなあって」


力強さという点を受けて私は心の中で頷いた。

実家の生産馬であり個人的に思い入れのある子なので庇ってあげたい気持ちはすごくあるけれど、それはそれとして——客観的に見て、現状だと上の方でやっていくには少し厳しいかもしれない。


先ほど感じたように四肢の均整は取れているし、フォームが綺麗だという評価もきっと事実なのだろうと思えた。ただ全体的にまだ線が細い。筋肉の張り方が若く胴まわりの深さも発展途上という印象だった。馬体重にして410キロあるかないかだろうか。


もちろん体格ですべてが決まるほど競馬は単純ではない。されど影響を完全に無視することもできない。

2歳、3歳時の若い馬同士でのレースとなると、コース相性や場数などソフト面の能力よりも「そもそも速く走れるか、パワーがあるか」などハード面の素質がものをいうことは珍しくない。

6月や7月といった比較的早めにデビューする新馬ならまだしも、2歳シーズンも残り2、3ヶ月だ。少なくともこの時点でホワイトジャンヌに早熟という印象は感じられない。


……という分析を、目の前のこの子に誠実に向き合うために行った。


「ほかのジョッキーに乗ってもらったりもしたんですけど、みなさん口を揃えて、キレがないかもって感じのことを言います」

「キレ、ですか」


参考までに誰が乗ったのかを教えてもらうと何人かの名前が返ってきた。私は日本の騎手の人たちのことを必ずしも詳しく知っているわけではないけれど、名前は聞いたことがあった。

調教助手の人も普段よく乗っているものの、馬上での感触は芳しくないという。


「いい子なんですけどね。でもいい子ってだけだとレースは勝って行けませんし。少々のオラオラっぽさも欲しいかもというか」


およそ女の子に使う表現としては斬新に聞こえたので苦笑した。


「いい子に越したことはないじゃないですか。ほんとうに暴れん坊な子だと大変ですよ」


立場は違えど私も馬を育てる環境で幼少期を過ごした人間だし、騎手としても、いわゆる気性難と呼ばれる子のユニークさはよく心得ているつもりだ。

彼も笑った。


「ですね。気性の難しい馬はウチにもいますけど。やんちゃで苦労させられます」


少し離れたところからお姉ちゃんの声がした。

振り返ると、明るめの茶髪をすっきりと後ろで束ねた姿が朝の光の中に立っていた。ウインドブレーカー姿でもどこか隙のない印象がある。


神山琴音、調教師。


「おはよう。今日は楽しみにしてた?」

「はい」


お姉ちゃんを相手にする場合でも、仕事に関するやりとりの際は敬語を使うようにしている。騎手と調教師はそういう関係だと思っている。

私たちジョッキーは依頼を受けないことには何も始まらない。姉自身となにか示し合わせたわけではなく、私の性格と思想からそういう口調を選んでいた。


「確認ね。月末の京都で芝2000を使う予定。今日はとりあえず感触を確かめてみて」

「わかりました」


自分の返事は思っていたよりも落ち着いた声で出た。

先ほどの会話の内容と関連して「もう少しあと、冬にデビューさせることは考えなかったんですか」という旨の質問をしてみようかと思ったけど、直前で控えた。

そもそも何か意図があって出走登録に踏み切ったのだろうし、それを決めるのが調教師だ。


「しっかり追い切るというよりは、ある程度余力を残しつつ完走するイメージで。なにか押さえておきたいことはある?」


余力を残してのゴール。

それだけでおおよその型は想像できたけれど、他に訊いておきたいことは一応あった。


「……この子、あんまり伸びないんですか?さっき少し伺ったんですけど」


先生は少し間を置いた。


「今のところはそういう評価ね。フォームは悪くないけど追っても反応が薄い」

「追い方の問題ということは?」

「それも含めて今日確かめてみてほしいのよ」


答えを教えてもらうのではなく自分で分析してこいということだろうか。訊けば教えてくれるわけではない場面というのがこの仕事ではたまにある。


「わかりました」

「あと——」


わずかに声のトーンが変わった。


「この子、人のことをよく見てるから。それだけ頭に入れておいて」


私は頷いた。


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