第5話 サイゼリヤと三十センチ
土曜日。十一時。鏡の前。
白いブラウスにデニムのスカート。春物のカーディガン。髪は下ろした。ヘアピンは——ダイソーの百十円。成瀬に気づかれなかったやつ。でもつけた。
「紬、出かけるの?」
「うん。友達と」
「男の子?」
「——友達」
母さんが微妙な顔をした。「気をつけてね」とだけ言った。母さんの「気をつけてね」には二種類ある。天気が悪いときの「気をつけてね」と、何かを察したときの「気をつけてね」。今日のは後者。
駅に向かって歩く。ひばりヶ丘。十二分。いつもの通学路。でも今日は制服じゃない。私服。鞄も学校用のリュックじゃなくて、GUで買ったトートバッグ。
駅前に着いた。十一時四十五分。十五分前。早い。早すぎる。
真帆からLINE。
『今どこ?』
『駅前。早く着きすぎた』
『何着てった?』
『白ブラウスにデニムスカート。カーディガン』
『写真送って』
自撮りを撮った。一枚目——目が死んでる。二枚目——顔が引きつっている。三枚目——まあまし。送った。
『かわいい。百点。成瀬は倒れる』
『倒れなくていい。普通に食事できればいい』
『普通の食事じゃないでしょ。デートでしょ』
『お礼だってば。何回言えばわかるの』
『百回言っても信じない。じゃあ行ってらっしゃい。実況はいらないけど、速報は入れて』
スマホをしまった。
ファミマに入った。時間を潰す。雑誌コーナー。ファッション誌を手に取る。開く。「この春のデートコーデ」。——デートじゃない。閉じた。別の雑誌。「彼が喜ぶヘアアレンジ特集」。閉じた。コンビニの雑誌はどれも敵。
ミントガムを買った。口の中が落ち着かない。噛む。吐き出すわけにもいかない。三枚目に手を出した。
十一時五十五分。ファミマを出た。サイゼリヤの前。看板が見える。緑と白。入口の自動ドアの前に観葉植物。
成瀬は——もういた。
黒のTシャツにカーキのパンツ。adidasのスニーカー。白。新品に見える。髪がいつもよりちゃんとしている。ワックスをつけたらしい。右手にスマホ。こっちに気づいていない。画面を見ている。
三メートルの距離から見ている。いつもの距離感。学校の廊下の端から成瀬を見ている感覚と同じ。
——近づかないと。
足が動かない。背中のカーディガンの下に汗がにじんでいる。四月の終わり。暑いのか、緊張なのか。
深呼吸。一回。二回。ミントガムの味がまだ口に残っている。
歩いた。一歩。二歩。三歩。
成瀬が顔を上げた。
「よっ」
「……早いね」
「十一時半から待ってた」
「三十分前?」
「遅刻したら申し訳ないと思って」
「土曜の勉強会のときは二十分遅刻したのに」
「今日は違うだろ」
「何が違うの」
「……お礼だから。ちゃんとしたかった」
ちゃんと。成瀬の口から「ちゃんと」。聞き慣れない言葉。サッカー部の練習には遅刻しない男だけど、それ以外はいつもルーズ。その成瀬が三十分前に来ている。
成瀬が目を逸らした。耳が——赤い? 光の加減かもしれない。スニーカーの白が眩しい。
サイゼリヤに入った。自動ドアが開く。冷房の風。土曜の昼。混んでいる。高校生が多い。四人席に通された。向かい合わせ。
メニューを開いた。成瀬もメニューを開いた。ラミネート加工の、見慣れたメニュー。
「何にする?」
「ミラノ風ドリア」
「即答」
「決めてきた」
「小野寺、準備いいな」
「成瀬は?」
「辛味チキン。あとドリンクバー」
「私もドリンクバー」
注文した。店員が去った。
——二人きり。テーブルを挟んで。向かい合わせ。距離——八十センチくらい。図書室の三十センチより遠い。
遠い。
なんで遠いと感じるんだろう。八十センチは普通の距離だ。カフェでも食堂でもこのくらいが標準。三十センチが異常なのだ。成瀬の距離バグに慣れてしまった私のほうがおかしい。
「小野寺」
「ん」
「改めて、ありがとう。数学」
「いいよ。68点取れたんだし」
「68点。人生最高得点かもしれない」
「最高得点が68点って——」
「言うな。わかってる」
成瀬が笑った。歯を見せる笑い方。眩しい。窓からの光がテーブルに落ちている。
ドリンクバーを取りに行った。私はアイスティー。成瀬はメロンソーダ。
「メロンソーダ好きなの?」
「うん。小学生の頃から」
「味覚が小学生」
「味覚に年齢ないだろ」
「あるよ。大人になるとブラックコーヒー飲めるようになる」
「じゃあ俺は一生子供」
「一生メロンソーダ」
「それでいい。メロンソーダは正義」
成瀬がストローでメロンソーダを吸った。緑の液体が減っていく。子供みたいだと思った。でも悪くない。
周りを見た。隣のテーブルに同じ学校の制服を着た女子が三人。こっちを見ている。——見ないで。お礼なの。お礼。
「成瀬、隣のテーブルの子たちがこっち見てる」
「ん? あー、たぶんうちの学校の子だな」
「月曜に広まるよこれ」
「広まっても困ることなくない?」
「——困る」
「なんで?」
「なんでって……」
「俺は困らないけど」
成瀬がまっすぐ言った。何気なく。ストローを咥えたまま。
——困らない。成瀬は私と一緒にいるところを見られても困らない。
それは——どういう意味だろう。全員に平等な距離バグの男にとって、誰と一緒にいても同じだから? それとも——。
考えるのをやめた。ドリンクバーのジンジャーエールを飲んだ。炭酸が喉を刺す。
料理が来た。ミラノ風ドリア。三百円。チーズが溶けている。辛味チキン。成瀬が一口かじった。
「あっつ」
「出てきたばかりだから当たり前でしょ」
「わかってるけど我慢できない」
「子供」
「さっきから子供子供って」
「事実だから」
成瀬が笑った。——笑ってばかりいる。今日の成瀬は。図書室のときより笑う回数が多い。
「小野寺」
「ん」
「お前って学校だと静かだけど、二人だと結構喋るよな」
「……そう?」
「そう。図書室のときも思ったけど、ツッコミが鋭い」
「真帆の影響」
「真帆さんか。バスケ部の。背が高い人」
「うん。中学からの友達。口が刃物」
「怖い人?」
「怖くないよ。優しい。ただ正直なだけ」
「俺の距離バグのこと、真帆さんも知ってる?」
「知ってるよ。ストップウォッチで計ってたから」
「え? 何を?」
「——なんでもない」
「いや今なんでもなくなかった。何を計ってたの」
「……成瀬が人の頭に手を置く時間」
「は?」
「真帆の趣味。気にしないで」
「気になるけど……」
「気にしないで」
成瀬が首をかしげた。——ストップウォッチの話はまずかった。〇・五秒の差がバレる。
「お前の友達、面白いな」
「面白いよ。迷惑だけど」
「俺、あの人に会ったら何か言われそう」
「確実に言われる。覚悟して」
「怖い」
「怖い人じゃないよ。ただ——成瀬のことは、厳しい目で見てると思う」
「厳しい?」
「距離バグで女子を泣かせた前科があるから」
「……宮崎さんのこと?」
「うん」
成瀬の表情が曇った。辛味チキンを齧る手が止まった。
「俺、あのこと——まだ気にしてる」
「……うん」
「距離が近いから好きだと思った、って言われた。俺はそういうつもりじゃなかったのに。でもそれって——俺が悪いんだよな」
「悪いかどうかは——わからないけど。結果的に傷つけたのは事実だよね」
「うん。事実だ」
成瀬がメロンソーダを飲んだ。ストローの音。空になっていた。
「だからさ——俺、最近考えてるんだ」
「何を」
「距離のこと。全員に同じ距離でいるのが、本当にいいのかどうか」
「……」
「全員に近いから、全員が勘違いする。それって——不誠実じゃないかって」
成瀬がまっすぐ前を見ていた。私を見ていない。窓の外を見ている。駅前のロータリー。バスが発車する。人が流れる。成瀬の横顔が逆光で影になった。
「成瀬がそう思ったなら——変わればいいんじゃない」
「変われるかな」
「変われるよ。数学だって二十一点上がったでしょ」
「数学と性格は違う」
「同じだよ。やるかやらないかだけ」
成瀬がこっちを見た。目が合った。八十センチ。テーブルの上で。
「小野寺——紬」
「ん」
「お前はさ——俺が全員に近いの、嫌?」
嫌。嫌だ。嫌に決まっている。私だけに近くいてほしい。
——でも、それは言えない。
「嫌っていうか——」
「うん」
「私は。成瀬が自分で決めたことなら、それでいいと思う」
「……そっか」
「でもね」
「ん」
「全員に同じように近い必要は——ないんじゃない」
成瀬が黙った。五秒。十秒。メロンソーダのグラスを回している。氷がカラカラと鳴った。
「……だよな」
「うん」
「全員に同じじゃなくていいよな」
「うん」
それ以上は言わなかった。成瀬も聞かなかった。
†
食事が終わった。ドリンクバーのおかわり。成瀬は二杯目もメロンソーダ。私はジンジャーエール。
「小野寺」
「ん」
「俺さ、来月の中間テストもやばいんだけど」
「……知ってる」
「もう一回教えてくれない?」
——え。
「え」
「数学。あと、できれば英語も」
「英語は得意じゃないよ」
「小野寺の得意じゃないは普通の人の得意だろ」
「そんなことない」
「ある。82点取る人間が謙遜するな」
「……」
「ダメ?」
ダメじゃない。ダメなわけがない。
でも——図書室で隣に座る理由が戻ってくる。三十センチの距離が復活する。成瀬の横顔がもう一度見られる。
それを望んでいる自分がいる。
——望んでいるのは数学を教える口実であって、成瀬の隣にいたいからじゃない。
嘘だ。もう嘘だとわかっている。昨日の夜、天井を見ながら認めた。好きかもしれない、と。
「いいよ。教える」
「マジ?」
「マジ。でも条件」
「何でも」
「今度はちゃんと勉強して。47点は許さない」
「60点目標で」
「70点」
「65で」
「70。譲らない」
「……了解」
成瀬が手を伸ばした。テーブルの上。右手。——握手?
手を出した。握った。成瀬の手。大きい。温かい。指が長い。
——あ。
手を握っている。テーブルの上で。サイゼリヤで。土曜の昼に。
三秒。
長い。握手にしては長い。
成瀬の指が——微かに動いた。握り返している。力が強くなった。
「小野寺」
「ん」
「手、冷たいな」
「……緊張してるから」
「なんで緊張してんの」
「——わからない」
嘘。わかっている。
成瀬が手を離した。五秒。握手にしては——長すぎる。
「じゃあ来週から。図書室で」
「うん。水曜日?」
「水曜じゃなくてもいい。毎日でもいい」
「……毎日は多くない?」
「中間テストまで一ヶ月あるから。毎日やれば七十点いけるだろ」
「いける。成瀬がサボらなければ」
「サボらない。小野寺が先生だから」
「先生って呼ぶなって言ったでしょ」
「つい」
「つい、じゃないよ」
「じゃあ何て呼ぶ。小野寺先生?」
「小野寺でいい。先生つけないで」
「小野寺」
「ん」
「名前で呼んでいい?」
——え。
「名前?」
「紬、って」
心臓が——跳ねた。胃が持ち上がった。椅子の上で背筋が伸びた。
「……なんで」
「小野寺だと他の小野寺さんと区別つかないだろ」
「学年に小野寺は私だけだよ」
「将来的にもう一人来るかもしれないし」
「来ない」
「来るかもしれないだろ。保険」
成瀬の屁理屈。——でも。
「……いいよ。呼んでも」
「じゃあ——紬」
名前。下の名前。成瀬の声で。低い声で。目の前で。八十センチの距離で。
顔が熱くなった。耳が熱くなった。テーブルの下で膝を握った。
「どうした。顔赤い」
「暑いから」
「エアコンついてるけど」
「——うるさい」
成瀬が笑った。目が細くなる。口角が左右均等に上がる。嬉しいときの笑い方。
「俺のことも名前で呼んでいい」
「……蒼介?」
「おう」
「——無理。まだ無理。慣れてない」
「じゃあ慣れるまで成瀬でいい。待ってる」
待ってる。
——何を待ってるんだろう。名前を呼ばれるのを? それだけ?
†
店を出た。駅前。午後一時。日差しが明るい。四月の終わり。もうすぐ五月。
日差しが目に入った。手で庇を作る。眩しい。成瀬の横顔にも光が当たっている。
「どうする? まだ時間ある?」
「うん。大丈夫」
「じゃあちょっと歩かない? 駅前の商店街」
ひばりヶ丘の商店街。古い八百屋と新しいタピオカ屋が共存している通り。高校のある駅だから学生が多い。
並んで歩いた。距離——四十センチ。図書室よりは遠いけど、サイゼのテーブル越しよりは近い。
古本屋の前で止まった。ワゴンセール。一冊百円。
「あ、漱石の『こころ』ある」
「買う?」
「持ってるけど。百円なら買ってもいい」
「俺も読みたいって言ってたやつだ。買おう」
成瀬が百円を出した。二冊分。
「私の分は自分で——」
「いいよ。これもお礼」
「百円のお礼」
「追試のお礼は百円の本とサイゼのドリアで構成されています」
「安い人生だね」
「高校生は安い。仕方ない。でもいつか、ちゃんと奢り直す」
商店街の端まで歩いて、駅に戻った。
「送ろうか」
「え?」
「家。近くまで」
「いいよ。一人で帰れる」
「わかってるけど。お礼の一環で」
「お礼はサイゼとドリアと百円の本で十分だったよ」
「安い人だな」
「三百円で十分よ。追試のために必死だった成瀬を見れたから」
——言ってから、後悔した。見れた、と言った。見ていた、と認めた。
成瀬が一瞬止まった。こっちを見た。
「……見てたのか」
「勉強してるとこを。教えてたから。見るでしょ」
「あ——そうか。そりゃそうだ」
成瀬が頭を掻いた。右手で右のこめかみ。照れたときの仕草。
「じゃあ」
「うん」
「じゃ、図書室で」
「うん」
成瀬が手を振った。改札に向かっていく。長い背中。百七十八センチ。人混みの中でも頭一つ分高い。
改札を通る直前に振り返った。
「小野寺」
「ん」
「今日のヘアピン、いいな」
——え。
成瀬が改札に消えた。改札の向こうで、もう一度手を振った。人混みに紛れて見えなくなった。百七十八センチの背中が、他の人の頭に隠れていく。
立ち尽くした。駅前。人混みの中。自動ドアが開閉する音。駅のアナウンス。電車が来る。出発する。人が流れる。
ヘアピン。ダイソー。百十円。
気づいていた。学校では何も言わなかった。制服のときも。私服で勉強会に来た土曜日も。何も言わなかった。
今日、言った。帰り際に。「今日のヘアピン、いいな」。
——なんで今日?
スマホを取り出した。手が震えている。真帆にLINE。
『ヘアピン気づかれた』
三秒で既読。二秒で返信。
『言った???? どのタイミングで????』
『帰り際。「今日のヘアピン、いいな」って』
『死んだ。私が死んだ。紬おめでとう』
『何がおめでとうなの』
『成瀬蒼介がアクセサリーに気づくのは本命だけ。これは藤原くん情報。確度A。ソース直接証言』
『……本命?』
『本命。紬、あんたが。本命。たぶん。九割五分。残りの五分は成瀬の距離バグが生んだ偶然。でも九割五分は本命』
スマホを胸に押し当てた。駅前で。人混みの中で。
本命。
——本命かどうかはわからない。わからないけど。
ヘアピンに触れた。百十円。ダイソー。安い。安いのに——今、世界で一番大事なものみたいに感じている。
成瀬の声が耳に残っている。「今日のヘアピン、いいな」。低い声。改札の向こうから。
改札を通った。ホームに降りた。電車を待つ。
真帆から追加LINE。
『で、名前呼びになったの?』
『成瀬には紬って呼ばれた。私はまだ成瀬のまま』
『はーーー?? 紬呼び???? いつから??』
『今日のサイゼで。中間テストの勉強会の話してるときに』
『ちょっと待って情報が多い。整理させて。①紬呼び ②勉強会継続 ③ヘアピン気づかれた。これ全部今日?』
『全部今日』
『紬。あのね。冷静に聞いて。これはデートだよ。お礼じゃない。デート。サイゼのデート。認めて。いい加減認めて』
『……デートかどうかはわからないけど』
『けど?』
『楽しかった。すごく』
『泣いた。私が。紬のその一言で涙出た。体育館のベンチで一人で泣いてる。チームメイトに心配されてる。紬のせい』
『ごめん。でもありがとう。真帆』
『紬が素直に「ありがとう」って言うの珍しいね。成瀬効果だ。成瀬に感謝する。直接は言わないけど』
スマホをポケットにしまった。
電車が来た。乗り込んだ。窓際の席に座った。
右手でヘアピンに触れたまま、電車が来るまで——いや、電車に乗ってからも——ずっと笑っていた。
窓に映った自分の顔。ダイソーのヘアピン。白いブラウス。
笑ってる。一人で。電車の中で。向かいの席のおばさんが微笑ましそうにこちらを見ている。
止まらなかった。
——成瀬蒼介。距離バグの男。全員に近くて、全員を勘違いさせる男。
でも今日、その男が言った。「全員に同じじゃなくていいよな」と。
その言葉の先に、私がいるのかどうか——まだわからない。
わからないけど。
来週から、もう一度図書室で。三十センチの距離で。隣の席で。
〇・五秒の差が、広がるのか、消えるのか。
それを確かめるのが——怖くて、楽しみだった。




