第4話 追試と頭ぽん
月曜日。朝。教室に入った瞬間、空気が違った。
視線。三つ。五つ。七つ。教室中の目が私に向いている。
「小野寺さん、おはよう」
「……おはよう」
「ねぇ、成瀬くんと付き合ってるの?」
鈴木さんが聞いた。目がきらきらしている。隣の席の子も、その隣の子も、こっちを見ている。
「付き合ってないよ」
「えー。でも毎日放課後一緒にいたって聞いたよ」
「数学教えてただけ」
「数学だけ?」
「数学だけ」
「頭ぽんされたって聞いたけど」
「——誰から聞いたの」
「インスタのストーリー」
加藤さんが横から来た。スマホを見せてくれた。二年一組の誰かのストーリー。写真はないけど、テキストで「成瀬と3組の女子が図書室でいちゃいちゃ→頭ぽん目撃情報あり」と書いてある。
「消してもらえない?」
「もう二十四時間で消えてるよ。でもスクショが出回ってる」
加藤さんが申し訳なさそうに言った。
席に座った。鞄を置く。教科書を出す。手が震えている。——怒りじゃない。恥ずかしさ。頭ぽんを見られていた。あの瞬間を。私だけの〇・八秒を。一秒を。
真帆が隣に座った。
「聞いた?」
「聞いた」
「大丈夫?」
「大丈夫。事実じゃないから」
「事実じゃない部分はどこ」
「……全部」
「全部? 頭ぽんも?」
「頭ぽんは——あったけど、いちゃいちゃじゃない」
「客観的にはいちゃいちゃに見える」
「客観的に見ないで」
「私は主観的に見てるよ。主観的に言うと、紬は成瀬のことが好きで、成瀬もたぶん紬のことが——」
「言わないで」
「——言わない。でも思ってる」
一限目のチャイムが鳴った。国語。先生が教壇に立つ。教科書を開く。『こころ』の続き。先生という存在と、Kと、お嬢さん。三角関係。——今の私に三角関係の話を読ませないでほしい。
二限目。数学。川島先生。
「今日は確率の復習をする。先週の追試結果が思ったより良かったから」
川島先生がちらりと笑った。——成瀬のことだろう。68点。川島先生の殺意ラインぎりぎりで生還した男。
三限目。体育。女子はバレーボール。
体育館でペアを組む。真帆と。パス練習。
「ねぇ紬」
「ん」
「今日の昼休み、成瀬来ると思う?」
「来ないでしょ。追試終わったし」
「来るよ。賭ける?」
「賭けない」
「ポカリ一本」
「賭けないってば」
ボールが顔の横をかすめた。受け損なった。
「紬、集中して」
「真帆が変なこと言うから」
「事実しか言ってない」
体育が終わった。着替える。制服に戻る。髪を直す。——鏡を見る時間がいつもより長い。
「紬、鏡の前長い」
「長くない」
「三十秒長い。計った」
「計るな」
†
四限目が終わった。昼休み。
加藤さんと鈴木さんが席に来た。お弁当を広げる。
「紬ちゃん、今日の卵焼きおいしそう」
「母さんのやつ。いる?」
「いい? ありがとー」
鈴木さんが卵焼きを一切れもらって食べた。「おいしい」と言った。
「ねぇ紬ちゃん、さっきの話なんだけど」
「さっきの話って」
「成瀬くんのこと」
「もういいよその話」
「ごめん。でもちょっとだけ。今朝、4組の子に聞いたんだけど、成瀬くん今朝から落ち着かなかったって」
「落ち着かない?」
「追試の結果が朝のHRで返されるの知ってて、結果見た瞬間ガッツポーズして、そのあとすぐ席立ったんだって」
「席立って——」
「3組に走っていった。紬ちゃんのところに」
鈴木さんが補足した。
「つまり、結果見る→ガッツポーズ→紬ちゃんに報告。この間、約三十秒」
「三十秒で4組から3組まで走るの速くない?」
「成瀬くん、サッカー部だからね。ダッシュは得意」
加藤さんと鈴木さんが顔を見合わせて笑った。私は卵焼きを噛んだ。味がしない。
教室のドアが開いた。
「小野寺!」
成瀬。2年3組の入口に立っている。制服のネクタイが曲がっている。息が上がっている。走ってきたらしい。
教室が——静まった。三十人の視線が成瀬に集まり、次に私に移った。
「追試、68点だった!」
68点。合格。赤点回避。部活停止なし。
「……おめでとう」
「お前のおかげ。マジで」
成瀬が歩いてきた。私の席まで。教室の通路を。三十人の間を。
——来ないで。ここで言わないで。みんな見てる。
成瀬が——頭をぽんとした。
手の温度。指の圧力。髪が押される感覚。
〇・八秒。
いつもの時間。でも場所が違う。教室。昼休み。三十人の前。
顔が熱い。耳が熱い。首まで熱い。視界がぼやける。まばたきを三回した。
「じゃあまた図書室で!」
成瀬が去った。軽い足取りで。廊下に出る直前に振り返って手を振った。にこ、と笑って。何事もなかったみたいに。
——いや、何事もなかったわけがない。教室で。昼休みに。女子の頭をぽんと。
ドアが閉まった。三秒間の沈黙。
教室が——爆発した。ざわつきなんてもんじゃない。全方位から声が飛んできた。前の席から後ろの席まで。右の列から左の列まで。
「小野寺さん、成瀬くんと何?」
「数学教えてただけ」
「頭ぽんされてたけど」
「成瀬は誰にでもやるから」
声が平坦だった。感情を消した。表情を消した。——今、顔が赤いのだけは消せない。
「ねぇ、付き合ってるんでしょ?」
「付き合ってない」
「絶対付き合ってるって」
「付き合ってないってば」
「でも成瀬くん、めっちゃ嬉しそうだったよ? あんな顔初めて見た」
「追試に受かったからでしょ」
「追試であんな顔する?」
「する人もいるでしょ」
「しないよ。成瀬くんの嬉しそうな顔、紬ちゃんに向いてたもん。あれは追試の点数に向けてる顔じゃない」
「じゃあ何に向けてるの」
「紬ちゃんに決まってるでしょ」
鈴木さんがグミを差し出した。キシリトール。いつもの。受け取った。口に入れた。甘い。
「鈴木さん、それ妄想だよ」
「妄想じゃないよ。観察」
「どっちかっていうと真帆の仕事それ」
「真帆ちゃんから引き継いだ。昼休みは真帆ちゃんバスケ部だから、教室の観察は私と加藤さんが担当」
「……担当って何。監視?」
「応援。紬ちゃん応援隊。略してTOT」
「略すな。あと応援って何を」
「紬ちゃんの恋の行方を」
「恋してないってば」
「恋してなかったら成瀬くんに頭ぽんされて顔赤くなんないでしょ」
「暑いからだよ。四月なのに今日暑い」
「四月の最高気温十八度で顔赤くなる人間はいない」
「いる。私」
「はいはい」
——やめて。そういうこと言わないで。期待してしまうから。
加藤さんが助け舟を出してくれた。
「みんな、紬ちゃん困ってるから。ね、席戻ろ」
ざわつきが少し引いた。加藤さんに感謝した。目で。加藤さんが頷いた。
——でも加藤さんの目も「詳細は後で聞く」と言っていた。
†
放課後。真帆が来た。ジャージに着替え済み。
「見た」
「何を」
「頭ぽん。教室で。公開処刑」
「公開処刑って何」
「あのね紬。成瀬が女子の教室まで来て頭ぽんするの、あんただけだからね」
「……え」
「廊下ですれ違いざまにやるのはいつものこと。でもわざわざ教室に来るのは違う」
心臓が跳ねた。——また。
「気のせいだよ。追試の報告に来ただけ」
「追試の報告に頭ぽんは要らないでしょ」
否定できなかった。
「あとね、情報。藤原くんから聞いた」
「藤原? 成瀬の幼なじみの?」
「うん。バスケ部の試合で隣のコートがサッカー部で、話す機会があって」
「何を聞いたの」
「成瀬が追試の点数見た瞬間、最初にやったことが小野寺に報告しに行くことだったって」
「……」
「先生に報告するより先に。チームメイトに言うより先に。藤原くんが『おい結果は?』って聞く前に、もう席を立ってたって」
「藤原くんが追いかけようとしたら、もう廊下にいなかったって」
「……足速いね」
「足が速いかどうかの問題じゃないでしょ。最初に紬のところに走ったの。百メートルを全力で」
「それは——教えてくれた人に報告するのは普通でしょ」
「普通は教室まで走らない。LINEで十分」
真帆の目が真剣だった。ふざけていない。
「あとね、もう一個。さっきバスケ部の着替え中に聞いたんだけど、2組の渡辺さんが成瀬に告白するらしい。来週」
「……え」
「渡辺さん、知ってる? 背が高くてショートカットの子」
「知ってる。バレー部の」
「うん。インスタのフォロワー千五百人のやつ」
「……千五百人」
「紬は何人?」
「百二十」
「勝てないね、数字では」
「勝つとか負けるとかじゃないでしょ」
「でもこのまま黙ってたら渡辺さんが先に動くよ」
「動かなくていい。私は成瀬のことを——」
「紬、私はね、成瀬が紬のことを——」
「言わないでって言ったでしょ」
「言わない。でも紬自身の気持ちは?」
「……わからない」
「わかってるくせに」
「わかってない。本当に」
真帆が溜息をついた。長い。コートのエンドラインからエンドラインくらい長い。
「紬のそういうとこ、好きだけど歯がゆい」
「好きって言わないで。ややこしくなる」
「友情の好きだよ。成瀬への好きとは違う」
「成瀬への好きなんてない」
「じゃあ質問。成瀬が他の女子に告白されたらどう思う?」
「……別に」
「別に、の『……』が全部を語ってる」
「語ってない」
「紬、嘘つくとき間が空くの知ってる? 〇・五秒くらい」
「〇・五秒って——」
「成瀬の頭ぽんと同じ長さ。偶然かな」
「偶然でしょ」
「偶然が多すぎるんだよ、紬と成瀬は」
「はいはい」
「はいはいで流すな」
真帆が立ち上がった。ジャージのジッパーを上げる。ポニーテールを結び直す。
一人になった。教室。夕方。窓から西日。
教室には私と、掃除当番の男子が二人。箒で床を掃いている。私には興味がないらしい。助かる。
右手で自分の頭に触れた。成瀬の手があった場所。もう温度は残っていない。〇・八秒は短い。短すぎる。
でも記憶には残る。三十人の前で頭をぽんとされた記憶。成瀬の笑顔。「お前のおかげ」。声。近さ。
渡辺さんのことを考えた。バレー部。ショートカット。身長が高い。スタイルがいい。インスタのフォロワー千五百人。ストーリーに自撮りを上げる。いいねが三桁つく。
私のインスタ。最後の投稿は三ヶ月前。図書室の窓から見た夕焼け。いいね——十二。そのうち三つは真帆と加藤さんと鈴木さん。
成瀬は渡辺さんのフォロワーだろうか。渡辺さんの自撮りにいいねしてるだろうか。
——調べない。調べたら負け。何に負けるのかわからないけど、負け。
スマホが震えた。LINE。成瀬から。
『今日はありがとう。教室まで行ってごめん。テンション上がりすぎた』
——気づいてた。教室で頭ぽんしたことが、私を困らせたかもしれないと。
成瀬は鈍感だと思っていた。距離バグで、全員に近くて、勘違いさせている自覚がなくて。でも——ちゃんと考えている。自分の行動が相手にどう映るか。少なくとも私に対しては。
胸が締まった。締まるという表現が正しいのかわからない。でも呼吸が浅くなった。
『大丈夫だよ。みんな驚いてただけ。おめでとう。68点すごいよ』
『小野寺のおかげ。マジで。お礼させて。土曜空いてる?』
土曜日。お礼。二人で。
『何するの?』
『飯。奢る。リクエストある?』
飯。食事。二人で。——これは。
加藤さんに見られたら「デートじゃん」と言われる。真帆に見られたら「ついに」と言われる。鈴木さんに見られたら「えーいいなー」と言われる。
違う。お礼。数学を教えた対価。労働の報酬。それだけ。
何が食べたいか考えた。パスタ。ハンバーグ。ラーメン。——成瀬と向かい合って食べるとき、何を食べればいいんだろう。ラーメンは音が出る。パスタはソースが跳ねる。ハンバーグは——普通か。
考えすぎだ。サイゼリヤなんだから。ミラノ風ドリアでいい。三百円。
『なんでもいいよ』
送信。五秒で返事が来た。
『じゃあ駅前のサイゼで。十二時。OK?』
サイゼリヤ。ひばりヶ丘駅前の。高校生御用達。安い。カジュアル。デートの場所じゃない。——安心した。安心した、はず。
でも、もし渡辺さんが来週告白するなら。土曜のサイゼが、成瀬と二人で過ごす最後になるかもしれない。成瀬が渡辺さんと付き合ったら、もう図書室には来ないかもしれない。隣に座らないかもしれない。頭をぽんとしないかもしれない。
——それは、困る。
困る? なんで困るんだろう。成瀬は全員に優しいから、私だけに優しいわけじゃない。渡辺さんに優しくなっても、私への態度は変わらないかもしれない。
でも。
〇・五秒は——消えるかもしれない。
成瀬の手の滞在時間。他の女子より〇・五秒長い、その差。渡辺さんと付き合ったら、その〇・五秒は渡辺さんに移る。
私の〇・五秒が、なくなる。
『OK』
送信した。指が震えていた。
真帆にこの話をするかどうか、三十秒悩んだ。話したら大変なことになる。話さなかったらあとでバレたときもっと大変なことになる。
話す。先手を打つ。
『真帆。土曜に成瀬とサイゼ行くことになった。お礼だって。先に言っておく』
三秒で既読。五秒で返信。
『は?????デートじゃん???』
『デートじゃない。お礼』
『サイゼでお礼=デートの下位互換。高校生にとってのサイゼは大人にとってのフレンチ。常識』
『その常識どこの国の』
『紬の頭の中の国以外全部』
『行かないほうがいい?』
『行け。絶対行け。行かなかったら私が代わりに行く』
『行ってどうするの真帆が』
『成瀬に紬の良さをプレゼンする。パワポ付きで』
『やめて。絶対やめて。プレゼン資料作るのも禁止』
『もう三枚作った。一枚目のタイトルは「小野寺紬の隠れた魅力について——数学力と鈍感力の共存」』
『削除して』
『冗談。半分。じゃあ土曜の報告、楽しみにしてる。写真撮ってきてね。証拠として。あと服装は相談乗るからLINEして』
スマホを伏せた。
土曜日。サイゼリヤ。成瀬と二人。
——お礼。お礼だ。それ以上でもそれ以下でもない。
帰り道。一人。ひばりヶ丘駅までの十二分。今日は長く感じた。
イヤホンを挿した。yamaの『春を告げる』。歌詞が耳に入る。「夜の街に繰り出して」。——私は夜の街に繰り出さない。帰り道の住宅街を、一人で歩くだけ。
駅前のコンビニ。ファミマ。自動ドアが開いた。入った。何を買うか決めていない。棚の前を歩く。お菓子。飲み物。サンドイッチ。
——サイゼの前にコンビニがある。土曜日、早く着きすぎたらコンビニで時間を潰そう。
何も買わずに出た。
駅。改札。ホーム。電車。座る。
右手で自分の頭に触れた。成瀬の手があった場所。髪の上。頭頂部。
成瀬の手は——今日も温かかった。〇・八秒。教室で。三十人の前で。
あの〇・八秒を、学年中が見ていた。私だけのものだった〇・五秒の差が、もう私だけのものじゃなくなった。
渡辺さんが告白するという話。来週。千五百人のフォロワーを持つ、バレー部の、背が高くて顔がいい渡辺さん。
私はフォロワー百二十人の図書委員。
勝てない。——勝ち負けじゃないと言ったのに。
電車が揺れた。窓の外。夕暮れの空。オレンジ。紫。まだ明るい。四月の日は長い。
土曜日まであと五日。
五日間。何を着ていくか。髪をどうするか。なんの話をするか。
——考えてる時点で、もう。
スマホの画面を見た。成瀬のトーク画面。「じゃあ駅前のサイゼで。十二時。OK?」。柴犬のスタンプ。
画面を閉じた。開いた。閉じた。
電車が最寄り駅に着いた。降りる。改札を出る。家まで歩く。
空を見上げた。星はまだ見えない。四月の空はまだ明るい。
鍵を探す。鞄のポケット。見つからない。もう一つのポケット。あった。
成瀬の手の温度を思い出した。〇・八秒分。百十円のヘアピンに気づかなかった成瀬。追試に68点を取った成瀬。教室で三十人の前で頭をぽんとした成瀬。
——好きなのかもしれない。
思った。一瞬だけ。呼吸が止まった。足が止まった。住宅街の真ん中で。信号が青に変わった。動けない。柴犬の散歩をしているおじさんが不思議そうにこちらを見た。柴犬が足元に寄ってきて、靴の匂いを嗅いだ。
——好き。
もう一回、頭の中で言ってみた。テストするみたいに。
心臓が——跳ねた。胃が持ち上がった。手が冷たくなった。全身の血が一瞬で足先に落ちた感覚。
——ああ。
これが恋か。一年間、名前をつけなかっただけで、ずっとここにあったのか。
歩き出した。早足で。打ち消した。今の。今の思考を。無効。キャンセル。Ctrl+Z。元に戻す。何もなかった状態に。
——好きじゃない。好きじゃない。まだわからない。わからないだけ。
家の玄関に着いた。鍵を開ける。靴を脱ぐ。「おかえり」と母さんの声。「ただいま」と返す。
「顔赤いよ。熱ある?」
「ない。走ったから」
「走ったの? 珍しい」
「……ちょっと急いでただけ」
母さんがおでこに手を当てた。冷たい手。母さんの手。——成瀬の手とは違う温度。
「熱はないね。夕飯、カレーだよ」
「うん」
自分の部屋に入る。鞄を置く。ベッドに倒れる。枕に顔を埋める。スマホを握ったまま。
しばらくして仰向けになった。天井を見た。蛍光灯の紐が揺れている。窓の外から子どもの声が聞こえる。近所の公園。
好きかもしれない。
——もう打ち消せなかった。
次話は明日朝7:10に投稿予定




