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第3話 数学と距離

「はい、移項。右辺に移すとプラスマイナスが逆転する」


「逆転」


「そう。こっちにあったプラス3が、右に行くとマイナス3になる」


「……引っ越すと性格変わるみたいな?」


「その例えは間違ってないけど数学的には意味不明」


 木曜日。放課後。図書室。


 成瀬との数学勉強会、初日。


 五限が終わった瞬間、真帆が振り向いた。


「いってらっしゃい」


「どこにも行かない。図書室に行くだけ」


「図書室に成瀬がいるんでしょ」


「……勉強を教えるだけ」


「はいはい。数学ね。恋愛のほうの方程式も解いてきなよ」


「解かない」


「報告は夜のLINEで。詳細に」


「しない」


 真帆がバスケ部のジャージ袋を振り回しながら去っていった。加藤さんが横から顔を出した。


「紬ちゃん、成瀬くんに数学教えるの?」


「……うん」


「えーすごい。二人きり?」


「図書室だから二人きりじゃないよ。他にも人いるし」


「でも隣に座るんでしょ?」


「教えるんだから隣に座らないと見えないでしょ」


「いいなー」


 加藤さんの目がきらきらしている。——この情報が学年に広まるのは時間の問題だ。


 図書室に着いた。成瀬はもう来ていた。三列目、左端。私の定位置の隣。教科書とノートを広げている。手の甲の「小野寺」の文字は薄くなっていたけど、まだ読めた。


 机の上にノート、教科書、テスト用紙、消しゴムのカス。成瀬のシャーペンはドクターグリップ。グリップ部分が汗で曇っている。


 距離——二十五センチ。ノートを一緒に覗き込む体勢。昨日の三十センチより五センチ近い。


 ——数えるな。


「じゃあ次。この問題。二次関数の最大値を求めて」


「最大値ってなに」


「一番大きくなるところ」


「あ、頂点?」


「そう。頂点を求めるには平方完成する」


「平方……なんとか」


「完成。平方完成」


 成瀬がノートにシャーペンを走らせた。手が大きい。指が長い。シャーペンが細く見える。


 字は——汚い。


「成瀬、6と0が同じ形してる」


「え?」


「ここ。これ6? 0?」


「……6」


「見えない」


「見えるよ。丸いほうが0で、ちょっと伸びてるのが6」


「ちょっとしか伸びてないから0に見えるんだよ」


「厳しいな、先生」


「先生じゃない」


「図書室の先生」


「それ昨日もLINEで言ってたけど、やめて」


「なんで? 褒めてるんだけど」


「褒められてる感じがしない」


 成瀬が笑った。肩が揺れる。揺れた肩が私の肩に触れた——一瞬。


「ごめん」


「……いい」


 良くない。心臓が跳ねた。肩。触れた。〇・二秒。事故。偶然。距離バグ。


「じゃ、この式を平方完成して」


「えーっと……」


 成瀬が書く。間違える。消す。書く。間違える。消す。


 消しゴムのカスが積もっていく。机の上に白い山。


「ヒント。xの係数を半分にして二乗する」


「半分にして二乗……」


「そう。ここの4を半分にして2。2の二乗で4」


「あ——わかった。こう?」


「惜しい。符号」


「あ、マイナス」


「正解」


 成瀬の顔が明るくなった。口角が上がる。目が細くなる。——嬉しいときの顔。分類三番目。


「小野寺の教え方、まじでわかりやすい。塾の先生の百倍いい」


「百倍は言い過ぎ」


「百倍。いや千倍」


「インフレしてる」


「事実だから」


 成瀬がまっすぐ私を見た。距離二十センチ。目が合う。


 ——近い。


 視線を逸らした。ノートに目を落とす。次の問題。二次関数のグラフ。放物線。上に凸。下に凸。


 上に凸の放物線は——頂点から落ちるだけ。今の私の心臓みたい。一瞬上がって、あとは落ちていく。


「小野寺、次の問題は?」


「確率やろう。そっちのほうがやばいって言ってたでしょ」


「やばい。サイコロの問題とか意味わかんない。サイコロ振って6が出る確率が六分の一って、振ったら出るか出ないかの二分の一じゃないの?」


「……成瀬、それ本気で言ってる?」


「半分本気」


「残りの半分は?」


「小野寺の反応が面白いから言った」


「……勉強して」


「はい」


 成瀬が問題を解き始めた。静かになる。シャーペンの音だけが図書室に響く。


 窓の外。グラウンドで野球部が声を出している。「ナイスバッティング」。遠い声。図書室は二重窓で、外の音がくぐもって聞こえる。


「小野寺」


「ん」


「お前って休みの日なにしてんの?」


「本読んでる。あと散歩」


「散歩。渋い」


「近くに善福寺公園があるの。池のまわりを歩く」


「いいな。俺もたまには走る以外の運動したい」


「散歩は運動じゃないよ」


「歩くのは運動でしょ」


「成瀬の基準だと立ってるのも運動になりそう」


「ならない。さすがに」


 成瀬が笑った。——この笑い方が好きだ。声を出さずに、肩だけ揺れる笑い方。


 いや、好きとかじゃない。見慣れただけ。五日間、毎日隣にいたから。


「問題、戻って」


「はい、先生」


「先生って呼ぶな」


「じゃあなんて呼ぶ」


「名前でいい。小野寺」


「呼んでるじゃん。小野寺」


「……そうだった」


 †


 勉強会が始まって三日目。土曜日。


 朝、制服じゃなくて私服で家を出た。デニムとボーダーのカットソー。鏡の前で三回着替えた。最終的に一番最初に選んだ服に戻った。


 母さんが「どこ行くの?」と聞いた。「図書室」と答えた。「土曜に?」「テスト対策。友達に教えるの」。母さんが「へぇ」と言った。それだけ。何かを察したような、察していないような顔。


 図書室は平日より空いている。私たちだけ。カウンター当番は一年の佐々木さん。先日予約カードを書いていた子。「あ、先輩。こんにちは」と言われた。


「こんにちは。今日は生徒として来てるから気にしないでね」


「はい」


 三列目に座った。いつもの席。成瀬はまだ来ていない。


 十分待った。十五分。スマホを見た。LINEはない。鞄から小川洋子を出して開いた。読めない。活字が滑る。


 二十分。ドアが開いた。


 成瀬。私服。黒のパーカーにジーンズ。NIKEのスニーカー。フードが首の後ろで潰れている。髪がいつもより跳ねている。寝癖。


「ごめん、寝坊した」


「……何時に起きたの」


「九時半。家出たの九時四十五分。ダッシュで来た」


「集合十時だったんだけど」


「ごめんって。チャリで事故りそうになった」


「事故らないで。追試の前に怪我したら意味ない」


「たしかに」


 成瀬が隣に座った。私服だと距離感が違う。制服は鎧みたいなもので、私服は——素に近い。パーカーのフードの紐が片方だけ長い。


 成瀬のパーカーから柔軟剤の匂いがした。ダウニー。うちと同じ。


「小野寺、私服初めて見る」


「え——あ、うん」


「似合うな。ボーダー」


「……ありがとう」


 三回着替えた甲斐があった。いや、そういう意味じゃない。


「成瀬も私服だと雰囲気違うね」


「どう違う?」


「……普通っぽい」


「普通って褒めてる?」


「褒めてる。制服のときは芸能人みたいだから」


「芸能人は盛りすぎ」


「山田が言ってた。『成瀬は制服が一番盛れてる男』って」


「山田のあだ名センス信用すんなよ」


「距離バグは的確だったでしょ」


「……うるさい」


 佐々木さんがカウンターからちらちらこちらを見ていた。私服の男女が隣同士で座っている。——カップルに見えるだろうか。見えない。見えるわけがない。


「成瀬、ここの計算違う」


「どこ」


「ここ。3×4が13になってる」


「……あ」


「3×4は?」


「12。やべ」


「算数からやる?」


「やめて」


 成瀬が頭を抱えた。パーカーのフードが前にずれた。頭を抱えるとき、前髪の間から指が見える。長い指。爪が短い。サッカー選手は爪を短く切る、と聞いたことがある。


「小野寺」


「ん」


「なんでこんなに教えるの上手いの?」


「別に上手くないよ。成瀬がわからないところを聞いてくるから、そこを説明してるだけ」


「それが上手いんだって。塾の先生は最初から全部説明する。俺がどこでつまづいてるか見てくれない」


「……そう?」


「そう。お前は俺のことよく見てる」


 心臓が——止まった。一瞬。


 見てる。成瀬のことを。一年間。


 ——違う意味だ。成瀬は数学の話をしている。私の「観察」の話じゃない。


「……ありがとう。でも数学だけだよ」


「数学だけで十分。マジで助かってる」


 成瀬が右手を伸ばした。私の頭に——


 ぽん。


 手が乗った。髪に指が触れる。頭頂部に重さと温度。


 一秒。


 ——一秒?


 長い。いつもより。〇・八秒じゃない。一秒。それ以上。


 手が離れた。成瀬の手が。私の頭から。


「ありがとな、小野寺」


「……うん」


 声が出なかった。かすれた。成瀬は気づいていない。もうノートに戻っている。


 一秒。


 ——伸びた。〇・八秒が一秒に。


 真帆に報告すべきだろうか。「〇・二秒増えた」と。真帆なら折れ線グラフを更新するだろう。右肩上がり。


 ——何を考えているんだろう。


 †


 金曜日。勉強会最終日。明日が追試。


 朝、教室に入ったら加藤さんが駆け寄ってきた。


「紬ちゃん、大変。学年LINEで広まってる」


「何が」


「紬ちゃんと成瀬くんが毎日放課後図書室で二人きりって」


「……二人きりじゃない。他にも人いるし」


「でもそう見えるんだって。昨日見た人がストーリーに上げてた」


「ストーリー?」


「『成瀬と女子が図書室でいちゃいちゃしてた』って」


「いちゃいちゃしてない。数学教えてただけ」


「数学を教えてる距離感じゃなかったって」


 心臓が冷えた。距離。二十センチ。ノートを覗き込む距離。教える側と教わる側の距離。——私にとっては「教えるために必要な距離」だった。でも外から見たら「成瀬の距離バグに巻き込まれた女子」に見えるのか。


 真帆が横から言った。


「ストーリー上げたやつ、消させる?」


「いい。明日で勉強会終わるから」


「紬——」


「いいってば」


 放課後。図書室。


 成瀬の表情が硬い。いつものへらへらした笑顔がない。ノートを睨んでいる。


「ここ、もう一回説明して」


「確率の加法定理。事象AとBが同時に起こらないとき——」


「同時に起こらない?」


「サイコロで1が出るのと2が出るのは同時に起きないでしょ」


「あー」


「その場合、AもしくはBが起きる確率は、P(A)+P(B)」


「足すだけ?」


「足すだけ」


「嘘でしょ。そんな簡単?」


「簡単。確率は基本足すか掛けるかしかない」


「数学って二種類しかないの?」


「もっとあるけど、今の成瀬にはこの二つで十分」


「限定的な教育」


「効率的な教育って言って」


 成瀬がペンを置いた。伸びをする。長い腕が天井に向かって伸びる。椅子がきしむ。制服のシャツが引っ張られて、腰のあたりの肌が一瞬見えた。


 ——見てない。見えてない。


「なぁ、自販機行かない? 喉渇いた」


「いいよ」


 廊下の端の自販機。成瀬が百円玉を入れた。


「小野寺、なに飲む?」


「自分で買うよ」


「教えてもらってんだから俺が奢る。何がいい?」


「……じゃあ、緑茶」


「おーいお茶な。はい」


 ペットボトルを渡された。指が触れた。冷たい。ペットボトルの冷たさと、成瀬の指の温度が混ざった。


「ありがとう」


「こちらこそ」


 図書室に戻った。席に着く。ペットボトルを開ける。成瀬はカフェオレ。甘い匂い。


「なぁ小野寺」


「ん」


「追試終わったらさ」


「うん」


「お礼したい。なんか奢る」


「いいよ別に」


「よくない。毎日付き合ってもらったし」


「数学教えただけだよ」


「だけじゃないよ。俺、勉強が楽しいと思ったの初めてだから」


 ——楽しい。


 成瀬が勉強を楽しいと言っている。それは——私がいるから? 数学がわかるようになったから?


「……じゃあ、追試受かったらね」


「受かる。絶対受かる。小野寺の教え方で落ちたら俺の脳の問題だから」


「脳の問題だったらどうしようもないね」


「ひどい」


「冗談」


「小野寺って冗談言うんだな。最初のイメージと違う」


「最初のイメージって何」


「静かで、真面目で、近寄りがたい感じ」


「……近寄りがたい?」


「うん。図書室で一人で本読んでる姿が——なんか、完成されてた。入り込む隙がない感じ」


 完成。隙がない。


 ——それは違う。私は不完全で、隙だらけだ。成瀬が近くにいると呼吸の仕方を忘れるくらい。


「成瀬の第一印象は『近い人』だった」


「それ全員に言われる」


「でしょうね」


「小野寺にも近い?」


「……普通」


 嘘。普通じゃない。今も二十センチ。世界で一番近くて、一番遠い距離。


「あー、俺の距離バグ、気持ち悪いよな。ごめん」


「気持ち悪くないよ」


「でも宮崎さんには迷惑かけた」


 成瀬の声が少し低くなった。シャーペンの手が止まっている。


「……成瀬は悪くないよ」


「悪くなくても結果的に傷つけた。告白されて断って。『そういうつもりじゃなかった』って。最低だろ、その返し」


「最低じゃないよ。正直なだけ」


「正直と最低は両立する」


 成瀬が自嘲するように笑った。口角の左側だけ。さっきと同じ笑い方——ではない。もっと暗い。影がある。


「俺、たぶんこの先も誰かに勘違いされる。近いから。それが怖い」


「……怖いなら、少し距離を取れば?」


「取れない。気づいたらこの距離にいる。体が勝手に動く」


 ——体が勝手に。


 それは言い訳? それとも本当?


 成瀬が教科書に目を戻した。会話が途切れた。図書室の時計の秒針が聞こえる。


「……次、確率の問題やろう」


「うん」


 教科書を開いた。確率。「ある事象が起きる確率は、その事象の場合の数を全体の場合の数で割ったもの」。


 成瀬蒼介が小野寺紬にだけ〇・五秒長く触れる確率は——計算できない。標本が足りない。変数が多すぎる。感情は数式に乗らない。数学は万能じゃない。少なくとも、この胸の痛みには。


 †


 図書室を出た。廊下で柏木結衣とすれ違った。成瀬と同じクラスの、髪が長い、顔が整った女子。


「あ」


「あ——小野寺さん?」


「うん」


「成瀬に数学教えてるんだって?」


「……うん」


「ありがとう。あいつ、追試落ちたら部活停止なんだよ。困ってたんだ」


「部活停止?」


「うちの学校、赤点取ると二週間部活禁止。サッカー部の次の試合に出られなくなる」


「……知らなかった」


「成瀬、そういうこと言わないタイプだから。頼むね」


 柏木さんが微笑んで去っていった。長い髪が揺れる。廊下の照明の下で、影が伸びていた。


 柏木結衣。成瀬の幼なじみ。美人。背が高い。成瀬の隣に立っても絵になる人。


 私とは違う。


「小野寺さん」


 振り返った。柏木さんがまだいた。


「成瀬のこと——よろしくね。あいつ、数学だけじゃなくて、いろいろ不器用だから」


「……うん」


 柏木さんの目が優しかった。保護者の目。弟を見守る姉の目。——恋人の目じゃない。


 それを確認した自分が、少し嫌だった。


 ——部活停止。成瀬がそんなに追い込まれていたとは知らなかった。「やばい」とは言っていたけど、冗談っぽく。深刻さを隠していた。


 成瀬が私に頼んだのは、ただの「便利な選択肢」じゃなかったのかもしれない。本当に必死だったのかもしれない。


 ——でも、だとしたら、なおさら。数学が終わったら、この関係も終わる。


 †


 帰り道。LINEが来た。成瀬から。


『明日の追試がんばる。落ちたらごめん。教え方は完璧だった』


 返信。


『がんばって。公式のメモ見返してね。あと6と0をちゃんと書き分けて』


『笑。了解。6は長く伸ばす。0は丸く閉じる』


『それでいい』


『小野寺のおかげで数学好きになりそう』


 スマホを胸に押し当てた。駅のホームで。背中がベンチの背もたれに沈む。


 好きになりそう。数学が。


 ——数学が。


 真帆からのLINE。


『追試前日。勉強会どうだった?』


『普通。最終確認した』


『頭ぽんあった?』


『……あった。土曜日に』


『秒数は?』


『一秒』


『前回〇・八。増えてる。グラフ更新する』


『やめて』


『やめない。これは学術研究。テーマ「成瀬蒼介の接触時間と対象者別比較分析」。提出先は紬の恋心。査読なし。即採択』


『意味がわからない』


『わかるくせに。おやすみ。明日は成瀬の追試結果を最速で報告してね』


 スマホを閉じた。


 明日。成瀬が追試に受かったら。勉強会は終わる。図書室で隣に座る理由がなくなる。


 受かってほしい。成瀬のために。


 でも——受かったら、この距離が元に戻る。


 二十センチが三十センチに。三十センチが三メートルに。三メートルが廊下の端と端に。


 ——受かってほしくない、なんて思っていない。思っていない。


 電車の窓に映った自分の顔。ダイソーのヘアピン。百十円。成瀬は気づいていなかった。制服のときも。私服のときも。


 気づかなくていい。これは私のための百十円だから。


 ポケットの中でスマホが震えた。成瀬から。


『さっきの確率の公式、もう一回送って。紙に書いたけど自分の字が読めない』


『P(A∪B)=P(A)+P(B) ※AとBが排反のとき』


『ありがとう。神。仏。小野寺』


『神仏と並べないで』


 口角が上がった。窓に映った自分の顔。——笑ってる。電車の中で、一人で、スマホを見て笑ってる。


 向かいの席の老夫婦が微笑ましそうにこちらを見ていた。


 ——見ないで。


 スマホを鞄にしまった。顔を伏せた。


 明日で、終わる。


 ——嘘つき。


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