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第2話 図書室の定位置

「紬ちゃん、今日図書当番?」


「うん。水曜だから」


「大変だねー。放課後遊べないじゃん」


 加藤さんが残念そうに言った。鈴木さんが「私たち先にマック行ってるね」と手を振る。


「いいよ。行ってきて」


「なんか買っとく?」


「ポテトのSで」


「了解。取り置きしとく」


 二人が教室を出ていった。真帆はバスケ部。残ったのは私一人。


 真帆が朝言っていた。「今日水曜だね」。それだけ。ニヤニヤしながら。水曜=サッカー部オフ=成瀬が図書室に来るかもしれない日。真帆の頭の中にはたぶん相関図がある。私と成瀬と図書室の三角関係。


「何ニヤニヤしてんの」


「してない」


「してた。今日の水曜が楽しみなんでしょ」


「図書当番が楽しいわけないでしょ」


「図書当番が楽しいんじゃなくて、図書室に来る人が楽しいんでしょ」


「——黙って朝練行って」


「行ってきまーす」


 真帆はバスケシューズを鞄に入れて走っていった。残された私。教室の窓際。朝の七時五十分の会話が、六時間たってもまだ頭から消えない。


 鞄から図書委員の腕章を出した。白地に紺の文字。「図書委員」。一年のときからつけている。特に志望したわけじゃない。じゃんけんで負けた。


 でも——嫌いじゃなかった。一年前のあの日以来、この腕章は「成瀬蒼介と接点が生まれた理由」になっている。図書委員じゃなかったら、あの日図書室にいなかった。あの日図書室にいなかったら、成瀬に本を取ってもらっていない。


 図書室は南棟の三階。教室から歩いて二分。階段を上がると、本の匂いがする。古い紙と、少しだけ埃。窓から西日が差している。四月の午後四時。


 カウンターに座った。返却本の山。三冊。少ない日。バーコードを読み取って、返却処理。


 閲覧席を見回した。四列の長机。各列に四席ずつ。計十六席。今日は——三人。手前の列に参考書を広げた三年生が一人。奥の列にノートPCを開いた先生が一人。


 三列目は空いている。窓際の左端。私の定位置。当番じゃない日はあそこに座って本を読む。


 入口が見えるから。


 ——誰が来るか確認するため、じゃない。単に居心地がいいだけ。窓から風が入るし、西日が直接当たらない角度だし。


 返却本を棚に戻す。日本文学のコーナー。「な」行の棚。夏目漱石の隣に中島敦を挿した。


 棚を拭く。ついでに。別に几帳面なわけじゃない。手持ち無沙汰なだけ。


 新着図書のコーナーに一冊追加した。今週の新着。住野よるの新刊。帯に「あの頃の息が苦しい恋を、もう一度」と書いてある。息が苦しい恋。——いま息が苦しいのは恋のせいじゃない。水曜日のせいだ。


「あの、この本の予約ってできますか」


 振り向いた。一年生の女子。おどおどした顔。


「あ、できるよ。カードある?」


「はい」


「じゃあここに名前と日付を書いて」


 予約カードを渡す。一年生が丁寧な字で名前を書いた。佐々木さん。


「二週間以内に届くから。通知はLINE? それとも紙?」


「LINEでお願いします」


「了解」


 処理を終えて、一年生が小さく頭を下げて出ていった。図書委員の仕事。地味だけど、誰かの役に立っている感覚がある。


 時計を見た。四時十五分。


 水曜日。サッカー部のオフ日。


 成瀬が来るかどうかは五分五分。先週の水曜は来た。先々週は来なかった。その前は来た。パターンはない。


 カウンターに戻った。自分の本を開いた。読めなかった。目が文字の上を滑る。


 四時二十分。


 入口のドアが開いた。


 心臓が——いや。開けたのは二年五組の女子。知らない子。本を一冊返して出ていった。返却カードに名前を書くとき、爪がピンクだった。ジェルネイル。校則違反。私には関係ない。


 四時二十五分。スマホを見た。真帆からLINE。


『いま体育館。コーチが鬼。死ぬ。成瀬来た?』


『来てない』


『まだ来るよ。水曜はいつも四時半過ぎだったでしょ』


『なんで真帆が成瀬の来館パターン知ってるの』


『紬の視線ログから逆算した』


『怖い』


『怖くない。友情です。じゃ練習戻る。報告よろしく』


 スマホを伏せた。真帆の観察力はバスケのコート上だけにしてほしい。


 四時三十分。


 ドアが開いた。三年生の男子。参考書の棚に直行した。私には目もくれない。赤本を三冊抱えて席に座った。受験生。必死。


 四時三十五分。


 もう一人。二年の男子。知っている顔。2年1組の山田。あだ名の天才。「距離バグ」の命名者。


「あ、小野寺さん。当番?」


「うん」


「この本ある? 『ノルウェイの森』」


「海外文学の棚。あっちの端」


「ありがとう」


 山田が棚に向かった。——まさか、山田と成瀬が一緒に来るパターン? ない。山田はサッカー部じゃない。文芸部。対角線上の人種。


 四時四十分。


 来ないかもしれない。来なくていい。来なくても困らない。本を読もう。小川洋子。博士の愛した数式。記憶が八十分しか持たない博士。——私の成瀬に関する記憶は一年持っている。博士の七・五倍。


 四時四十五分。


 ドアが——ゆっくり開いた。


 成瀬。


 制服のネクタイが緩い。ブレザーは脱いでいる。シャツの袖が肘まで捲ってある。右手に缶コーヒーのBOSS。左手に文庫本。


 汗の匂い——しない。制汗スプレーの匂い。練習後にシャワーを浴びたのかもしれない。サッカー部がオフでも自主練をしている、という話を加藤さん経由で聞いたことがある。


 成瀬が歩いてくる。棚の間を抜けて——三列目。窓際。


 左端。私の定位置の——隣。


 他の席は空いている。十六席のうち十二席が空席。選び放題。なのに——隣。


「よっ」


「……よっ」


 自分の声が変だった。高い。かすれている。


 成瀬が椅子を引いて座った。三十センチ。いつもの距離。缶コーヒーを机に置いた。BOSS。微糖。ラベルが少し剥がれている。文庫本を開く。


 ——近い。


 肩から肘までの距離。三十センチ。隣の席なんだからそのくらいの距離は普通だ。普通。これは教室の席配置と同じ。何も特別じゃない。


 でも教室の隣の席は出席番号で決まっている。選べない。ここは選べる。十二席空いていて、成瀬は——隣を選んだ。


 意味はない。たぶん。去年からこの席に座っていたから、習慣なだけ。私がいるから隣に来たわけじゃない。偶然。ただの習慣。いつもの距離バグ。


 本を開いた。読めない。文字が目に入らない。成瀬のシャンプーの匂いがする。フローラル系。たぶんパンテーン。


 ——なんでシャンプーの銘柄を推測してるんだろう。


「小野寺」


「ん」


 声が裏返りそうになった。喉を押さえた。


「今日のテスト、数学どうだった?」


「82点」


「すげー。俺47」


「勉強しなよ」


「してるよ。してるけど忘れる」


「それは勉強してないのと同じ」


「厳しいな」


 成瀬が笑った。近い。目尻の皺が見える距離。睫毛が長い。


「つーか小野寺、いつも何読んでんの?」


「今は——これ」


 表紙を見せた。小川洋子の『博士の愛した数式』。


「あ、知ってる。映画になったやつ?」


「うん。でも原作のほうがいい」


「どういう話?」


「記憶が八十分しか持たない数学者の話」


「八十分? 俺の数学の記憶もそのくらいだわ」


「成瀬のは八十分じゃなくてゼロでしょ」


「ひでぇ」


 成瀬が笑った。さっきと違う笑い方。口を開けて、首を少し反らして。楽しいときの笑い方。


 ——分類している。成瀬の笑い方を。


「貸して。その本、読み終わったら」


「いいよ。でも成瀬に数学の話わかるの?」


「わからなかったら小野寺に聞く」


「教科書の数学も聞いてほしいんだけど」


「それは別料金で」


 冗談が——出た。自分でも驚いた。成瀬と冗談を言い合っている。図書室で。隣に座って。


 成瀬が文庫本を開いた。東野圭吾の『容疑者Xの献身』。表紙が折れ曲がっている。何度も読んだ本みたい。


「成瀬、東野圭吾好きなの?」


「うん。ミステリーが好き」


「意外。もっとスポーツ系の本読んでると思った」


「スポーツは身体で十分。頭は別のことに使いたい」


「……へぇ」


「小野寺は? 好きな作家」


「小川洋子と、江國香織と、あと——」


「あと?」


「……夏目漱石」


「渋い」


「渋くない。『こころ』は普通に面白い」


「国語の授業で読んだやつ?」


「そう。先生の朗読は眠くなるけど、一人で読むと違う」


「へぇ。今度貸して」


「成瀬に漱石は難しくない?」


「ひどいな。俺だって小説は読める。数学ができないだけ」


「数学もできるようになるよ。来週には」


「マジで頼むわ」


 成瀬が本に集中し始めた。横顔。頬杖をついている。ページをめくる指が長い。左手の小指に小さな傷跡がある。サッカーで突き指した跡だろうか。


 図書室の成瀬は静かだ。廊下の成瀬とは別人みたい。声が小さくなる。表情が凪ぐ。距離バグの男じゃなくて、ただの男子高校生。本に没入している。


 ——この顔を、私しか知らなかったらいいのに。


 思って、すぐに打ち消した。図書室は開放されている。誰でも来る。成瀬の静かな横顔は私だけのものじゃない。


 五分経った。十分経った。ページをめくる音だけが聞こえる。成瀬のページと、私のページ。交互に。


 西日が動いた。机の上の光の四角形がゆっくりとスライドしていく。成瀬の手の上に光が乗った。


 十五分。二十分。


 成瀬が急に顔を上げた。


「小野寺」


「ん」


「このミステリーの犯人、数学の先生なんだけど」


「ネタバレ」


「あ、ごめん。読んだ?」


「読んだ。映画も観た」


「マジか。じゃあ犯人の動機わかる?」


「わかるけど言わない。自分で読んで」


「ケチ」


「ケチじゃない。ミステリーはネタバレしたら終わりでしょ」


「たしかに」


 成瀬が笑って本に戻った。


 三十分が経った。西日が傾いて、成瀬の髪に光が当たった。茶色がかった黒。ワックスをつけていない。自然なくせ毛。


「小野寺」


「ん」


「教えてくれない? 数学」


「——え」


「テスト対策。来週の追試やばくて。47点だと川島先生に殺される」


「川島先生、別に殺しはしないでしょ」


「比喩的に殺される。追試の再追試って聞いたことある?」


「ない」


「俺もない。でも川島先生なら作る」


 成瀬が真剣な顔をしている。本当に困っているらしい。


「……いいけど」


「マジ?」


「マジ。でも条件がある」


「何でも言って」


「図書室では静かにすること。声が大きい」


「あ——ごめん」


 成瀬が声のボリュームを落とした。でも距離はそのまま。三十センチ。


「明日から?」


「追試いつ?」


「来週の金曜」


「じゃあ明日から毎日やろう。範囲は?」


「二次関数と確率」


「全部じゃん」


「全部わからない」


「47点のテスト、持ってる?」


「ある。見る?」


「見せて。どこで間違えてるか確認したい」


 成瀬が鞄からテスト用紙を出した。折り目がぐちゃぐちゃ。赤ペンで47と書いてある。川島先生の字。怒りが滲んでいる。


 テストを広げた。近い。成瀬の肩が私の肩にほぼ触れている。二十センチ。


「ここ。符号が逆」


「あー」


「ここも。公式の当てはめが違う」


「あー……」


「あと、ここ。計算は合ってるのに最後の答えを写し間違えてる」


「は? マジで?」


「マジ。四点損してる」


「うわ。じゃあ本当は51点じゃん」


「51点でも赤点だよ」


「でも47よりマシ」


「マシでもダメ」


 成瀬が頭を抱えた。テスト用紙を睨んでいる。——真剣な顔。こういう顔は教室では見られない。


「……どうやって47点取ったの」


「勘。あとカンニングじゃなくてマジの勘」


「わざわざ否定しなくていいよ」


「いや、川島先生に一回疑われたから。『お前この問題の正答パターン、授業で教えてない解法だけど』って」


「それ逆にすごくない?」


「天才か馬鹿かどっちかだって言われた」


「どっちだったの」


「馬鹿のほう」


「だろうね」


 成瀬が笑った。口角の左側だけ上がる笑い方。自虐のとき。


 成瀬が頭を掻いた。照れたときの仕草。右手で右のこめかみあたりを搔く。


「ありがとう、小野寺。マジで助かる」


 成瀬が私の肩をぽんと叩いた。


 軽い。手のひらの感触。指の圧力。ブレザー越しなのに温度が伝わる。


 ——何秒。


 〇・八秒。


 数えてしまった。反射的に。心臓が跳ねている。肩が熱い。


「じゃ、俺そろそろ帰るわ。明日からよろしく!」


「うん。教科書持ってきてね」


「了解!」


 成瀬が立ち上がった。文庫本を鞄に入れて、缶コーヒーの空き缶を持って。


「あ、小野寺」


「ん」


「LINE教えて。問題の写真とか送りたい」


「——あ、うん」


 スマホを取り出した。手が震えている。画面を開く。QRコード。成瀬のスマホがかざされた。近い。手と手の距離。十センチ。成瀬のスマホケースは黒。画面にヒビが一本入っている。


 ぴこん、と音。友達追加完了。


 成瀬のアイコン。サッカーボールと青空。名前は「そうすけ」。ひらがな。ステータスメッセージは「蹴る、読む、寝る」。——読む、が入っている。図書室の成瀬を知っている人が作ったプロフィール。


「登録したよ」


「ありがとう。じゃ、明日ね」


「教科書忘れないでよ」


「忘れない忘れない。メモした」


 成瀬が左手の甲を見せた。油性ペンで「数学 教科書 小野寺」と書いてある。


「……手に書くの、中学生?」


「確実だろ。スマホのメモは見忘れるけど、手は見る」


「私の名前が手に書いてあるの、なんか恥ずかしいんだけど」


「え? あ——ごめん」


 成瀬が慌てて手を引っ込めた。耳が赤い。——耳。


「じゃ、明日ね」


「うん」


 成瀬が図書室を出ていった。ドアが閉まる。足音が遠ざかる。


 図書室が静かになった。三年生も帰ったらしい。先生もいない。山田もいつの間にかいなくなっていた。『ノルウェイの森』は棚に戻されていた。借りなかったらしい。


 窓の外。空がオレンジから紫に変わりかけている。校庭の照明がついた。野球部がまだ練習している。


 成瀬が座っていた椅子を見た。少し引かれたまま。缶コーヒーの結露の跡が机に丸く残っている。


 スマホを見た。LINE。友達一覧。「そうすけ」の名前が増えている。アイコンの青空が画面の中で光っている。


 一年間、連絡先を知らなかった。同じ学年にいて、同じ図書室に通って、それでも知らなかった。


 数学のために。追試のために。それだけの理由で。


 ——それだけの理由でいい。


 友達一覧を閉じた。トーク画面は開かなかった。開いたら何か送りたくなる。送ったら返事が来る。返事が来たら返したくなる。その繰り返しの先に何があるか——考えたくなかった。


 カウンターの業務を終わらせた。閉館処理。窓を閉める。椅子を戻す。成瀬の椅子も。電気を消す。鍵を職員室に返す。


 校門を出た。ひばりヶ丘駅まで歩く。四月の空気。住宅街の生垣からジャスミンの匂い。


 イヤホンを挿した。プレイリストを開こうとして——やめた。


 成瀬の声がまだ耳に残っている。「ありがとう、小野寺」。低い声。距離三十センチから届く声。イヤホンの音楽で上書きしたくなかった。


 スマホが震えた。LINE。


『そうすけ:今日はありがとう。明日からよろしくお願いします!図書室の先生笑』


 図書室の先生。


 ——先生。


 生徒から先生への感情は安全だ。尊敬であって、恋ではない。成瀬は私を「数学を教えてくれる便利な人」として見ている。それでいい。それがいい。


 返信を打った。消した。打った。消した。打った。


『よろしく。教科書忘れないでね』


 送信。八文字。三分かかった。


 すぐに既読がついた。


『了解!絶対忘れない!』


 ビックリマークが二つ。成瀬はLINEでもテンションが高い。スタンプが続いて届いた。柴犬が敬礼しているやつ。


 ——かわいい。


 いや、柴犬が。スタンプが。成瀬がかわいいとは言ってない。


 駅に着いた。改札をSuicaで通る。ホームで電車を待つ。所沢方面。あと三分。


 スマホの画面を閉じた。開いた。閉じた。成瀬のトーク画面。柴犬のスタンプ。閉じた。開いた。


 真帆からのLINE。


『成瀬とLINE交換したんだって? 進展じゃん』


 ——早い。情報が早い。どこから漏れた。


『数学教えてただけ』


『はいはい。数学ね。x + y = ラブ のやつ?』


『その方程式は存在しない』


『存在するよ。紬の中に』


『しないってば』


『数学は恋の始まり。証明は終わらない。QED』


『意味わからない』


『わかるくせに。てか明日から毎日図書室で二人きりなんでしょ? 進捗報告よろしく』


『報告するものがない』


『あるようになるから。賭けてもいい。ポカリ一本』


 真帆の予言は、不本意ながら的中率が高い。中学のとき「紬は高校でメガネからコンタクトにする」と言って当てた。「紬は理系に行く」も当てた。「紬は大学で猫を飼う」はまだ検証されていない。


 電車が来た。乗り込む。窓際の席に座った。車両は空いている。向かい側に老夫婦。手を繋いでいる。三十年以上一緒にいるような手の繋ぎ方。力が入っていない。自然。


 ——三十センチの距離で隣に座っただけで心臓がおかしくなる私には、あの境地は一生来ない。


 スマホをポケットにしまった。


 右の肩が——まだ温かい気がする。〇・八秒分の温度。


 明日。木曜日。放課後。図書室。成瀬と二人で数学。


 自分の左手の甲を見た。何も書いていない。でも成瀬の手には「小野寺」の三文字がある。油性ペンで。消えるまで。


 ——眠れない予感がした。

次話は明日朝7:10に投稿予定

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