第1話 0.5秒の差
「成瀬くん、今日の放課後サッカー部見に行っていい?」
「いいよ」
にこ、と笑って相手の肩にぽんと手を置く。三十センチの距離。女子の顔が赤くなる。
「成瀬、昼メシ一緒に食おうぜ」
「おう」
男友達の肩に腕を回す。身長百七十八センチ。長い腕が自然に相手を引き寄せる。
成瀬蒼介の半径三十センチには、常に誰かがいる。廊下。昼休み。磁石みたいに人が集まる。
私——小野寺紬は、廊下の端からそれを見ていた。いつも通り。一年間ずっと。
「今日も見てる」
隣で真帆が言った。
「見てない」
「嘘。成瀬が3組の前を通るたびに首が十五度回るの、知ってる?」
「計るな」
「計ってない。目測」
真帆。私の親友。バスケ部。身長百六十八センチ。サバサバしていて口が刃物。中学から同じクラスで、私の視線の先を読む精度が年々上がっている。
廊下の向こうで、成瀬が後輩の女子と話している。顔を覗き込む。笑う。後輩の耳が赤くなる。
「ほら見て。もう一人沼に落とした」
「真帆、実況しないで」
「実況じゃない。戦況報告」
「誰も戦ってない」
「戦ってるよ。学年の女子全員が成瀬の距離バグと戦ってる。勝率ゼロ」
成瀬が後輩の頭をぽんとした。手の滞在時間——〇・三秒。反射的に計った自分に気づいて、視線を逸らした。
「ねぇ紬、いい加減認めなよ」
「何を」
「成瀬のこと好きでしょ」
「好きじゃない」
「じゃあなんで視線が追いかけてんの」
「……追いかけてない。偶然視界に入るだけ」
「偶然が一年間?」
否定できなかった。
「ほら。黙った」
「黙ってない。考えてるだけ」
「考えてる時点で負け」
真帆がペットボトルの午後の紅茶を飲みながら言った。ストローの先を噛む癖。中学から変わらない。
「てか紬、今日のヘアピン変えた?」
「……気づくの早くない?」
「三限のときから気になってた。セリアの?」
「ダイソー。百十円」
「成瀬向け?」
「違う」
「ダウト。百十円の自己投資、ターゲットは成瀬蒼介」
「ヘアピンにターゲットとか言わないで」
「事実を述べただけ」
事実じゃない。昨日の夜、鏡の前で三十分迷ったのは事実だけど、成瀬のためじゃない。たぶん。おそらく。
「あのね真帆、成瀬は全員に近いの。私だけじゃない」
「知ってる。距離バグ」
「でしょ。だから意味ない」
「意味ないと意味あるの間で揺れてるから見てるんでしょ」
——刺さった。
「紬ちゃん、真帆ちゃん、お昼一緒に食べない?」
声をかけてきたのは隣の席の加藤さん。クラスの情報通。LINEグループの管理人を三つ兼任している。髪をいつもハーフアップにしている。スマホケースがほぼ毎週変わる。
「いいよ。屋上行こ」
真帆が答えた。私は頷くだけ。
「あ、鈴木さんも呼んでいい?」
「いいよ」
四人になった。鈴木さんは隣の席のおっとり系。よく飴を配る。今日もキシリトールグミをくれた。
屋上。四月の風。東京都内の、偏差値五十八の、普通の共学高校の屋上。フェンスの向こうにグラウンドが見える。サッカー部が走っている。背番号十——成瀬。見ない。見ない。見てない。
加藤さんがファミマのサンドイッチを開けながら言った。
「ねぇ聞いた? 成瀬くん、今度も告白されたらしいよ」
「誰に」
「1組の宮崎さん」
「宮崎さん? あの子、二週間前にインスタのストーリーで匂わせてたけど」
「そう。で、振られた」
「振られたの?」
「『ごめん、そういうつもりじゃなかった』だって」
真帆が鼻で笑った。
「いつものやつね」
「いつものやつ。これで三人目?」
「四人目。一年のときに二年の先輩にも告白されてる」
加藤さんの情報精度は異常だ。学年の恋愛事情がスプレッドシートで管理されているんじゃないかと思うことがある。
「宮崎さん、泣いてたって。『近かったから好きなのかと思った』って」
「——そりゃそうなるよ」
真帆が言った。午後の紅茶のストローを噛みちぎりそうな勢いで。
「成瀬の距離バグ、あれほんと罪だよ。顔覗き込むし、肩触るし、頭ぽんするし。全員にやるから全員が勘違いする」
「でも成瀬くん、悪気ないんだよね?」
加藤さんが言った。
「悪気がないからタチ悪いんでしょ」
真帆の声が少し硬くなった。宮崎さんとは同じ中学だったはずだ。
「紬は?」
「え」
「紬は成瀬のこと、どう思ってんの」
加藤さんの目がきらりと光った。情報通の目。
「別に。何も」
「嘘」
真帆と加藤さんの声が重なった。
「紬ちゃん、嘘つくとき右の眉だけ上がるの知ってる?」
「知らない」
「今上がってるよ」
右手で眉を押さえた。反射的に。真帆が笑った。加藤さんも笑った。
「成瀬のことは好きでも嫌いでもないよ。ただ——」
「ただ?」
「——一年前に図書室で本を取ってもらっただけ。それだけ」
「それだけで一年間見てるの、恋って言うんだよ」
加藤さんが断言した。ファミマのサンドイッチの最後の一切れを飲み込みながら。
「違う」
「違わない。紬ちゃんの辞書に『恋』って載ってないだけ」
「載ってるよ。国語は得意」
「じゃあ認めなよ」
「認めるものがない」
真帆が溜息をついた。長い溜息。バスケ部のコートチェンジより長い。
「紬のこのかたくなさ、どうにかなんないかな」
「ならない。生まれつき」
「知ってる」
†
五限目。数学。川島先生が教壇に立っている。三十代。眼鏡。声が低い。
「じゃ、この二次関数の——」
廊下側のドアが開いた。成瀬。プリントの束を持っている。
「川島先生、4組から書類です」
「ああ。置いといて」
成瀬が教壇に歩いてきた。川島先生の机にプリントを置く。距離——三十センチもない。
「成瀬、近いぞ」
「あ、すいません」
笑顔。半歩下がる。でも三十センチ。普通の人の五十センチに比べて、二十センチ狭い。
「いつも言ってるだろ。パーソナルスペースって知ってるか」
「知ってます。五十センチくらいのやつですよね」
「お前のは三十だ」
「え、そんなに近いですか?」
「近い」
教室が笑った。成瀬も笑った。川島先生だけ笑っていない。毎日このやりとりをしているんだろう。
成瀬が帰り際、教室を見回した。
目が合った。
〇・三秒。いや、もっと短い。瞬きひとつ分。成瀬の目が私のところで止まって——すぐに外れた。
「紬、顔赤い」
前の席の真帆が振り返って小声で言った。
「赤くない」
「赤い。トマト」
「黙って。川島先生に当てられる」
「小野寺、そこ。次の問題」
「——はい」
立ち上がった。足が微かに震えている。黒板まで歩く。チョークを取る。
二次関数。解の公式。手が動く。数学は得意だ。頭を使っている間は余計なことを考えなくていい。
「正解。小野寺は数学のセンスがあるな」
「……ありがとうございます」
「進路、理系も考えていいんじゃないか。観察力もあるし、研究者向きだ」
川島先生が言った。何気なく。でもその言葉が胸のどこかに引っかかった。研究者。観察力。——成瀬を観察し続けている私の、どこが研究者なんだろう。
席に戻る。真帆が親指を立てている。
「観察力。成瀬観察のことでしょ」
「違う」
「違わない」
†
始まりは一年前。高一の六月。図書室。
放課後。私は図書委員で、カウンター当番だった。返却された本を棚に戻していた。
図書室は静かだった。テスト前でもないのに来る生徒は少ない。窓から西日が入って、古い紙の匂いと埃の匂いが混ざっていた。
閲覧席に人がいた。
成瀬蒼介。隣のクラス。サッカー部。教室ではいつも人に囲まれている男。
一人だった。
一人で本を読んでいた。文庫本。タイトルは見えない。頬杖をついて、ページをめくる指が長い。
珍しい、と思った。この人が一人でいるのを見たのは初めてだった。
廊下での成瀬は太陽みたいな人だ。周りに人がいて、笑い声があって、常に三十センチの距離に誰かがいる。
図書室の成瀬は——違った。静かで、表情が凪いでいて、本に集中している横顔が教室のときと別人みたいだった。
本を棚に戻そうとした。成瀬の座っている列。上から三段目。手を伸ばす。届かない。あと五センチ。背伸びする。つま先立ち。指先が本の背に触れる。でも押し込めない。
「はい」
背後から腕が伸びてきた。長い腕。私の頭の上を越えて、本を棚に押し込んだ。
振り返った。
成瀬。立ち上がっていた。近い。背中に体温を感じる距離。二十センチ。
制汗スプレーの匂いじゃない。汗と——日なたの匂い。六月の午後の、グラウンドの匂い。
「ありがとう」
「ん。図書委員?」
「うん」
「大変だな。一人で」
「慣れてるから」
「そっか」
それだけ。それだけだった。
成瀬は席に戻った。文庫本を開き直した。何事もなかったみたいに。
私は——棚の影で立ち止まっていた。手に持った本を胸に押し当てて。
心臓が煩い。指先が冷たい。足の裏が床に張りつく感覚。
——なんだろう、これ。
成瀬はもう本に戻っている。頬杖。ページをめくる。私のことなんて三秒で忘れたみたいに。
当たり前だ。本を取ってあげただけ。それだけのこと。
でも私の心臓は——五分経っても収まらなかった。カウンターに戻って、返却本の記録をつけて、閉館のアナウンスを入れて、成瀬が「じゃ」と手を上げて出ていったあとも。
図書室に残った日なたの匂いを、しばらく吸っていた。
あの日から一年。
†
問題は——成瀬蒼介が「距離バグの男」と呼ばれていることだ。
言い始めたのは2年1組の山田。あだ名をつける天才。去年「数学テロリスト」(川島先生)、「声帯国宝」(合唱部の田中先輩)、「早弁キング」(野球部の吉田)を生み出した男。命名センスだけで校内のフォロワーが二百人いる。
「距離バグ」は今年の最高傑作だと山田本人が言っていたらしい。学年中に広まった。インスタのストーリーで「#距離バグ」がトレンド入りした日もあった。本人の耳にも入っている。
「距離バグって俺のこと?」
「お前以外に誰がいるんだよ」
藤原がそう言ったらしい。加藤さん経由の情報。
成瀬蒼介のパーソナルスペースは、通常の人間より三十センチ狭い。
男にも女にも近い。先輩にも後輩にも近い。川島先生には毎日「成瀬、近いぞ」と言われている。
頭をぽんとする。肩を組む。顔を覗き込む。全員に。平等に。
だから——好きになっても意味がない。
宮崎さんの件が学年中に広まった。LINEで、インスタのDMで、教室の隅で。「成瀬に騙された」という声も出た。でも成瀬は——騙したつもりなんてない。ただ近いだけ。全員に。
それが——たちが悪い。
悪意がない分だけ、刃が深く入る。好きになった側が一方的に傷つく。「だって近かったから」。その言葉を、宮崎さんの前で誰も否定できなかった。
「宮崎さん、かわいそう」
六限後、教室で加藤さんが言った。
「でも気持ちわかるよ。あの距離で笑いかけられたら勘違いするって」
「わかるー。私も一瞬あれ?って思ったことある」
隣の席の鈴木さんが言った。
「鈴木もなの?」
「ほら、去年の文化祭の準備のとき。暗幕運ぶの手伝ってくれて、めっちゃ近くて。でもそのあと隣の子にも同じ距離で手伝ってたから——あ、全員か、って」
「それな。全員なんだよね」
「全員」
加藤さんと鈴木さんが頷き合った。
「紬ちゃんも気をつけなよ? 成瀬くんの距離バグに引っかかったら宮崎さんの二の舞だよ」
「引っかかってないよ」
「引っかかってないならいいけど」
加藤さんの目が微妙に泳いだ。知ってるのかもしれない。私の視線が成瀬を追っていること。
鈴木さんがスマホを取り出した。TikTok。画面に成瀬の動画が流れている。体育祭のリレー。去年の。
「これ、見た?」
「誰が撮ったの」
「2組の誰か。バトン渡すとこ見て。アンカーの女子とのバトンパス」
画面の中で、成瀬が走ってくる。バトンを渡す。次の走者の手を——握る。一瞬。
「この握り方。距離バグじゃなかったら完全に恋人」
「でも全員にやるんでしょ?」
「全員にやる。それが距離バグ」
「怖い」
「怖いよ。天然のホストだもん」
鈴木さんがグミをもう一個口に放り込んだ。
「あ、そういえば成瀬くんって柏木さんと付き合ってないの?」
「付き合ってないよ。幼なじみ」
「えー、あんなに一緒にいるのに?」
「柏木さん、この前『私は成瀬の保護者みたいなもの』って言ってたよ」
「保護者って何」
「距離バグの被害者を増やさないように見張ってるんじゃない?」
四人で笑った。屋上の風にポテチの袋が飛びそうになって、鈴木さんが慌てて押さえた。私だけ、笑いが一瞬遅れた。
柏木結衣。2年4組。成瀬と同じクラス。髪が長い。顔が整っている。成瀬の隣にいても絵になる人。
私は——絵にならない。成瀬の隣に立ったら、廊下のモブだ。背景。名前のない通行人。
「紬ちゃん、顔暗い」
「暗くない。日陰にいるだけ」
「日向に来なよ」
「日焼けするから」
鈴木さんが笑った。加藤さんも笑った。真帆だけ笑わなかった。私の視線がグラウンドに一瞬向いたのを、たぶん見ていた。
帰り支度をしていたら、真帆が近づいてきた。バスケ部のジャージに着替え済み。
「紬」
「ん」
「さっきの宮崎さんの話」
「うん」
「あれ聞いてどう思った?」
「どうって——」
「怖くなった?」
図星だった。真帆はいつもこうだ。私の気持ちに、私より先にたどり着く。
「……少し」
「だろうね」
真帆が鞄を肩にかけた。
「でもね紬。宮崎さんと紬の違いがひとつある」
「何」
「宮崎さんは成瀬に三ヶ月で告白した。紬は一年間見てるだけ」
「それ、私のほうが重症って意味?」
「そう。手遅れとも言う」
「最悪」
「自覚があるだけマシ」
真帆が練習に行った。廊下の角を曲がるとき、振り返って言った。
「紬、成瀬を避けるなら今だよ。一年過ぎたらもう戻れない」
「避ける理由がない」
「あるでしょ。好きだから」
「——好きじゃないって」
「はいはい」
真帆の後ろ姿が消えた。バスケシューズがキュッと鳴る音が廊下に残った。
教室に戻った。鞄を取る。
窓の外。校庭にサッカー部がいた。走っている。成瀬がボールを蹴った。ゴール前。キーパーが弾く。成瀬が頭を抱えた。チームメイトが背中を叩く。成瀬が笑う。
遠い。三十メートル。教室から校庭まで。
三十メートルの距離から、成瀬の笑い方の種類がわかる。今のは悔しい寄りの笑い。口が「あー」の形になっている。
——そんなこと、わかりたくなかった。
鞄のジッパーを閉めた。教室を出た。振り返らなかった。振り返ったら成瀬が見える。見たら数えてしまう。距離を。時間を。〇・五秒を。
†
帰り道。一人。
校門を出る。学校の最寄りは西武線のひばりヶ丘駅。歩いて十二分。住宅街を抜ける道。コンビニの前に他校の男子がたむろしている。犬の散歩をしているおばあさんとすれ違う。柴犬。尻尾が丸い。
四月の夕方。まだ明るい。桜は散った。葉桜。緑が濃くなり始めている。電線にスズメが三羽。空が薄い橙色。
スマホを見た。LINEの通知が三件。クラスのグループ。加藤さんが明日の持ち物を確認している。真帆が「紬、明日の朝練のあと駅前のドトールで勉強しない?」と送ってきている。返信。「いいよ」。加藤さんのグループには既読だけつけて閉じた。
イヤホンを挿した。プレイリスト。最近はずっとyamaを聴いている。『春を告げる』のイントロが耳に流れる。
右手を見た。
先週。体育の授業。合同で二クラス一緒だった。準備運動で円陣を組んだとき、隣が成瀬だった。
偶然。座席が出席番号順で、小野寺と成瀬は近い。
円陣で手を繋いだ。体操の号令。手を上げる。下ろす。
その間。成瀬の右手が私の左手を握っていた。普通の、体操の、手繋ぎ。
でも——終わったとき。「はい、解散」の声がかかったとき。
成瀬の指が——離れなかった。
〇・五秒。
他の人は号令と同時に手を離す。成瀬も隣の男子とは同時に離した。
私の手だけ——〇・五秒遅れた。
気のせいだ。気のせいのはずだ。全員に近い男の、全員への優しさの、ほんの少しの揺らぎ。
「紬、成瀬ね、あんたのときだけ頭ぽんの手が〇・五秒長い」
昼休みの真帆の声が蘇った。
「観察した。他の女子——〇・三秒。あんた——〇・八秒。差、〇・五秒」
「計ったの?」
「体育の授業のとき、ストップウォッチ借りた」
「何してんの」
「科学的検証」
真帆が真顔で言っていた。冗談と本気の境界が存在しない女。レポート用紙にデータまで取っていた。折れ線グラフ付き。横軸が日付、縦軸が秒数。
「〇・五秒なんて誤差でしょ」
「距離バグの男にとっての〇・五秒は、普通の男の告白に等しい」
「大袈裟」
「あんたが鈍感」
帰り道の夕暮れの中で、左手を握った。開いた。握った。
〇・五秒の感触を、指が覚えている。
——数えていた。自分でも気づかないうちに。
一年間、ずっと。
明日も成瀬は三十センチの距離で笑うだろう。全員に。平等に。頭をぽんとして、肩を触って、顔を覗き込んで。宮崎さんみたいに泣く子がもう一人出るかもしれない。
私はならない。泣かない。告白しない。遠くから見るだけ。それでいい。それがいい。
その中の——〇・五秒だけが、私のものだ。
そんなわけ、ないのに。




