『お前といても何も面白くない』と婚約破棄された地味な私ですが、壁越しに聞こえる隣人の声に救われ、手紙だけで恋をしていたら——「もう遅いんです」と元婚約者に告げる日が来ました
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この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「お前といても何も面白くない。もっと華やかな人がいい」
——三年経った今でも、あの言葉は錆びた釘のように胸に刺さったままだ。
築三十年、家賃五万二千円。壁の薄さだけは近隣でも有名な桜ヶ丘アパート二〇三号室。私、柊真冬の城は、六畳一間のこの空間だけだった。
会社では「空気のような存在」と呼ばれている。七年間、誰よりも早く出社し、誰よりも丁寧に仕事をこなしてきた——つもりだ。けれど私は、誰の記憶にも残らない。
肩につくくらいの黒髪をいつも一つに結び、化粧も最低限。服装も無難なグレーやベージュばかり。華がない。つまらない。そう言われ続けてきた。
でも、誰も知らない。
私が匿名で綴り続けているブログ「眠れない夜のための手紙」に、十万人のフォロワーがいることを。顔も声も知らない人たちが、私の言葉を待っていてくれることを。
——言葉だけが、私の唯一の武器だった。
◇ ◇ ◇
十一月の雨が窓を叩く夜。
いつものように遅い夕食を終え、明日の資料に目を通していた時だった。
——すすり泣く声が、聞こえた。
最初は空耳かと思った。けれど確かに、隣の二〇四号室から微かな嗚咽が漏れ聞こえてくる。
(……泣いている)
私は知っている。この声を。
壁越しに聞こえてくる発声練習。低すぎず高すぎない、耳に心地よく残る独特の響き。「おはようございます」から始まり、時にはアニメのセリフらしきものを繰り返す、その声。
顔も名前も知らない。けれど孤独な夜、あの声に何度救われたか分からない。
誰かが懸命に何かと戦っている。その気配が、私を少しだけ強くしてくれていた。
(……でも、今日は)
嗚咽は止まない。静かに、けれど確実に、誰かの心が壊れていく音がする。
私は立ち上がった。
冷蔵庫を開け、買い置きのココアを取り出す。安いコンビニの紙パックだ。それから、仕事用のメモ帳を破り、ペンを握った。
何を書けばいいのか分からない。でも、言葉だけは——言葉だけは、私の唯一の武器だから。
『隣の者です。もしよければ、温かい飲み物でも。コンビニのココアですが、ポストに入れておきます』
迷った。こんなことをして気味悪がられないだろうか。お節介だと思われないだろうか。
でも、三年前の私が欲しかったのは、たった一言の優しさだった。
公衆の面前で婚約破棄を言い渡された夜。誰も手を差し伸べてくれなかった。誰も「大丈夫?」と言ってくれなかった。私は一人で、安いワインを飲んで、泣いて、それでも翌朝には何事もなかったように出社した。
——だから。
メモを折りたたみ、そっと隣室のドアの隙間に差し入れた。ココアはポストに。足音を忍ばせて、自分の部屋に戻る。
返事は期待していなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、出勤前にポストを開けた私は、息を呑んだ。
丁寧な字で書かれた便箋が入っていた。罫線から少しはみ出した「朝」の字が、どこか不器用で、温かかった。
『ありがとうございます。あなたの優しさに救われました。顔も名前も知らない隣人より』
——ああ。
繋がった、と思った。
会社では空気のような存在で、誰の印象にも残らない私。けれどこの瞬間、確かに誰かの心に届いた。
雨上がりの空は、少しだけ青かった。
◇ ◇ ◇
手紙のやり取りが始まって、二週間が経った。
週に二通から三通。最初は当たり障りのない内容だった。「今日は寒かったですね」「お仕事お疲れ様です」——そんな、どこにでもある言葉の交換。
けれど、文字には不思議な力がある。
声では言えないことが、指先からは流れ出す。表情を取り繕う必要がないから、心の奥底まで言葉にできる。
私は彼を『朝の住人』と呼ぶようになった。彼は私を『冬の隣人』と呼んだ。
『冬の隣人さんへ。今日、またオーディションに落ちました。「声は悪くないけど、華がない」と言われました。華って、なんでしょうね。僕の声には、ないそうです。——朝の住人より』
便箋を握りしめる手に、力がこもった。
華がない。その言葉を、私も知っている。
「お前といても何も面白くない」
「もっと華やかな人がいい」
三年前、和泉圭吾に投げつけられた言葉。同僚たちが見ている前で、笑いながら言い放たれた。
私には華がなかった。だから捨てられた。
——でも。
ペンを取る。
『朝の住人さんへ。あなたの声、聞いたことがあります。壁越しに漏れ聞こえる練習の声。私はその声に何度も励まされました。華がないなんて、嘘です。少なくとも私は、あなたの声に救われた夜があります。それは、真実です。——冬の隣人より』
◇ ◇ ◇
翌朝。ポストを開けると、いつもより分厚い封筒が入っていた。
『冬の隣人さん。僕は声優を目指しています。といっても、もう二十六歳で、目立った実績もなくて、実家からは「いい加減まともな仕事に就け」と言われ続けていて。正直、もう諦めようかと思っていました。でも、あなたの手紙を読んで、泣きました。僕の声を「救われた」と言ってくれた人は、あなたが初めてです。——ありがとうございます。もう少しだけ、頑張ってみます。朝の住人より』
追伸、と続いていた。
『お願いがあります。これからも手紙を続けてくれませんか。その代わり、ルールを決めましょう。——絶対に顔を合わせない。本名は明かさない。そうすれば、純粋に言葉だけで繋がれると思うんです』
私は微笑んだ。
言葉だけで繋がる。それは、私がずっと求めていたものだった。
会社では誰にも見てもらえない。存在を認識すらされない。けれど、匿名で綴り続けたブログには十万人のフォロワーがいる。顔も声も知らない人たちが、私の言葉を待っていてくれる。
——そう、言葉だけでいい。言葉だけで、人は繋がれる。
返事を書いた。
『朝の住人さんへ。約束します。私たちは、言葉だけの隣人でいましょう。——冬の隣人より』
その夜。壁越しに、発声練習の声が聞こえてきた。
いつもより少しだけ明るい声で、彼は繰り返していた。
「おはようございます。今日も頑張りましょう」
私は目を閉じて、その声に耳を傾けた。
◇ ◇ ◇
手紙のやり取りを始めて、一ヶ月が過ぎた頃。
「柊さん、これコピーお願い」
「柊さん、会議室の予約しておいて」
「柊さん——あれ、いたの?」
株式会社ヴェルデ・コーポレーション、総務部。私の職場だ。
七年間、この会社で働いてきた。毎日始発で出社し、誰よりも早く準備を整え、誰よりも丁寧に仕事をこなしてきた——つもりだ。
けれど私は、誰の記憶にも残らない。
「えーと、柊さんって何年目だっけ」と、入社二年目の後輩に聞かれたことがある。七年目です、と答えたら「え、マジっすか」と驚かれた。
存在感がない。華がない。空気のような女。
——分かっている。自分でも。
その日も、いつものようにデスクで書類を整理していた。昼休みの賑やかなオフィス。私だけが静かにサンドイッチを齧っている。
そこに、聞き覚えのある声が響いた。
「久しぶりだね、皆さん」
心臓が、凍りついた。
——和泉圭吾。
三年前、私を捨てた男が、にこやかな笑顔でオフィスに立っていた。
「いやあ、ちょっと近くまで来たからさ。元気にしてる?」
隣には、華やかな女性が腕を組んでいた。ブランドもののワンピース、完璧にセットされた髪、自信に満ちた笑顔。
——見せびらかしに来たのだ。新しい婚約者を。
「紹介するよ、僕の婚約者。来月には式を挙げるんだ」
周囲がざわめく。「おめでとうございます」「お似合いですね」という声が飛び交う。
私は俯いたまま、書類に視線を落としていた。気づかれませんように。このまま空気でいられますように——
「あれ、真冬もまだいたんだ」
——見つかった。
圭吾は私のデスクまで歩いてきて、にやりと笑った。
「相変わらず地味だね。三年経っても何も変わってないんだ」
周囲の視線が集まる。好奇と憐憫が混じった目。ああ、この女が例の——という囁き。
「……お久しぶりです」
声が震えそうになるのを、必死に抑えた。
「元気にしてた? まあ、真冬は元気もなにも変化ないか。ずっとこのまんまって感じだよね」
笑い声。同僚たちの中には、気まずそうに目を逸らす人もいたけれど、誰も助けてはくれない。
「お前さ、まだ独り身なんだろ? まあ、そうだよな。お前みたいな地味な女、誰も選ばないもんな」
(……昔なら、泣いていた)
三年前の私なら、トイレに駆け込んで泣いていただろう。自分の価値のなさを突きつけられて、消えてしまいたくなっていただろう。
でも——
『あなたの言葉に救われました』
朝の住人の手紙が、脳裏をよぎる。
『僕の声を「救われた」と言ってくれた人は、あなたが初めてです』
——私の言葉には、価値がある。
少なくとも、一人の人間を救える力がある。たとえ圭吾に認められなくても、会社で空気扱いされても、私の言葉を待っている人がいる。
「……そうですね」
私は静かに答えた。
「私は変わっていないかもしれません。でも、それでいいと思っています」
圭吾は一瞬、面食らったような顔をした。
「……は? 何それ」
「お幸せに、和泉さん。婚約おめでとうございます」
丁寧に頭を下げて、私は書類を持って席を立った。
背中に突き刺さる視線を感じながら、給湯室へ向かう。
——大丈夫。私は、大丈夫だ。
ポケットの中には、今朝届いた手紙が入っていた。
『今日、大きなオーディションがあります。あなたの言葉を胸に、挑んできます。——朝の住人より』
彼も今、戦っているのだ。
なら私も、逃げない。
◇ ◇ ◇
数日後。
ポストを開けた私は、震える手で便箋を取り出した。
『冬の隣人さんへ。
受かりました。
信じられません。三次審査まであったオーディションで、最終的に僕が選ばれました。役は——『蒼穹のリリカル』という新作アニメの重要キャラクター、主人公の兄役です。
審査員に言われました。「君の声には、聴く人の心に寄り添う温かさがある」と。
その瞬間、僕はあなたのことを考えていました。
「あなたの声に救われた」と言ってくれた、顔も知らない隣人のことを。
あなたのおかげです。本当に。
——朝の住人より』
手紙を読み終えた時、私は泣いていた。
嬉しかった。心の底から。
誰かの夢が叶う瞬間を、こんなに近くで見届けられるなんて。しかもそれが、私の言葉がきっかけだったなんて。
——『蒼穹のリリカル』。
その名前に、見覚えがあった。
検索してみる。来期放送予定の新作アニメ。制作は大手スタジオ。原作は人気ライトノベル。
——私が、密かに追いかけていた作品だった。
原作を読んで、心を打たれた。主人公の兄は、穏やかで優しく、けれど誰にも言えない孤独を抱えたキャラクターだ。
その役を、朝の住人が演じる。
壁越しに聴いていたあの声が、大好きなキャラクターに命を吹き込む。
胸が熱くなった。
『朝の住人さんへ。
おめでとうございます。本当に、本当におめでとうございます。
実は——『蒼穹のリリカル』、私も大好きな作品です。原作を何度も読み返しました。主人公の兄、透夜のセリフは、いつも私の胸に刺さります。
あなたの声で透夜が聴ける。こんなに嬉しいことはありません。
夢を諦めなくて、本当によかった。あなたの声には、人の心に寄り添う力があります。きっとこれから、もっとたくさんの人を救うでしょう。
私は、あなたの最初のファンとして、ずっと応援しています。
——冬の隣人より』
ポストに手紙を入れた夜。
壁越しに、彼の声が聞こえてきた。
セリフの練習だ。原作で読んだことのある、透夜のセリフ。
「——大丈夫。俺が傍にいる」
その声を聴きながら、私は目を閉じた。
傍にいる。顔を合わせたことはない。名前すら知らない。でも確かに、彼は私の傍にいてくれた。
同時に、胸の奥で何かが疼いた。
——会いたい。
その声の主の顔が見たい。どんな表情でこの声を出しているのか知りたい。
でも。
『絶対に顔を合わせない。本名は明かさない』
私たちが決めたルール。このルールがあるから、私たちは純粋に言葉だけで繋がれている。
——このままでいい。このままがいい。
そう自分に言い聞かせながら、私は手紙を書き続けた。
◇ ◇ ◇
——三ヶ月後。
「柊さんのブログ、書籍化を検討したいのですが」
私は、丸の内にある出版社のロビーに立っていた。
匿名ブログ「眠れない夜のための手紙」。七年間、誰にも明かさず綴り続けてきた言葉たち。いつしかフォロワーは十万人を超え、出版社から声がかかった。
「あなたの言葉には、人を救う力があります」
担当編集者——三十代前半の落ち着いた女性——は、真っ直ぐに私を見つめた。
「傷ついた人、眠れない夜を過ごす人、生きることに疲れた人。そういう人たちの心に、あなたの文章は届いています。これを本という形にして、もっと多くの人に届けたいんです」
私は、ずっと信じられなかった。
会社では空気のような存在。元婚約者には「つまらない」と言われた。私に価値があるなんて、思えなかった。
でも——
「……やらせてください」
気づけば、そう答えていた。
打ち合わせを終え、ロビーを歩いていた時だった。
視界の端に、見覚えのあるものが映った。
——『蒼穹のリリカル』の宣伝ポスター。
アニメの放送が始まって一ヶ月。朝の住人の声優デビュー作は、評判を呼んでいた。「透夜役の声優さん、誰?」「新人らしいけど、めちゃくちゃいい」——ネットでそんな声を見るたび、私は胸が熱くなった。
ポスターに近づく。キャラクターの横に、出演声優たちの直筆コメントが添えられていた。
——その中に、見覚えのある筆跡を見つけた。
『皆さんの心に届く声を目指します。朝霧蓮』
「朝」の字。罫線から少しはみ出す独特の書き癖。払いがわずかに右上がりになる特徴。
——間違いない。
これは、朝の住人の字だ。
視界がぼやける。心臓がうるさいほど鳴っている。
朝霧蓮。それが、彼の名前。
顔も知らない隣人。言葉だけで繋がってきた相手。その人が、今、私の目の前にいる——ポスターの中で笑っている。
(……知ってしまった)
出版社を出て、ふらふらと歩いた。
本名は明かさない。顔を合わせない。それが私たちの約束だったのに。
でも——知りたかった。ずっと知りたかった。
あの声の主が、どんな顔で笑うのか。どんな表情で手紙を書いているのか。
帰宅して、パソコンを開いた。「朝霧蓮」で検索する。
——新人声優。二十六歳。『蒼穹のリリカル』で透夜役を担当。
インタビュー記事があった。
『最近読んで救われたものはありますか?』
『「眠れない夜のための手紙」というブログです。匿名の方が書いているんですが、言葉が、本当に優しくて。オーディション前夜、このブログを読んで勇気をもらいました』
——引用されていたのは、私が朝の住人への手紙に書いた言葉と、ほとんど同じフレーズだった。
『大丈夫。あなたの声には、人の心に寄り添う力があります』
涙が、止まらなかった。
私たちはもう、出会っている。
言葉で繋がり、言葉で支え合い、言葉で——
◇ ◇ ◇
震える手で、便箋にペンを走らせた。
これが、最後の手紙になるかもしれない。
『朝の住人さんへ。
長い間、手紙をありがとうございました。あなたとのやり取りは、私の人生で最も幸福な時間でした。
白状します。私は知ってしまいました。あなたが誰なのか。出版社のロビーで、あなたの筆跡を見つけてしまいました。
同時に、気づいています。あなたも、きっと気づいているのだと。
私の匿名ブログ。あなたがラジオで紹介していたと、聞きました。引用されていた言葉は、私があなたに宛てた手紙とほとんど同じでした。
私たちはきっと、もう出会っているのだと思います。
でも——怖いのです。
言葉だけで築いた関係が、現実に壊されることが。顔を合わせた瞬間、何かが失われてしまう気がして。
私は地味で、つまらなくて、華がない女です。元婚約者にそう言われて捨てられました。あなたの期待を裏切ってしまうかもしれない。
「文章は素敵だったのに、本人は大したことない」——そう思われるのが、何より怖い。
臆病で、ごめんなさい。
でも、これだけは伝えさせてください。
私はあなたの声に救われました。あなたの言葉に支えられました。あなたの存在が、私を生かしてくれました。
顔を合わせなくても、この気持ちは本物です。
——ずっと、あなたの隣にいたいと思っていました。
冬の隣人より』
ポストに手紙を入れた夜、私は泣いた。
怖かった。でも、嘘はつきたくなかった。
翌朝。ポストを開ける手が震えた。
——返事が、来ていた。
『冬の隣人さんへ。
僕も気づいていました。あなたが「眠れない夜のための手紙」の書き手だと。あなたの言葉の温度を、僕は知っています。手紙と、ブログと、同じ温度でした。
怖い、という気持ちは分かります。僕も同じです。
顔を合わせたら、全てが壊れてしまうかもしれない。言葉だけで築いた純粋な関係が、現実の重さに耐えられないかもしれない。
でも——僕は信じたい。
顔を合わせることで失われるものより、得られるものの方が大きいと。
言葉の向こうにいる「あなた」に、会いたい。どんな表情で手紙を書いているのか知りたい。あなたの声で「ありがとう」と言ってほしい。
明日の夜八時。アパートの屋上で待っています。
来てくれなくても構いません。その場合は、今まで通り手紙を続けましょう。あなたが望む限り、僕はあなたの隣人でいます。
でも——できれば、来てほしい。
臆病な僕らが、一歩を踏み出す夜にしませんか。
——あなたの朝の住人より
追伸。地味でも、つまらなくても、華がなくても、僕には関係ありません。僕はあなたの言葉に恋をしました。その言葉を紡ぐ人に、会いたいんです』
手紙を胸に抱きしめた。
明日。明日の夜。
——私は、行く。
◇ ◇ ◇
十一月の夜空には、冷たい月が浮かんでいた。
古びた非常階段を上る足が震える。心臓がうるさい。何度も引き返そうとした。
でも——
『僕はあなたの言葉に恋をしました』
あの言葉が、私を前に進ませた。
屋上のドアを開ける。冷たい風が頬を撫でた。
——そこに、人影があった。
月明かりの下、手紙の束を胸に抱いた青年が立っている。
整った顔立ち。柔らかな茶髪が風に揺れている。透き通るような肌。華やかな容姿——けれど、その目には見覚えがあった。
孤独を知る者の目。傷を抱えた者の目。
壁越しに何度も聴いた、あの声が聞こえた。
「……『冬の隣人』さん、ですよね」
低すぎず高すぎない、心地よく耳に残る響き。私を何度も励ましてくれた声。眠れない夜に寄り添ってくれた声。
涙が溢れた。
「……はい」
それだけ言うのが精一杯だった。
彼は——朝霧蓮は、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「僕、ずっと会いたかった」
手の中の手紙が、月光に照らされている。私が書いた文字。拙い言葉。でも、彼はそれを大切に抱えてくれていた。
「あなたの手紙を読むたび、明日を生きる力をもらいました。あなたの言葉がなかったら、僕はきっと声優を諦めていた」
「私こそ」
声が震えた。涙で前が見えない。
「私こそ、あなたの声に救われました。壁越しに聞こえてくる練習の声。誰かが頑張っている、その音が——私を生かしてくれました」
沈黙。
冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
「……地味でつまらない女で、ごめんなさい」
俯いた私の前で、彼が笑った。
「僕の目には、世界で一番綺麗に見えますよ」
顔を上げる。彼の目が、真っ直ぐに私を見ていた。
「言葉を紡ぐ時の、あなたの指先を想像していました。手紙を書く時の、あなたの表情を想像していました。——今、目の前にいるあなたは、想像よりずっと素敵です」
「……嘘」
「嘘じゃない」
彼は一歩、近づいた。
「僕は役者です。嘘を見抜く目は持ってるつもりです。——あなたが綺麗だというのは、僕にとっての真実です」
その言葉に、胸の奥で何かが溶けていく。
三年間、凍りついていた心が。
「……会えて、嬉しい」
私は笑った。涙を流しながら。
「私も——ずっと会いたかった。朝の住人さん」
「蓮って呼んでください」
「……じゃあ、真冬、って」
「真冬さん」
彼が——蓮さんが、私の名前を呼んだ。
その声は、壁越しに聴いた時よりずっと近くて、ずっと温かかった。
月明かりの下、私たちは向かい合って立っていた。
手紙ではなく、言葉で。声で。同じ空気を吸いながら。
「これからも、手紙を書いていいですか」
「もちろん。——でも、直接話すのも悪くないでしょう?」
「……そうですね」
私は頷いた。
隣人から、恋人へ。
言葉で繋がった私たちは、ようやく同じ場所に立った。
◇ ◇ ◇
——三ヶ月後。
『手紙を綴るように』——私の本が、書店に並んだ。
帯には、蓮の推薦文が添えられている。
『この言葉に、僕は救われました。眠れない夜を過ごすすべての人へ。——声優・朝霧蓮』
発売初週で重版が決定した。ネットでは「泣いた」「救われた」という声が溢れている。
私は、ようやく信じられるようになった。
私の言葉には、価値がある。
誰かの心に届く力がある。
「柊さん、ちょっといい?」
会社の給湯室で、声をかけられた。
振り返ると——和泉圭吾が立っていた。
「久しぶり。元気そうだね」
三ヶ月前、新しい婚約者を見せびらかしに来た男。けれど今日は、一人だった。
「……お久しぶりです。何か御用ですか」
「いや、その——」
圭吾は視線を泳がせた。以前のような傲慢さが、どこかへ消えている。
「実は、彩香と別れたんだ。婚約、解消になって」
「……そうですか」
驚きは、なかった。予感はあった。
「彼女、急に『あなたの中身が薄っぺらすぎる』って。俺の何が悪かったのか分からないけど——」
(分からないのか)
心の中で、静かに呟いた。
「それでさ、真冬。俺たち、やり直せないかな」
時間が止まった気がした。
三年前の私なら、どうしていただろう。泣いて喜んでいただろうか。許してしまっていただろうか。
でも——今の私は、違う。
「ごめんなさい」
私は穏やかに、けれどきっぱりと告げた。
「私にはもう、言葉で心を通わせてくれる人がいるんです」
「……は?」
圭吾が目を見開く。
「誰だよ。どこの誰だよ。真冬に男なんて——」
「あなたには関係のないことです」
遮った私に、圭吾は言葉を失った。
「三年前、あなたは私を『つまらない』と言いました。『華がない』と言いました。——その通りかもしれません」
一歩、下がる。
「でも、私の言葉を『救いだ』と言ってくれる人がいます。私の存在を『嬉しい』と言ってくれる人がいます。私には、それで十分です」
圭吾の顔が、みるみる青ざめていく。
「待てよ。俺は本気で——」
「もう遅いんです、和泉さん」
私は微笑んだ。
「さようなら。どうかお幸せに」
背を向けて歩き出す。追いかけてくる足音はなかった。
給湯室を出ると、スマートフォンが震えた。蓮からのメッセージだった。
『今日の収録、終わりました。帰りにケーキ買っていきます。何がいいですか?』
笑みがこぼれた。
『チーズケーキがいいです。一緒に食べましょう』
『了解。真冬さんの部屋? 僕の部屋?』
『……壁越しに声が聞こえる距離なら、どちらでも』
送信してから、少しだけ恥ずかしくなった。
でも、すぐに返事が来た。
『じゃあ、僕の部屋で。——早く会いたい』
私は小さく、「私も」と呟いた。
◇ ◇ ◇
【エピローグ】
桜が咲く季節になっていた。
築三十年の桜ヶ丘アパート。二〇三号室と二〇四号室。私たちは今も、隣同士に住んでいる。
「引っ越さないの?」と、同僚に聞かれたことがある。「恋人同士なら一緒に住めばいいのに」と。
——でも、私たちにはこの距離がちょうどいい。
壁越しに聞こえる生活音。朝の発声練習。夜に響くアニメのセリフ。その音を聞きながら、私は今日も手紙を書く。
直接話せばすぐ終わる内容も、あえて手紙にする時がある。言葉にすることで、気持ちはもっと深くなるから。
蓮の声優としてのキャリアは、順調に進んでいる。『蒼穹のリリカル』は大ヒットし、彼の名前は少しずつ知られるようになった。
先週のラジオで、彼はこう語っていた。
『僕には、一番の理解者がいます。顔も名前も知らない頃から、僕の声を信じてくれた人。その人の言葉がなかったら、僕は今ここにいません』
恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
でも、嬉しかった。
私の本『手紙を綴るように』は、三刷を突破した。「救われた」という手紙が、出版社に届き続けている。
会社では相変わらず「空気のような存在」だ。でも、それでいい。私の言葉は、必要な人のところに届いている。それで十分だ。
——ポストに、手紙が入っていた。
蓮からだ。隣の部屋にいるのに、わざわざ手紙をくれる。
封を開ける。
『真冬さんへ。
今日も隣にいてくれてありがとう。
壁越しに聞こえるあなたの生活音が、僕の日常を彩ってくれています。キーボードを打つ音。お湯を沸かす音。時々聞こえる小さなくしゃみ。
——全部、愛おしいです。
言葉にできない気持ちを、これからも手紙に託します。
いつか、「隣」じゃなくて「同じ部屋」になる日が来るかもしれません。でもその時も、手紙は続けましょう。言葉で繋がることの大切さを、僕たちは知っているから。
愛を込めて。
——あなたの隣人より』
追伸、と書いてあった。
『今夜、屋上で月を見ませんか。あの日と同じ場所で』
私は便箋を胸に抱いて、笑った。
返事を書こう。「行きます」と。「ずっと隣にいます」と。
言葉で始まった恋は、言葉で育ち続ける。
これが——私たちの、愛のかたち。
【Fin.】




