表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『お前といても何も面白くない』と婚約破棄された地味な私ですが、壁越しに聞こえる隣人の声に救われ、手紙だけで恋をしていたら——「もう遅いんです」と元婚約者に告げる日が来ました

作者: uta
掲載日:2026/03/16

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「お前といても何も面白くない。もっと華やかな人がいい」


——三年経った今でも、あの言葉は錆びた釘のように胸に刺さったままだ。


築三十年、家賃五万二千円。壁の薄さだけは近隣でも有名な桜ヶ丘アパート二〇三号室。私、柊真冬の城は、六畳一間のこの空間だけだった。


会社では「空気のような存在」と呼ばれている。七年間、誰よりも早く出社し、誰よりも丁寧に仕事をこなしてきた——つもりだ。けれど私は、誰の記憶にも残らない。


肩につくくらいの黒髪をいつも一つに結び、化粧も最低限。服装も無難なグレーやベージュばかり。華がない。つまらない。そう言われ続けてきた。


でも、誰も知らない。


私が匿名で綴り続けているブログ「眠れない夜のための手紙」に、十万人のフォロワーがいることを。顔も声も知らない人たちが、私の言葉を待っていてくれることを。


——言葉だけが、私の唯一の武器だった。



◇ ◇ ◇



十一月の雨が窓を叩く夜。


いつものように遅い夕食を終え、明日の資料に目を通していた時だった。


——すすり泣く声が、聞こえた。


最初は空耳かと思った。けれど確かに、隣の二〇四号室から微かな嗚咽が漏れ聞こえてくる。


(……泣いている)


私は知っている。この声を。


壁越しに聞こえてくる発声練習。低すぎず高すぎない、耳に心地よく残る独特の響き。「おはようございます」から始まり、時にはアニメのセリフらしきものを繰り返す、その声。


顔も名前も知らない。けれど孤独な夜、あの声に何度救われたか分からない。


誰かが懸命に何かと戦っている。その気配が、私を少しだけ強くしてくれていた。


(……でも、今日は)


嗚咽は止まない。静かに、けれど確実に、誰かの心が壊れていく音がする。


私は立ち上がった。


冷蔵庫を開け、買い置きのココアを取り出す。安いコンビニの紙パックだ。それから、仕事用のメモ帳を破り、ペンを握った。


何を書けばいいのか分からない。でも、言葉だけは——言葉だけは、私の唯一の武器だから。


『隣の者です。もしよければ、温かい飲み物でも。コンビニのココアですが、ポストに入れておきます』


迷った。こんなことをして気味悪がられないだろうか。お節介だと思われないだろうか。


でも、三年前の私が欲しかったのは、たった一言の優しさだった。


公衆の面前で婚約破棄を言い渡された夜。誰も手を差し伸べてくれなかった。誰も「大丈夫?」と言ってくれなかった。私は一人で、安いワインを飲んで、泣いて、それでも翌朝には何事もなかったように出社した。


——だから。


メモを折りたたみ、そっと隣室のドアの隙間に差し入れた。ココアはポストに。足音を忍ばせて、自分の部屋に戻る。


返事は期待していなかった。



◇ ◇ ◇



翌朝、出勤前にポストを開けた私は、息を呑んだ。


丁寧な字で書かれた便箋が入っていた。罫線から少しはみ出した「朝」の字が、どこか不器用で、温かかった。


『ありがとうございます。あなたの優しさに救われました。顔も名前も知らない隣人より』


——ああ。


繋がった、と思った。


会社では空気のような存在で、誰の印象にも残らない私。けれどこの瞬間、確かに誰かの心に届いた。


雨上がりの空は、少しだけ青かった。



◇ ◇ ◇



手紙のやり取りが始まって、二週間が経った。


週に二通から三通。最初は当たり障りのない内容だった。「今日は寒かったですね」「お仕事お疲れ様です」——そんな、どこにでもある言葉の交換。


けれど、文字には不思議な力がある。


声では言えないことが、指先からは流れ出す。表情を取り繕う必要がないから、心の奥底まで言葉にできる。


私は彼を『朝の住人』と呼ぶようになった。彼は私を『冬の隣人』と呼んだ。


『冬の隣人さんへ。今日、またオーディションに落ちました。「声は悪くないけど、華がない」と言われました。華って、なんでしょうね。僕の声には、ないそうです。——朝の住人より』


便箋を握りしめる手に、力がこもった。


華がない。その言葉を、私も知っている。


「お前といても何も面白くない」

「もっと華やかな人がいい」


三年前、和泉圭吾に投げつけられた言葉。同僚たちが見ている前で、笑いながら言い放たれた。


私には華がなかった。だから捨てられた。


——でも。


ペンを取る。


『朝の住人さんへ。あなたの声、聞いたことがあります。壁越しに漏れ聞こえる練習の声。私はその声に何度も励まされました。華がないなんて、嘘です。少なくとも私は、あなたの声に救われた夜があります。それは、真実です。——冬の隣人より』



◇ ◇ ◇



翌朝。ポストを開けると、いつもより分厚い封筒が入っていた。


『冬の隣人さん。僕は声優を目指しています。といっても、もう二十六歳で、目立った実績もなくて、実家からは「いい加減まともな仕事に就け」と言われ続けていて。正直、もう諦めようかと思っていました。でも、あなたの手紙を読んで、泣きました。僕の声を「救われた」と言ってくれた人は、あなたが初めてです。——ありがとうございます。もう少しだけ、頑張ってみます。朝の住人より』


追伸、と続いていた。


『お願いがあります。これからも手紙を続けてくれませんか。その代わり、ルールを決めましょう。——絶対に顔を合わせない。本名は明かさない。そうすれば、純粋に言葉だけで繋がれると思うんです』


私は微笑んだ。


言葉だけで繋がる。それは、私がずっと求めていたものだった。


会社では誰にも見てもらえない。存在を認識すらされない。けれど、匿名で綴り続けたブログには十万人のフォロワーがいる。顔も声も知らない人たちが、私の言葉を待っていてくれる。


——そう、言葉だけでいい。言葉だけで、人は繋がれる。


返事を書いた。


『朝の住人さんへ。約束します。私たちは、言葉だけの隣人でいましょう。——冬の隣人より』


その夜。壁越しに、発声練習の声が聞こえてきた。


いつもより少しだけ明るい声で、彼は繰り返していた。


「おはようございます。今日も頑張りましょう」


私は目を閉じて、その声に耳を傾けた。



◇ ◇ ◇



手紙のやり取りを始めて、一ヶ月が過ぎた頃。


「柊さん、これコピーお願い」

「柊さん、会議室の予約しておいて」

「柊さん——あれ、いたの?」


株式会社ヴェルデ・コーポレーション、総務部。私の職場だ。


七年間、この会社で働いてきた。毎日始発で出社し、誰よりも早く準備を整え、誰よりも丁寧に仕事をこなしてきた——つもりだ。


けれど私は、誰の記憶にも残らない。


「えーと、柊さんって何年目だっけ」と、入社二年目の後輩に聞かれたことがある。七年目です、と答えたら「え、マジっすか」と驚かれた。


存在感がない。華がない。空気のような女。


——分かっている。自分でも。


その日も、いつものようにデスクで書類を整理していた。昼休みの賑やかなオフィス。私だけが静かにサンドイッチを齧っている。


そこに、聞き覚えのある声が響いた。


「久しぶりだね、皆さん」


心臓が、凍りついた。


——和泉圭吾。


三年前、私を捨てた男が、にこやかな笑顔でオフィスに立っていた。


「いやあ、ちょっと近くまで来たからさ。元気にしてる?」


隣には、華やかな女性が腕を組んでいた。ブランドもののワンピース、完璧にセットされた髪、自信に満ちた笑顔。


——見せびらかしに来たのだ。新しい婚約者を。


「紹介するよ、僕の婚約者。来月には式を挙げるんだ」


周囲がざわめく。「おめでとうございます」「お似合いですね」という声が飛び交う。


私は俯いたまま、書類に視線を落としていた。気づかれませんように。このまま空気でいられますように——


「あれ、真冬もまだいたんだ」


——見つかった。


圭吾は私のデスクまで歩いてきて、にやりと笑った。


「相変わらず地味だね。三年経っても何も変わってないんだ」


周囲の視線が集まる。好奇と憐憫が混じった目。ああ、この女が例の——という囁き。


「……お久しぶりです」


声が震えそうになるのを、必死に抑えた。


「元気にしてた? まあ、真冬は元気もなにも変化ないか。ずっとこのまんまって感じだよね」


笑い声。同僚たちの中には、気まずそうに目を逸らす人もいたけれど、誰も助けてはくれない。


「お前さ、まだ独り身なんだろ? まあ、そうだよな。お前みたいな地味な女、誰も選ばないもんな」


(……昔なら、泣いていた)


三年前の私なら、トイレに駆け込んで泣いていただろう。自分の価値のなさを突きつけられて、消えてしまいたくなっていただろう。


でも——


『あなたの言葉に救われました』


朝の住人の手紙が、脳裏をよぎる。


『僕の声を「救われた」と言ってくれた人は、あなたが初めてです』


——私の言葉には、価値がある。


少なくとも、一人の人間を救える力がある。たとえ圭吾に認められなくても、会社で空気扱いされても、私の言葉を待っている人がいる。


「……そうですね」


私は静かに答えた。


「私は変わっていないかもしれません。でも、それでいいと思っています」


圭吾は一瞬、面食らったような顔をした。


「……は? 何それ」


「お幸せに、和泉さん。婚約おめでとうございます」


丁寧に頭を下げて、私は書類を持って席を立った。


背中に突き刺さる視線を感じながら、給湯室へ向かう。


——大丈夫。私は、大丈夫だ。


ポケットの中には、今朝届いた手紙が入っていた。


『今日、大きなオーディションがあります。あなたの言葉を胸に、挑んできます。——朝の住人より』


彼も今、戦っているのだ。


なら私も、逃げない。



◇ ◇ ◇



数日後。


ポストを開けた私は、震える手で便箋を取り出した。


『冬の隣人さんへ。


受かりました。


信じられません。三次審査まであったオーディションで、最終的に僕が選ばれました。役は——『蒼穹のリリカル』という新作アニメの重要キャラクター、主人公の兄役です。


審査員に言われました。「君の声には、聴く人の心に寄り添う温かさがある」と。


その瞬間、僕はあなたのことを考えていました。


「あなたの声に救われた」と言ってくれた、顔も知らない隣人のことを。


あなたのおかげです。本当に。


——朝の住人より』


手紙を読み終えた時、私は泣いていた。


嬉しかった。心の底から。


誰かの夢が叶う瞬間を、こんなに近くで見届けられるなんて。しかもそれが、私の言葉がきっかけだったなんて。


——『蒼穹のリリカル』。


その名前に、見覚えがあった。


検索してみる。来期放送予定の新作アニメ。制作は大手スタジオ。原作は人気ライトノベル。


——私が、密かに追いかけていた作品だった。


原作を読んで、心を打たれた。主人公の兄は、穏やかで優しく、けれど誰にも言えない孤独を抱えたキャラクターだ。


その役を、朝の住人が演じる。


壁越しに聴いていたあの声が、大好きなキャラクターに命を吹き込む。


胸が熱くなった。


『朝の住人さんへ。


おめでとうございます。本当に、本当におめでとうございます。


実は——『蒼穹のリリカル』、私も大好きな作品です。原作を何度も読み返しました。主人公の兄、透夜のセリフは、いつも私の胸に刺さります。


あなたの声で透夜が聴ける。こんなに嬉しいことはありません。


夢を諦めなくて、本当によかった。あなたの声には、人の心に寄り添う力があります。きっとこれから、もっとたくさんの人を救うでしょう。


私は、あなたの最初のファンとして、ずっと応援しています。


——冬の隣人より』


ポストに手紙を入れた夜。


壁越しに、彼の声が聞こえてきた。


セリフの練習だ。原作で読んだことのある、透夜のセリフ。


「——大丈夫。俺が傍にいる」


その声を聴きながら、私は目を閉じた。


傍にいる。顔を合わせたことはない。名前すら知らない。でも確かに、彼は私の傍にいてくれた。


同時に、胸の奥で何かが疼いた。


——会いたい。


その声の主の顔が見たい。どんな表情でこの声を出しているのか知りたい。


でも。


『絶対に顔を合わせない。本名は明かさない』


私たちが決めたルール。このルールがあるから、私たちは純粋に言葉だけで繋がれている。


——このままでいい。このままがいい。


そう自分に言い聞かせながら、私は手紙を書き続けた。



◇ ◇ ◇



——三ヶ月後。


「柊さんのブログ、書籍化を検討したいのですが」


私は、丸の内にある出版社のロビーに立っていた。


匿名ブログ「眠れない夜のための手紙」。七年間、誰にも明かさず綴り続けてきた言葉たち。いつしかフォロワーは十万人を超え、出版社から声がかかった。


「あなたの言葉には、人を救う力があります」


担当編集者——三十代前半の落ち着いた女性——は、真っ直ぐに私を見つめた。


「傷ついた人、眠れない夜を過ごす人、生きることに疲れた人。そういう人たちの心に、あなたの文章は届いています。これを本という形にして、もっと多くの人に届けたいんです」


私は、ずっと信じられなかった。


会社では空気のような存在。元婚約者には「つまらない」と言われた。私に価値があるなんて、思えなかった。


でも——


「……やらせてください」


気づけば、そう答えていた。


打ち合わせを終え、ロビーを歩いていた時だった。


視界の端に、見覚えのあるものが映った。


——『蒼穹のリリカル』の宣伝ポスター。


アニメの放送が始まって一ヶ月。朝の住人の声優デビュー作は、評判を呼んでいた。「透夜役の声優さん、誰?」「新人らしいけど、めちゃくちゃいい」——ネットでそんな声を見るたび、私は胸が熱くなった。


ポスターに近づく。キャラクターの横に、出演声優たちの直筆コメントが添えられていた。


——その中に、見覚えのある筆跡を見つけた。


『皆さんの心に届く声を目指します。朝霧蓮』


「朝」の字。罫線から少しはみ出す独特の書き癖。払いがわずかに右上がりになる特徴。


——間違いない。


これは、朝の住人の字だ。


視界がぼやける。心臓がうるさいほど鳴っている。


朝霧蓮。それが、彼の名前。


顔も知らない隣人。言葉だけで繋がってきた相手。その人が、今、私の目の前にいる——ポスターの中で笑っている。


(……知ってしまった)


出版社を出て、ふらふらと歩いた。


本名は明かさない。顔を合わせない。それが私たちの約束だったのに。


でも——知りたかった。ずっと知りたかった。


あの声の主が、どんな顔で笑うのか。どんな表情で手紙を書いているのか。


帰宅して、パソコンを開いた。「朝霧蓮」で検索する。


——新人声優。二十六歳。『蒼穹のリリカル』で透夜役を担当。


インタビュー記事があった。


『最近読んで救われたものはありますか?』


『「眠れない夜のための手紙」というブログです。匿名の方が書いているんですが、言葉が、本当に優しくて。オーディション前夜、このブログを読んで勇気をもらいました』


——引用されていたのは、私が朝の住人への手紙に書いた言葉と、ほとんど同じフレーズだった。


『大丈夫。あなたの声には、人の心に寄り添う力があります』


涙が、止まらなかった。


私たちはもう、出会っている。


言葉で繋がり、言葉で支え合い、言葉で——



◇ ◇ ◇



震える手で、便箋にペンを走らせた。


これが、最後の手紙になるかもしれない。


『朝の住人さんへ。


長い間、手紙をありがとうございました。あなたとのやり取りは、私の人生で最も幸福な時間でした。


白状します。私は知ってしまいました。あなたが誰なのか。出版社のロビーで、あなたの筆跡を見つけてしまいました。


同時に、気づいています。あなたも、きっと気づいているのだと。


私の匿名ブログ。あなたがラジオで紹介していたと、聞きました。引用されていた言葉は、私があなたに宛てた手紙とほとんど同じでした。


私たちはきっと、もう出会っているのだと思います。


でも——怖いのです。


言葉だけで築いた関係が、現実に壊されることが。顔を合わせた瞬間、何かが失われてしまう気がして。


私は地味で、つまらなくて、華がない女です。元婚約者にそう言われて捨てられました。あなたの期待を裏切ってしまうかもしれない。


「文章は素敵だったのに、本人は大したことない」——そう思われるのが、何より怖い。


臆病で、ごめんなさい。


でも、これだけは伝えさせてください。


私はあなたの声に救われました。あなたの言葉に支えられました。あなたの存在が、私を生かしてくれました。


顔を合わせなくても、この気持ちは本物です。


——ずっと、あなたの隣にいたいと思っていました。


冬の隣人より』


ポストに手紙を入れた夜、私は泣いた。


怖かった。でも、嘘はつきたくなかった。


翌朝。ポストを開ける手が震えた。


——返事が、来ていた。


『冬の隣人さんへ。


僕も気づいていました。あなたが「眠れない夜のための手紙」の書き手だと。あなたの言葉の温度を、僕は知っています。手紙と、ブログと、同じ温度でした。


怖い、という気持ちは分かります。僕も同じです。


顔を合わせたら、全てが壊れてしまうかもしれない。言葉だけで築いた純粋な関係が、現実の重さに耐えられないかもしれない。


でも——僕は信じたい。


顔を合わせることで失われるものより、得られるものの方が大きいと。


言葉の向こうにいる「あなた」に、会いたい。どんな表情で手紙を書いているのか知りたい。あなたの声で「ありがとう」と言ってほしい。


明日の夜八時。アパートの屋上で待っています。


来てくれなくても構いません。その場合は、今まで通り手紙を続けましょう。あなたが望む限り、僕はあなたの隣人でいます。


でも——できれば、来てほしい。


臆病な僕らが、一歩を踏み出す夜にしませんか。


——あなたの朝の住人より


追伸。地味でも、つまらなくても、華がなくても、僕には関係ありません。僕はあなたの言葉に恋をしました。その言葉を紡ぐ人に、会いたいんです』


手紙を胸に抱きしめた。


明日。明日の夜。


——私は、行く。



◇ ◇ ◇



十一月の夜空には、冷たい月が浮かんでいた。


古びた非常階段を上る足が震える。心臓がうるさい。何度も引き返そうとした。


でも——


『僕はあなたの言葉に恋をしました』


あの言葉が、私を前に進ませた。


屋上のドアを開ける。冷たい風が頬を撫でた。


——そこに、人影があった。


月明かりの下、手紙の束を胸に抱いた青年が立っている。


整った顔立ち。柔らかな茶髪が風に揺れている。透き通るような肌。華やかな容姿——けれど、その目には見覚えがあった。


孤独を知る者の目。傷を抱えた者の目。


壁越しに何度も聴いた、あの声が聞こえた。


「……『冬の隣人』さん、ですよね」


低すぎず高すぎない、心地よく耳に残る響き。私を何度も励ましてくれた声。眠れない夜に寄り添ってくれた声。


涙が溢れた。


「……はい」


それだけ言うのが精一杯だった。


彼は——朝霧蓮は、ゆっくりと歩み寄ってきた。


「僕、ずっと会いたかった」


手の中の手紙が、月光に照らされている。私が書いた文字。拙い言葉。でも、彼はそれを大切に抱えてくれていた。


「あなたの手紙を読むたび、明日を生きる力をもらいました。あなたの言葉がなかったら、僕はきっと声優を諦めていた」


「私こそ」


声が震えた。涙で前が見えない。


「私こそ、あなたの声に救われました。壁越しに聞こえてくる練習の声。誰かが頑張っている、その音が——私を生かしてくれました」


沈黙。


冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。


「……地味でつまらない女で、ごめんなさい」


俯いた私の前で、彼が笑った。


「僕の目には、世界で一番綺麗に見えますよ」


顔を上げる。彼の目が、真っ直ぐに私を見ていた。


「言葉を紡ぐ時の、あなたの指先を想像していました。手紙を書く時の、あなたの表情を想像していました。——今、目の前にいるあなたは、想像よりずっと素敵です」


「……嘘」


「嘘じゃない」


彼は一歩、近づいた。


「僕は役者です。嘘を見抜く目は持ってるつもりです。——あなたが綺麗だというのは、僕にとっての真実です」


その言葉に、胸の奥で何かが溶けていく。


三年間、凍りついていた心が。


「……会えて、嬉しい」


私は笑った。涙を流しながら。


「私も——ずっと会いたかった。朝の住人さん」


「蓮って呼んでください」


「……じゃあ、真冬、って」


「真冬さん」


彼が——蓮さんが、私の名前を呼んだ。


その声は、壁越しに聴いた時よりずっと近くて、ずっと温かかった。


月明かりの下、私たちは向かい合って立っていた。


手紙ではなく、言葉で。声で。同じ空気を吸いながら。


「これからも、手紙を書いていいですか」


「もちろん。——でも、直接話すのも悪くないでしょう?」


「……そうですね」


私は頷いた。


隣人から、恋人へ。


言葉で繋がった私たちは、ようやく同じ場所に立った。



◇ ◇ ◇



——三ヶ月後。


『手紙を綴るように』——私の本が、書店に並んだ。


帯には、蓮の推薦文が添えられている。


『この言葉に、僕は救われました。眠れない夜を過ごすすべての人へ。——声優・朝霧蓮』


発売初週で重版が決定した。ネットでは「泣いた」「救われた」という声が溢れている。


私は、ようやく信じられるようになった。


私の言葉には、価値がある。


誰かの心に届く力がある。


「柊さん、ちょっといい?」


会社の給湯室で、声をかけられた。


振り返ると——和泉圭吾が立っていた。


「久しぶり。元気そうだね」


三ヶ月前、新しい婚約者を見せびらかしに来た男。けれど今日は、一人だった。


「……お久しぶりです。何か御用ですか」


「いや、その——」


圭吾は視線を泳がせた。以前のような傲慢さが、どこかへ消えている。


「実は、彩香と別れたんだ。婚約、解消になって」


「……そうですか」


驚きは、なかった。予感はあった。


「彼女、急に『あなたの中身が薄っぺらすぎる』って。俺の何が悪かったのか分からないけど——」


(分からないのか)


心の中で、静かに呟いた。


「それでさ、真冬。俺たち、やり直せないかな」


時間が止まった気がした。


三年前の私なら、どうしていただろう。泣いて喜んでいただろうか。許してしまっていただろうか。


でも——今の私は、違う。


「ごめんなさい」


私は穏やかに、けれどきっぱりと告げた。


「私にはもう、言葉で心を通わせてくれる人がいるんです」


「……は?」


圭吾が目を見開く。


「誰だよ。どこの誰だよ。真冬に男なんて——」


「あなたには関係のないことです」


遮った私に、圭吾は言葉を失った。


「三年前、あなたは私を『つまらない』と言いました。『華がない』と言いました。——その通りかもしれません」


一歩、下がる。


「でも、私の言葉を『救いだ』と言ってくれる人がいます。私の存在を『嬉しい』と言ってくれる人がいます。私には、それで十分です」


圭吾の顔が、みるみる青ざめていく。


「待てよ。俺は本気で——」


「もう遅いんです、和泉さん」


私は微笑んだ。


「さようなら。どうかお幸せに」


背を向けて歩き出す。追いかけてくる足音はなかった。


給湯室を出ると、スマートフォンが震えた。蓮からのメッセージだった。


『今日の収録、終わりました。帰りにケーキ買っていきます。何がいいですか?』


笑みがこぼれた。


『チーズケーキがいいです。一緒に食べましょう』


『了解。真冬さんの部屋? 僕の部屋?』


『……壁越しに声が聞こえる距離なら、どちらでも』


送信してから、少しだけ恥ずかしくなった。


でも、すぐに返事が来た。


『じゃあ、僕の部屋で。——早く会いたい』


私は小さく、「私も」と呟いた。



◇ ◇ ◇



【エピローグ】


桜が咲く季節になっていた。


築三十年の桜ヶ丘アパート。二〇三号室と二〇四号室。私たちは今も、隣同士に住んでいる。


「引っ越さないの?」と、同僚に聞かれたことがある。「恋人同士なら一緒に住めばいいのに」と。


——でも、私たちにはこの距離がちょうどいい。


壁越しに聞こえる生活音。朝の発声練習。夜に響くアニメのセリフ。その音を聞きながら、私は今日も手紙を書く。


直接話せばすぐ終わる内容も、あえて手紙にする時がある。言葉にすることで、気持ちはもっと深くなるから。


蓮の声優としてのキャリアは、順調に進んでいる。『蒼穹のリリカル』は大ヒットし、彼の名前は少しずつ知られるようになった。


先週のラジオで、彼はこう語っていた。


『僕には、一番の理解者がいます。顔も名前も知らない頃から、僕の声を信じてくれた人。その人の言葉がなかったら、僕は今ここにいません』


恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。


でも、嬉しかった。


私の本『手紙を綴るように』は、三刷を突破した。「救われた」という手紙が、出版社に届き続けている。


会社では相変わらず「空気のような存在」だ。でも、それでいい。私の言葉は、必要な人のところに届いている。それで十分だ。


——ポストに、手紙が入っていた。


蓮からだ。隣の部屋にいるのに、わざわざ手紙をくれる。


封を開ける。


『真冬さんへ。


今日も隣にいてくれてありがとう。


壁越しに聞こえるあなたの生活音が、僕の日常を彩ってくれています。キーボードを打つ音。お湯を沸かす音。時々聞こえる小さなくしゃみ。


——全部、愛おしいです。


言葉にできない気持ちを、これからも手紙に託します。


いつか、「隣」じゃなくて「同じ部屋」になる日が来るかもしれません。でもその時も、手紙は続けましょう。言葉で繋がることの大切さを、僕たちは知っているから。


愛を込めて。


——あなたの隣人より』


追伸、と書いてあった。


『今夜、屋上で月を見ませんか。あの日と同じ場所で』


私は便箋を胸に抱いて、笑った。


返事を書こう。「行きます」と。「ずっと隣にいます」と。


言葉で始まった恋は、言葉で育ち続ける。


これが——私たちの、愛のかたち。



【Fin.】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ