帰り道、手をつないで
軍病院を出たところで、宗右真が「ほら」と、手を差し出してきた。
左久夜はきょとんと、その手のひらを見る。
意味が分からなかった。 一つ思い当たるのは、宗右真が持っている自分の荷物。
「何? かばんの運び賃、取るつもり? だったら、自分で持つから返して」
手さげを引ったくろうとした途端、こちらに向けられていた手のひらは拳になって、コツンと脳天に落とされた。
痛くなくても「痛い!」と言うのは、条件反射。
「手だよ。手を出せ!」
「何で?」
「つかまれって意味だろうが。ほら」
再び差し出された手を、左久夜は、ただただ見る。
宗右真と手をつなぐのは、何年ぶりになるのだろう。
できるものなら、左久夜も手をつなぎたい。でも、そう思うだけで、もう胸が破裂しそうなくらいバクバクしてしまって。自分から手を重ねるなんて、とても無理。宗右真の手に触れるには、勇気が足らなかった。
子供の頃は、手をつなぐのも抱きつくのも、好きだって口にするのも、簡単だったのに。それが今では、栄語の試験で満点をとる以上に、難しくなってしまった。
「もう、全然、平気だって」
左久夜は、手を取らずに歩き出そうとしたが。その寸前、宗右真に手をつかまれた。
「さっさと帰るぞ」
宗右真はそのまま、左久夜の手を引いて、歩き出す。さっさと帰ると言ったのに、歩く速さはゆっくりとしている。
左久夜はドキドキしながら、ほんの少し、指先に力を入れて、手を握り返してみた。ゴツゴツとした指先と、手のひらの温かさ。体中の感覚が右手に集まったような気分。そこにばかり、意識がいってしまう。いつものくだらない話も出てこない。
家まで十五分。その間、左久夜は無言のまま歩いた。
次に左久夜が口を開いたのは、玄関まであと少しの所。
「どうしたの?」
ふと足を止めた宗右真に、左久夜は尋ねる。
「まだ咲いてるんだな」
宗右真は、土塀の向こうに視線を向けていた。見上げているのは、夜空に枝を伸ばした八重桜。花が球状にかたまって咲いている、遅咲きの桜だった。
宗右真は、しばらく桜を見上げていたかと思ったら。
「『紅の一重の花は小桜や』」
不意に、歌を口ずさんだ。桜の品種を並べて詠まれたもので、父の好きだった歌だ。
そこへ左久夜も声を合わせる。
「『枝は柳の糸桜。はみるはもなき、うば桜』」
桜家には、その家名の通り、色々な種類の桜を植えてあり、春になると観桜会が開かれた。
酔っ払った父が、この歌を延々と口ずさみ、しつこくからむのが恒例ともなっていた。
それを、宗右真も思い出していたのか。その横顔には、微苦笑が浮かんでいた。
ひらりと花びらが舞い落ちる。
それを追いかけるように、再び、宗右真は歩き出した。
玄関先まで来て、宗右真の手が離れていく。現金なもので、離されると今度は名残惜しい気分になる。
宗右真が玄関の戸を開けて、左久夜の背を押した。左久夜は玄関の中に入り、振り返る。
「夕飯、食べてく?」
先ほどの八重桜は、丁度、客間から見える所にある。しかし、宗右真は首を振って答えた。
「先約がある」
「え、誰?」
「トラ」
「なんだ、トラちゃんか」
よく知った名前に、左久夜はほっと胸をなでおろす。
椿木寅は、華族十三家である椿家の次期当主で、二人の幼なじみだ。きっと、二人で酒を飲むのだろう。
「だったら、さっきだって、そう言ってくれればよかったのに」
「言ったところで、うちに来るって言うだろうが。お前は何かと、すぐ、トラを当てにするし、トラはトラでお前に甘いしな」
「だって、」
「何度も言うが、お前は倒れたんだ。せめて、今日くらいは大人してろ」
「はぁい」
「じゃあな。おやすみ」
自ら玄関を閉めて、宗右真は行った。
翌日、左久夜が起きたのは、昼すぎだった。体は自分で思っている以上に、疲れていたらしい。
「それで、体はどうなの? まだ具合が悪いなら、往診に来てもらう?」
母のカホルが聞いてきた。
「もう、大丈夫。昨日は寝不足で、ちょっと、ふらついただけだから」
左久夜は、これ以上の心配をかけないように笑う。
「そう。よかった」
カホルが、ほっとしたように息をついた。
母は、左久夜が当主を継ぐと言った時、反対しなかった。だからと言って、心配していないわけでもないようで。初陣のあとには、左久夜がどんな様子だったか、宗右真に話を聞きに行っていたらしい。あとから宗右真に聞いた話だ。
「それはそうと、体調が悪いのなら、ちゃんと、宗右真君には言っておきなさい。迷惑がかかるでしょう」
「……はい」
左久夜は、しおらしく返事する。
「お昼ご飯は、食べられる?」
「お腹、ペコペコ!」
「あんパンなら、すぐに用意ができるけど」
あんパンは、左久夜の大好物。すぐさま「食べる!」と、飛びついた。
しかもカホルが出したのは、人気のパン屋、森村屋のもの。他店より少しお高めで、女学生の左久夜には気軽に手に取ることができないけど。昨日、ちゃんとお役目を果たしたご褒美に、カホルが買ってきてくれたのかもしれない。
「いただきます」
手を合わせてから、左久夜は、ゆっくりと食べ始めた。
「んー、おいし!」
さすが、帝都でも一、二を争う人気店のパンは違う。ふかふかのパン生地に、上品なこしあんの甘さ。ご褒美にふさわしい。
それをゆっくり味わっていると、カホルが笑った。
「さっきね、お昼休みに、宗右真君が様子を見に来てくれたわよ」
「え? 本当?」
「よく寝てたから、起こさなかったけど。それ、宗右真君から」
カホルが指さしたのは、左久夜がかぶりついていたあんパンだった。
「ちゃんとお礼、言っておきなさい。あんたの好物だから、わざわざ買って来てくれたのよ、きっと」
左久夜は小さくうなずいた。




