はやる心
「……ク……おい! サク!」
誰かが呼んでいる。
「……サク姉!」
左久夜は、その声で目が覚めた。
「んぅ?」
自分の部屋の文机。辞書に教科書。筆記用具。その一つ一つが目に入るごとに、頭もはっきりしてくる。
(そうだ、栄語の課題をしてて……)
開いた本には、栄語の物語がつづられている。カタリーナとペトルーキオは、その中の登場人物だ。訳に悩んでいるうちに、眠ってしまったらしい。いつの間にか日が暮れて、辺りは薄暗くなっていた。
「サク姉?」
顔を上げると、左希斗が心配そうに覗きこんでくる。最近、この弟は、ちょっと生意気で、誰の真似をしているのか、『おい、サク』なんて、呼ぶこともあったが。
「お前、うなされてたぞ」
「……あぁ、うん。夢を見て、」
「夢?」
「ソウちゃんが、死んで……」
自分の言葉に、ありありと、倒れた宗右真の姿を思い出す。心臓がビクリと震え、胸がぎゅうっと締めつけられたように、苦しくなった。
「っ!」
左久夜は、勢いよく立ちあがる。
「おい、何だよ?」
戸惑っている左希斗に答えず、部屋を出た。
心臓が早鐘を打ち、左久夜を急かす。居ても立ってもいられなかった。今すぐ、宗右真の顔が見たい。
玄関の手前で、母親と鉢合わせる。行く手をふさがれる格好になった。
「こんな時間に、どこ行くの?」
「ソウちゃんち!」
「ご飯は?」
「置いといて!」
「……遅くならないうちに、帰って来るのよ」
ため息混じりのカホルに、左久夜は「分かってる!」と、家を飛び出した。
左久夜は、ワンピースの裾をはためかせて走る。
とにかく宗右真に会いたい。あんなの、ただの悪い夢だ。宗右真は無事だと、確認したい。
鱗屋根の洋館まで必死に走ると、玄関の明り取り窓から、常夜灯の光が漏れていた。いつもと同じく、玄関の鍵は開いていて、靴がきちんと揃えてある。これに、ひとまず、左久夜はほっとした。
「ソウちゃん!」
いつものように呼びかける。しかし、いつまで経っても返事がない。家の中は静まり返っている。
一人暮しの彼が、鍵を開けたまま、外出するはずがない。もしかしたら、二階にいるのかも。今度は階段の上に向かって、少し大きめに呼んでみるが、やっぱり、返事はなかった。
(……何で?)
不安が一気に膨らんでいく。その時。家の奥の方で、がたがたと物音がした。
左久夜は大きく息を吸ってから、あらん限りに叫ぶ。
「ソウちゃん! いるなら返事して! ソウちゃん!」
「うるせぇ‼」
初めにその声があって、次に廊下の先の角から、どたどたと宗右真が出て来た。
安堵したのも、つかの間。左久夜は宗右真の姿に、そのまま硬直してしまった。
「何だよ!」
宗右真が、鬱陶しそうに前髪をかき上げる。その毛先から、ぽたぽたとしずくが落ちる。どうやら、風呂に入っていたらしい。急いで出てきたのだろう。
浴衣の胸元が鎖骨から腹筋まで、大きくはだけていた。
普段、見ることのない姿に、耳がかあっと熱くなる。
「あ、え、」
左久夜は、ぱくぱくと空気をかんで、固まってしまった。と、不意に、宗右真の左の鎖骨辺りに、黒ずんだあざのようなものがちらりと見えた。
左久夜の視線に気づいたのか、宗右真はさっと襟を直して、肩を隠してしまう。
「それ、怪我、したの?」
「封呪の紋」
「あぁ、そっか」
そう言えば、前にも話を聞いたことがあった。左久夜は、ほっと胸をなでおろす。
「で、何なんだ?」
「え?」
「だから、何の用で来たのかって、聞いてんだ」
「あ……ううん、何でも、ない」
左久夜は、自分のつま先を見ながら、首を振った。宗右真を確認できたのだから、目的は達成した。もう帰ろうと思っていた。
しかし。
「何でもなかったら、うちには来ねぇだろ」
そう言って、宗右真は納得しない。
「また、カホルさんとケンカしたのか?」
「え?」
「学校帰りでもねぇし、栄語の課題も持ってねぇ。晩飯が目当てのはずもねぇしな。そしたら、あとはケンカだろ? 前みたいに、カホルさんとケンカして、飛び出して来たんじゃねぇのか」
「あ、……うん」
理由を言うのもためらいがあって、左久夜はそういうことにした。カホルには、心の中で謝っておく。
「お風呂、入ってたんだ」
左久夜が何気なく言うと、
「疲れてんだよ」
宗右真は、ぶすっとした声で答える。
「どいつもこいつも、面倒事を押しつけやがって」
ブツブツと文句を言って、最後には「あのバカどもめ」と舌打ちした。こういう時の宗右真は、触らぬ神にたたりなしというやつだ。
「ごめん……帰る」
「おい、こら」
それと同時に、腕を掴まれていた。
「お前なぁ、カホルさんとケンカしたんだろう? 晚飯は食ったのか?」
左久夜は、正直に首を振った。それまでは何ともなかったのに、途端に空腹を覚える。
「上がってけ」
「でも、疲れてるんじゃない?」
「あいつらに比べたら、お前一人、どうってことねぇよ。丸久で弁当、詰めてもらったから、食ってけ」
「でも、それって、ソウちゃんの晩ご飯でしょ?」
「でもでも、うるせぇ。とっとと入れ!」
左久夜は力ずくで、家の中へ引きずりこまれた。




